「突き抜けてください」
これが、編集長からの要望。
いや、命令!
「突き抜ける」とはどういうことなのか。
過激?
逸脱?
非常識?
逆説?
要するにハチャメチャ?
それでいて、
共感を呼ばなきゃ話にならない。
つまり、売れない。
ここが思案のしどころ。
旅の空の下、何を想う?
迎合しないこと、
当たり前のことを書かない、
受け売りはもちろんのこと、
既存のことを書かない、
あくまでも自分のオリジナル。
まったく新しいこと。
誰も思いつかなかったこと。
そういったことが、
それがどれだけ読書の心を打つか、響くか。
「愛」と、「教え」と、「ユーモア」。
これが文脈に流れる三大要素。
なるほど!と読者の腑に落ちなければならない。
つまり、目からウロコ。
ウーン(゜-゜)
思考錯誤の連続。
まずは、
ここを突き抜けなければ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
突き詰めれば、
「何のために生まれてきたのか」、
「何を残して死ぬか」という命題にぶつかる。
「青春時代」は、
何も考えず、
がむしゃらに生きていた。、
無謀だった。
怖いものがなかった。
守るものもなかった。
自分のことだけ考えていればよかった。
そうした中で、
これから何をすればいいのかに迷っていたような気がする。
恋も、部活も、勉強も、遊びも、就活もとにかくがむしゃらだった。
壁にぶつかり、
悩み苦しんだ。
思い通りにならないことにもがいた。
そして結果はいつも失敗だらけだった。
「老春時代」は、
因果応報の原則を知り、
こうやればこうなる、という手順みたいなものが
おぼろげながら見えてくる。
その結果、
「結局、自分の役割は何だったのか」、
「これまで一体何を演じてきたのか」、
そして、「どうやって死ぬか」、に尽きる。
そういう意味では、
「青春時代」よりがむしゃらだ。
なぜなら、
甘いも酸いも噛み締めて、
常に死を意識しているから。
相変わらず、迷いはあるけど。
(惑いはない)
「青春時代」は『生』、
つまりどう生きるかという命題に向かって
模索し、必死で生きてきた。
もう一つの『性』も興味深かった。
だが、
「老春時代」は、『死』に向かって
人生の落とし前をどうつけるかという命題を突き付けられながら
これまた模索しながら歩み続けているのだはなかろうか。
相変わらず、『性』という課題を背負いながら。
そう考えると、
人生とは、いくつになっても新たな命題を突き付けられ、
常に迷いの中にあるのではないかと思わざるを得ない。
そんなこんなを頭の中でめぐらしながら、
今日もキーボードを打ち続ける。
【補足】
孔子の曰く
「吾、15にして学に志し、30にして立ち、40にして惑わず、50にして天命を知る。
60にして耳順(耳にしたがう)、70にして心の欲するところに従って矩(のり)をこえず」
今や人生100年時代。
我が人生に当てはめると、
30にして独立し、
40にて転地し、
50にして世界一周を達成し、
60にして離婚し、
今後、
70にして孔子の域に達するかもしれない。
つまり、
「欲望のまま(自分が思うがまま)に行動しても、
人の道にはずれることがない(正道から外れない)」
これは、「悟り」まではいかなくても、
「達観」の域にあることを意味するであろう。
いわゆる
「甘いも酸いも噛み分ける」事のできるほど
人生経験(ビジネス、男女関係)が豊富で、
何があっても微動だにせず、
どんな局面でも適切な対処ができるようになることである。
それが、
80,90ともなれば、
ますます円熟味を増すのであろう。
思うに、
誰しも、そしていつの時代(年代)も
自分の思うが儘、欲望のままに生きたいと願ってきたわけで。
ところが、
それがなかなか叶わず、
むしろ思い通りに行かず、
頭を掻きむしり、
絶望の淵へと追い込まれることしばしばである。
受験に失敗、ビジネスに失敗、
恋に敗れ、結婚に失敗する。
それこそが、
「甘いも酸いも噛み分ける」
貴重な体験になるわけで、
これらの道程を経て初めて
また再び欲望のままに生きても、人としての道を踏み外さなくなるのである。
ところが、
若い時、30代、40代にこうした経験をしてこなかった人間は、
60,70になって案外人の道を踏み外すものである。
さて、
我が「老春時代」は、
相変わらず欲望の趣くままに生き、
『性』に拘り、
例え、いい年をして道を踏み外しても
修正可能であるべくサバイバル力を付けることに重きを置く。
もちろん、法を犯さない程度(つまり、グレーゾーン)ではあるが、
不道徳、不謹慎なるものを推奨して止まない。
(ベトナムを「自由の国」、日本を「束縛の国」と感じるのは
その為かもしれない)
つまり、
人の道を踏み外してこそ
実は、人生面白いのである。
公人、有名人の不倫やセクハラ問題などがマスコミを賑わすのも
氷山の一角に過ぎないだろう。
それほど、人生はドロドロしたものであり、
またそのほうが断然面白いのである。
あくまでも、その試練を乗り越えなければならないが。
畢竟、
面白いとは、冒険であり、リスクを伴うものである。
さて、
そんなこんな妄想に駆られながらペンを執っているわけで、
一向に文章がまとまらない。
ブログならまだしも、
本となるとそういう訳にはいかないのだ。
未だいい年をして惑いの中にどっぷり浸っている。
実に困ったものである。
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過激?
逸脱?
非常識?
逆説?
要するにハチャメチャ?
それでいて、
共感を呼ばなきゃ話にならない。
つまり、売れない。
ここが思案のしどころ。
旅の空の下、何を想う?
迎合しないこと、
当たり前のことを書かない、
受け売りはもちろんのこと、
既存のことを書かない、
あくまでも自分のオリジナル。
まったく新しいこと。
誰も思いつかなかったこと。
そういったことが、
それがどれだけ読書の心を打つか、響くか。
「愛」と、「教え」と、「ユーモア」。
これが文脈に流れる三大要素。
なるほど!と読者の腑に落ちなければならない。
つまり、目からウロコ。
ウーン(゜-゜)
思考錯誤の連続。
まずは、
ここを突き抜けなければ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
突き詰めれば、
「何のために生まれてきたのか」、
「何を残して死ぬか」という命題にぶつかる。
「青春時代」は、
何も考えず、
がむしゃらに生きていた。、
無謀だった。
怖いものがなかった。
守るものもなかった。
自分のことだけ考えていればよかった。
そうした中で、
これから何をすればいいのかに迷っていたような気がする。
恋も、部活も、勉強も、遊びも、就活もとにかくがむしゃらだった。
壁にぶつかり、
悩み苦しんだ。
思い通りにならないことにもがいた。
そして結果はいつも失敗だらけだった。
「老春時代」は、
因果応報の原則を知り、
こうやればこうなる、という手順みたいなものが
おぼろげながら見えてくる。
その結果、
「結局、自分の役割は何だったのか」、
「これまで一体何を演じてきたのか」、
そして、「どうやって死ぬか」、に尽きる。
そういう意味では、
「青春時代」よりがむしゃらだ。
なぜなら、
甘いも酸いも噛み締めて、
常に死を意識しているから。
相変わらず、迷いはあるけど。
(惑いはない)
「青春時代」は『生』、
つまりどう生きるかという命題に向かって
模索し、必死で生きてきた。
もう一つの『性』も興味深かった。
だが、
「老春時代」は、『死』に向かって
人生の落とし前をどうつけるかという命題を突き付けられながら
これまた模索しながら歩み続けているのだはなかろうか。
相変わらず、『性』という課題を背負いながら。
そう考えると、
人生とは、いくつになっても新たな命題を突き付けられ、
常に迷いの中にあるのではないかと思わざるを得ない。
そんなこんなを頭の中でめぐらしながら、
今日もキーボードを打ち続ける。
【補足】
孔子の曰く
「吾、15にして学に志し、30にして立ち、40にして惑わず、50にして天命を知る。
60にして耳順(耳にしたがう)、70にして心の欲するところに従って矩(のり)をこえず」
今や人生100年時代。
我が人生に当てはめると、
30にして独立し、
40にて転地し、
50にして世界一周を達成し、
60にして離婚し、
今後、
70にして孔子の域に達するかもしれない。
つまり、
「欲望のまま(自分が思うがまま)に行動しても、
人の道にはずれることがない(正道から外れない)」
これは、「悟り」まではいかなくても、
「達観」の域にあることを意味するであろう。
いわゆる
「甘いも酸いも噛み分ける」事のできるほど
人生経験(ビジネス、男女関係)が豊富で、
何があっても微動だにせず、
どんな局面でも適切な対処ができるようになることである。
それが、
80,90ともなれば、
ますます円熟味を増すのであろう。
思うに、
誰しも、そしていつの時代(年代)も
自分の思うが儘、欲望のままに生きたいと願ってきたわけで。
ところが、
それがなかなか叶わず、
むしろ思い通りに行かず、
頭を掻きむしり、
絶望の淵へと追い込まれることしばしばである。
受験に失敗、ビジネスに失敗、
恋に敗れ、結婚に失敗する。
それこそが、
「甘いも酸いも噛み分ける」
貴重な体験になるわけで、
これらの道程を経て初めて
また再び欲望のままに生きても、人としての道を踏み外さなくなるのである。
ところが、
若い時、30代、40代にこうした経験をしてこなかった人間は、
60,70になって案外人の道を踏み外すものである。
さて、
我が「老春時代」は、
相変わらず欲望の趣くままに生き、
『性』に拘り、
例え、いい年をして道を踏み外しても
修正可能であるべくサバイバル力を付けることに重きを置く。
もちろん、法を犯さない程度(つまり、グレーゾーン)ではあるが、
不道徳、不謹慎なるものを推奨して止まない。
(ベトナムを「自由の国」、日本を「束縛の国」と感じるのは
その為かもしれない)
つまり、
人の道を踏み外してこそ
実は、人生面白いのである。
公人、有名人の不倫やセクハラ問題などがマスコミを賑わすのも
氷山の一角に過ぎないだろう。
それほど、人生はドロドロしたものであり、
またそのほうが断然面白いのである。
あくまでも、その試練を乗り越えなければならないが。
畢竟、
面白いとは、冒険であり、リスクを伴うものである。
さて、
そんなこんな妄想に駆られながらペンを執っているわけで、
一向に文章がまとまらない。
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