・13歳の千恵さんへの手紙(大人になった千恵から)
今、毎日が地獄のような日々ですね。・・・
でも大丈夫。踏み止まれるよ。・・・
やがて大人になったあなたは、心を病んで、何度も自殺未遂をします。
親の愛情に飢えたあなたはたくさんの人に愛を求めては、裏切られ、
心は傷だらけになるでしょう。虐待の後遺症にも、ひどく苦しむでしょう。
長い年月、虐待の後遺症は医者にも誰にも理解してもらえないでしょう。・・・
でも大丈夫。あなたは幸運にも、素晴らしい希望の宝物を3つもっているの、
この3つの希望の宝物のおかげで、あなたは回復することができるでしょう。
1つ目の宝物は、5歳まで愛情たっぷりに育てられた刹那の記憶。・・・
幼い頃に大人たちに愛情深く温かく包み込まれた体験ほど、
大人になり人生の苦境に立ったときに、
土台となり勇気づけてくれるものはないのです。
2つ目の宝物は、生まれ育った明るい性格。
明かるいあなたを好いて、たくさんの人が応援してくれる、幸せな大人になれるでしょう。
多くの人に愛情をもらえて、いつしか心の深い傷も言えるでしょう。
3つ目の宝物は、まっすぐな一生懸命さ。・・・
前向きに努力し続けるあなたは、いつしか、何があっても大丈夫、
と自信を持って強く生きていくことができるでしょう。
13歳のわたしに、この本を送ります。
・悲惨な結婚生活を知った母の両親は、「子どもを堕ろせ」と頻繁に忠告にやってきたのだ、それでも、お前を生んだのだ・・・母は幾度となく、わたしにその話をしました。・・・
母は一度は私の堕胎を決意します。しかし妊娠3か月をとうに過ぎており、医者から「もう中絶できない」と言われたそうです。
・「ちえが悪いからミツオ(義父)さんに厳しく怒られるんや」
母は、いつもそういいました。
・やがてミツオさんは、まだ小学校低学年だったわたしに、家事全般、特に料理を毎日作るように強制しました。
「女は家事ができないとダメだ。料理は女の仕事だ」・・・
「さっさとしな!」と怒鳴りつけ、わたしにきつく当たることもありました。
パートの仕事をしながら子育てと家事をすべてさせられていた母には、
料理は楽しいものだと娘に教える余裕はなかったのでしょう。
大人になった今でも、料理をしようとすると圧迫感に襲われます。
台所に立つことが苦痛でなりません。
・小学生低学年の頃から、洗濯物をたたむのも、わたしの仕事になりました。・・・
「テレビを観ながらたたむな!」と突然怒鳴られました。
・ミツオさんはその頃より、二言目には、「ちえは頭が悪い」と罵るようになりました。
そのたびにわたしは、自分は頭が悪いのだ、他の子よりも劣っているのだという呪いにかかり、
言われるたびに自信をなくしていきました。
・なぜ真面目な女の人ほど、ダメな男を支えちゃうんだろう。
・優しかった母までもわたしを傷つけた。
母の顔色をうかがうことは、父の顔色をうかがうことの何倍も、しんどい気持ちになりました。
・「朝、髪はとかすな」
鏡を見ることも(ミツオさんから)怒鳴られるようになっていきました。
・毎日服を着替えず、髪をとかさなければ、学校でいじめにあう。
毎日着替えて、髪をとかせば、父親から、殺されるほどの虐待にある。
・12歳で自殺を考えた。
一度は、大型トラックの前に飛び出して自殺すれば楽になれるのではないかと考え、
道路の真ん中に立ってみたこともありました。
・12歳のわたしと4歳の妹で、夜間二人だけ置き去りにされることもしょっちゅうでした。
母はユウジさん(三人目の父親)のための食事は作りましたが、
娘たちの食事をまったく作らなくなり、毎夜、テーブルの上に千円札を一枚置いて出て行きました。
・高校に進学した春、母は再び、離婚しました。そしてまたすぐに新し男性を家に呼び寄せたのです。・・・
ある日突然家に入ってきて、無理やりパパと呼ばされ、性的な嫌がらせも我慢しながら、
なんとかユウジさんいも慣れてきた中学3年のわたしは、
母があっけなく「あんな男はいらん」と言い捨てたことに失望しました。
・胸にナイフをしのばせて、未差別殺人をする自分の姿を思い浮かべ、社会への恨みを晴らしたいと何度も想像しました。
しかし、そうした犯罪を犯したいという衝動に駆られるたびに、
5歳まで可愛がってくれた祖父母や、親戚のおじさん、おばさんの顔が浮かびました。
人間、犯罪を実際に犯してしまうか、ギリギリでブレーキがかかるかの違いは、
「思い出のなかに振り返る顔があるかないか」だとわたしは思います。
・再び不登校になり、高校は中退
・高校中退者がどうすれば大学受験できるのかを一生懸命調べて、大学入学資格検定を受験。
さらに貸与型奨学金を借りて、地元の兵庫県から北海道の帯広の国立大学への進学を決めました。
帯広の大学から合格通知を受け取ったとき、生まれて初めて、自分の背中に羽根が生えたような気持になりました。
・命を脅かすいじめっ子、母、その男たちという存在がようやくいなくなったというのに、
大学1年生の頃にはもう、うつ症状などの気分変動の激しさが現れ始めました。
新しい人と出会ったときは極端に緊張し、汗だくになり固まってしまいます。・・・。
同級生と普通にコミュニケーションが取れないことで、
さらに精神は落ち込み、様々な症状に悩まされるようになりました。
・自殺未遂から医療保護入院に
入院初日から、私は閉鎖病棟の保護室に入れられました。
まるで刑務所の檻のような、鉄格子の柵がある小さな部屋でした。
・その閉鎖病棟へは計3回入院し、入院期間は最長で約50日間に及びました。
・一度信頼し友人関係になっても、どうせわたしはすぐにその関係を壊してしまう。
ならば、最初から友達なんか作らないほうが、わたしはこころの安定を手に入れられる。
貸与型奨学金を借り足して、大学院(修士課程)まで進学しました。
学部と異なり、大学院では、業績が優秀であれば、
貸与型奨学金が免除される制度があったため、それを目指して勉学に必死で励みました。
そして大学院を無事に卒業し、貸与型奨学金220万円は全額免除になりました。
しかし、大学6年間、ずっと精神不安は続きました。
・他人や友人がどうであれ、自分の人生には直接的には関係ないことです。
それならば友人の幸せを嫉妬するのではなく、一緒になって喜んだ方が、自分のこころも幸せな気持ちで満たされる。
この考え方の方が生きていく上で得だなと思うようになってから、
「他人との比較」という苦しみから解放された自分がいました。
・大学院の修士課程2年のとき、就職先を探しますが、
自分の野生動物の研究を生かせる求人はほとんどなく、あっても狭き門でした。
専門外の仕事でもいいかと思い、求人サイトに登録し仕事を検索しますが、
どの仕事にも興味が湧かず、どんあ仕事をするのかイメージもできませんでした。・・・
ついに、大学院在学中に就職先が決まるという結果には至らず、無職のまま卒業してしまったのです。
・大学院まで卒業したのにアルバイトで生活するという状況は、本当に惨めでした。
・誰にも頼らない、と決めたはずなのに、でも、
どんどん人を切っていくたびに自分の魂もずたずたに切られていくようでした。
古本屋に行って自己啓発本を何冊も買ってきては、生きていく答えや自身の在り処を探して貪り読みました。
・25歳で、わたしは、生活保護となりました。
その後の半年間はほぼ寝たきりの引きこもりになりました。
・悪戦苦闘の末、非正規雇用ですが、何とかひとり暮らしができるだけの仕事が見つかり、
生活保護から抜け出すことができたのです。
動物園の飼育員の臨時職員でした。
決まった仕事は1年契約でしたが、臨時職員とはいえ、生き物に触れることができ、
自分の専門性の活かせる仕事に就けたことは飛び上がるほど嬉しく、希望に満ち溢れていました。
・その後、低賃金で不安定な非正規雇用からも抜け出したいと思い、働きながら転職活動をつづけました。・・・
その甲斐もあって1年後、ようやく市役所に正規職員で転職が叶いました。職種も博物館の専門職の学芸員です。
・その間、過去に精神科で辛い経験があるにもかかわらず、再び精神科へもかかっていました。・・・。
病院を変わるたびに違う病名をつけられました。
36歳になった現在、障害者枠ではなく一般枠でなんとか職に就けてフルタイムで働きましたが、
病気の悪化で失業を繰り返しています。
この本は、約1年前から働きながら夜や休日に執筆して来ました。
この春から、足りない分の生活費を生活保護から賄い、働ける日は働き、
生活保護に頼りながら、最後の執筆を進めています。
大学の学部の頃に借りた奨学金の約500万円は、まだ返済できる見込みはありません。
・この症状は、白川美也子先生の『赤ずきんとオオカミのトラウマ・ケア』と言う本で、
「サバイバーミッション」という症状だと知りました。
トラウマから生きのびた人が、
トラウマを抱えた他の人を助けることを使命だと思い込んでしまうことがよく起きるそうです。
・人間関係とは、鏡のようなものだということを、この時知りました。
笑顔で話しかければ、笑顔でわたしに返してくれる。
自分が明るければ、明るい友人が集まってきてくれる。
おそらく、幼児期に学習するであろう、この人間関係の基本の基を、わたしは、30歳で知ったのです。
・虐待という名の、負の連鎖が我が家に続いていることに気づき始めたのは、
母が自分の子ども時代の家庭の悲惨さと、わたしを比較して、「おまえの方がマシだ」とわめき出した頃です。
・この物語を書くことで、過去の母との出来事がわたしのなかで整理でき、
図らずもトラウマの処理をすることができたのだと思います。
感想;
虐待はその後もトラウマとして人を苦しめるのでしょう。
著者も少しずつ学ばれて行かれたようですが、いまだに苦しい思いをされ、そのために人間関係に問題が起き、そして仕事を辞めていくことを繰り返されています。
愛着障害もあり、お父さん的な人を求めて、また壊れていくときもあったようです。
愛に飢え、求めてもそれに十分こたえてくれる人がいなかったようです。
また逆に、その求めが大きすぎて応えられないというより、恐くなって去っていく人もいたようです。
小さい時から周りの支援、社会の支援がなかったようです。
幸せになって欲しいです。
千恵さんを理解し受け容れる懐の大きいパートナーに巡り合えると良いのですが。
今、毎日が地獄のような日々ですね。・・・
でも大丈夫。踏み止まれるよ。・・・
やがて大人になったあなたは、心を病んで、何度も自殺未遂をします。
親の愛情に飢えたあなたはたくさんの人に愛を求めては、裏切られ、
心は傷だらけになるでしょう。虐待の後遺症にも、ひどく苦しむでしょう。
長い年月、虐待の後遺症は医者にも誰にも理解してもらえないでしょう。・・・
でも大丈夫。あなたは幸運にも、素晴らしい希望の宝物を3つもっているの、
この3つの希望の宝物のおかげで、あなたは回復することができるでしょう。
1つ目の宝物は、5歳まで愛情たっぷりに育てられた刹那の記憶。・・・
幼い頃に大人たちに愛情深く温かく包み込まれた体験ほど、
大人になり人生の苦境に立ったときに、
土台となり勇気づけてくれるものはないのです。
2つ目の宝物は、生まれ育った明るい性格。
明かるいあなたを好いて、たくさんの人が応援してくれる、幸せな大人になれるでしょう。
多くの人に愛情をもらえて、いつしか心の深い傷も言えるでしょう。
3つ目の宝物は、まっすぐな一生懸命さ。・・・
前向きに努力し続けるあなたは、いつしか、何があっても大丈夫、
と自信を持って強く生きていくことができるでしょう。
13歳のわたしに、この本を送ります。
・悲惨な結婚生活を知った母の両親は、「子どもを堕ろせ」と頻繁に忠告にやってきたのだ、それでも、お前を生んだのだ・・・母は幾度となく、わたしにその話をしました。・・・
母は一度は私の堕胎を決意します。しかし妊娠3か月をとうに過ぎており、医者から「もう中絶できない」と言われたそうです。
・「ちえが悪いからミツオ(義父)さんに厳しく怒られるんや」
母は、いつもそういいました。
・やがてミツオさんは、まだ小学校低学年だったわたしに、家事全般、特に料理を毎日作るように強制しました。
「女は家事ができないとダメだ。料理は女の仕事だ」・・・
「さっさとしな!」と怒鳴りつけ、わたしにきつく当たることもありました。
パートの仕事をしながら子育てと家事をすべてさせられていた母には、
料理は楽しいものだと娘に教える余裕はなかったのでしょう。
大人になった今でも、料理をしようとすると圧迫感に襲われます。
台所に立つことが苦痛でなりません。
・小学生低学年の頃から、洗濯物をたたむのも、わたしの仕事になりました。・・・
「テレビを観ながらたたむな!」と突然怒鳴られました。
・ミツオさんはその頃より、二言目には、「ちえは頭が悪い」と罵るようになりました。
そのたびにわたしは、自分は頭が悪いのだ、他の子よりも劣っているのだという呪いにかかり、
言われるたびに自信をなくしていきました。
・なぜ真面目な女の人ほど、ダメな男を支えちゃうんだろう。
・優しかった母までもわたしを傷つけた。
母の顔色をうかがうことは、父の顔色をうかがうことの何倍も、しんどい気持ちになりました。
・「朝、髪はとかすな」
鏡を見ることも(ミツオさんから)怒鳴られるようになっていきました。
・毎日服を着替えず、髪をとかさなければ、学校でいじめにあう。
毎日着替えて、髪をとかせば、父親から、殺されるほどの虐待にある。
・12歳で自殺を考えた。
一度は、大型トラックの前に飛び出して自殺すれば楽になれるのではないかと考え、
道路の真ん中に立ってみたこともありました。
・12歳のわたしと4歳の妹で、夜間二人だけ置き去りにされることもしょっちゅうでした。
母はユウジさん(三人目の父親)のための食事は作りましたが、
娘たちの食事をまったく作らなくなり、毎夜、テーブルの上に千円札を一枚置いて出て行きました。
・高校に進学した春、母は再び、離婚しました。そしてまたすぐに新し男性を家に呼び寄せたのです。・・・
ある日突然家に入ってきて、無理やりパパと呼ばされ、性的な嫌がらせも我慢しながら、
なんとかユウジさんいも慣れてきた中学3年のわたしは、
母があっけなく「あんな男はいらん」と言い捨てたことに失望しました。
・胸にナイフをしのばせて、未差別殺人をする自分の姿を思い浮かべ、社会への恨みを晴らしたいと何度も想像しました。
しかし、そうした犯罪を犯したいという衝動に駆られるたびに、
5歳まで可愛がってくれた祖父母や、親戚のおじさん、おばさんの顔が浮かびました。
人間、犯罪を実際に犯してしまうか、ギリギリでブレーキがかかるかの違いは、
「思い出のなかに振り返る顔があるかないか」だとわたしは思います。
・再び不登校になり、高校は中退
・高校中退者がどうすれば大学受験できるのかを一生懸命調べて、大学入学資格検定を受験。
さらに貸与型奨学金を借りて、地元の兵庫県から北海道の帯広の国立大学への進学を決めました。
帯広の大学から合格通知を受け取ったとき、生まれて初めて、自分の背中に羽根が生えたような気持になりました。
・命を脅かすいじめっ子、母、その男たちという存在がようやくいなくなったというのに、
大学1年生の頃にはもう、うつ症状などの気分変動の激しさが現れ始めました。
新しい人と出会ったときは極端に緊張し、汗だくになり固まってしまいます。・・・。
同級生と普通にコミュニケーションが取れないことで、
さらに精神は落ち込み、様々な症状に悩まされるようになりました。
・自殺未遂から医療保護入院に
入院初日から、私は閉鎖病棟の保護室に入れられました。
まるで刑務所の檻のような、鉄格子の柵がある小さな部屋でした。
・その閉鎖病棟へは計3回入院し、入院期間は最長で約50日間に及びました。
・一度信頼し友人関係になっても、どうせわたしはすぐにその関係を壊してしまう。
ならば、最初から友達なんか作らないほうが、わたしはこころの安定を手に入れられる。
貸与型奨学金を借り足して、大学院(修士課程)まで進学しました。
学部と異なり、大学院では、業績が優秀であれば、
貸与型奨学金が免除される制度があったため、それを目指して勉学に必死で励みました。
そして大学院を無事に卒業し、貸与型奨学金220万円は全額免除になりました。
しかし、大学6年間、ずっと精神不安は続きました。
・他人や友人がどうであれ、自分の人生には直接的には関係ないことです。
それならば友人の幸せを嫉妬するのではなく、一緒になって喜んだ方が、自分のこころも幸せな気持ちで満たされる。
この考え方の方が生きていく上で得だなと思うようになってから、
「他人との比較」という苦しみから解放された自分がいました。
・大学院の修士課程2年のとき、就職先を探しますが、
自分の野生動物の研究を生かせる求人はほとんどなく、あっても狭き門でした。
専門外の仕事でもいいかと思い、求人サイトに登録し仕事を検索しますが、
どの仕事にも興味が湧かず、どんあ仕事をするのかイメージもできませんでした。・・・
ついに、大学院在学中に就職先が決まるという結果には至らず、無職のまま卒業してしまったのです。
・大学院まで卒業したのにアルバイトで生活するという状況は、本当に惨めでした。
・誰にも頼らない、と決めたはずなのに、でも、
どんどん人を切っていくたびに自分の魂もずたずたに切られていくようでした。
古本屋に行って自己啓発本を何冊も買ってきては、生きていく答えや自身の在り処を探して貪り読みました。
・25歳で、わたしは、生活保護となりました。
その後の半年間はほぼ寝たきりの引きこもりになりました。
・悪戦苦闘の末、非正規雇用ですが、何とかひとり暮らしができるだけの仕事が見つかり、
生活保護から抜け出すことができたのです。
動物園の飼育員の臨時職員でした。
決まった仕事は1年契約でしたが、臨時職員とはいえ、生き物に触れることができ、
自分の専門性の活かせる仕事に就けたことは飛び上がるほど嬉しく、希望に満ち溢れていました。
・その後、低賃金で不安定な非正規雇用からも抜け出したいと思い、働きながら転職活動をつづけました。・・・
その甲斐もあって1年後、ようやく市役所に正規職員で転職が叶いました。職種も博物館の専門職の学芸員です。
・その間、過去に精神科で辛い経験があるにもかかわらず、再び精神科へもかかっていました。・・・。
病院を変わるたびに違う病名をつけられました。
36歳になった現在、障害者枠ではなく一般枠でなんとか職に就けてフルタイムで働きましたが、
病気の悪化で失業を繰り返しています。
この本は、約1年前から働きながら夜や休日に執筆して来ました。
この春から、足りない分の生活費を生活保護から賄い、働ける日は働き、
生活保護に頼りながら、最後の執筆を進めています。
大学の学部の頃に借りた奨学金の約500万円は、まだ返済できる見込みはありません。
・この症状は、白川美也子先生の『赤ずきんとオオカミのトラウマ・ケア』と言う本で、
「サバイバーミッション」という症状だと知りました。
トラウマから生きのびた人が、
トラウマを抱えた他の人を助けることを使命だと思い込んでしまうことがよく起きるそうです。
・人間関係とは、鏡のようなものだということを、この時知りました。
笑顔で話しかければ、笑顔でわたしに返してくれる。
自分が明るければ、明るい友人が集まってきてくれる。
おそらく、幼児期に学習するであろう、この人間関係の基本の基を、わたしは、30歳で知ったのです。
・虐待という名の、負の連鎖が我が家に続いていることに気づき始めたのは、
母が自分の子ども時代の家庭の悲惨さと、わたしを比較して、「おまえの方がマシだ」とわめき出した頃です。
・この物語を書くことで、過去の母との出来事がわたしのなかで整理でき、
図らずもトラウマの処理をすることができたのだと思います。
感想;
虐待はその後もトラウマとして人を苦しめるのでしょう。
著者も少しずつ学ばれて行かれたようですが、いまだに苦しい思いをされ、そのために人間関係に問題が起き、そして仕事を辞めていくことを繰り返されています。
愛着障害もあり、お父さん的な人を求めて、また壊れていくときもあったようです。
愛に飢え、求めてもそれに十分こたえてくれる人がいなかったようです。
また逆に、その求めが大きすぎて応えられないというより、恐くなって去っていく人もいたようです。
小さい時から周りの支援、社会の支援がなかったようです。
幸せになって欲しいです。
千恵さんを理解し受け容れる懐の大きいパートナーに巡り合えると良いのですが。