20歳、夜明けのスキャットが大ヒット
お姉さんと童謡を一緒に歌う。
古い歌のチャート全米第一位。
コンサアート今は40本/年。多い時は126本/年だった。
30年童謡のコンサートを姉と一緒にやってきた。10本/年ほど。後のコンサートは一人で。
大人の歌い手で初めて歌った4曲の1曲。高校生の時。「ある恋の物語」
童謡歌手から大人の歌を。
童謡歌手から脱皮。
人の前で歌わないと上手くならないと言われて、銀座のジャズ喫茶を紹介してもらった。
高校時代銀座で歌手修行。20時くらいに終わる。母が迎えに来ていた。
母はまだわかかったので、ホステスに勧誘された。それからは母は喫茶店で待つようになった。
兄はマサチューセッツ工科大学、姉は芸大。私は流行歌手。
姉は5歳違いで早くから童謡歌手でヒット。
姉に付いていくことがあった。お姉さんは鈴のような声。
私は?と尋ねると皆さん止まって、そして「味のある声」と。
「夜明けのスキャット」を二十歳で。150万枚の大ヒット。
高校2年生の時、上手く行かなくて、契約を解除して欲しいと言って、でも1年ほど音沙汰がなかった。そして1年後に解雇の連絡があった。
どこかの事務所に行くのではと思われていたのかと。凄い挫折を味わった。
ダバダバとか言葉を出すのが流行っていた。
いずみたくさんの曲ができたので、自由に歌いやすい言葉を乗せて欲しいと言われた。
ルーラーパーなどは自ら考えた。破裂音を4つ続けとおかしくなる。
破裂音の代わりに溜息を。
これでいずみたくさんの前で歌った。
これに言葉を付ければ売れるといずみたくさんが言われて、シングルとしてレコードが出た。
30代から姉と童謡コンサート。実は30代で低迷期を経験した。
自腹でNHKホールを借りて15周年コンサートをやろうと思った。
一人では荷が重いしと思ったら、母が「姉と一緒に歌ったら」と言われて一緒にやった。
姉は「マイクはじゃまだ」と。でも私はマイクは必要。
母が歌手人生を導いてくれた。
姉と一緒に歌えるのは幸せだなと思う。
時代とともに新しいものが生まれる。
きちっとした日本語は使えるようにして欲しいな。
ちいさな秋みつけた の魅力
想像することがなくなった。
ちいさな秋 はどんな秋?
季節の移ろい。夏になると入道雲。
夏から秋へのちいさな変化。鈴虫の鳴き声がちいさな秋。
隅田川をがーと歌う。鼻濁音のがで歌う。
みずやあけぼの 露浴びて
美しい日本の歌に調子を付けていた。
5年前アルバムが大ヒット。
トーマスさんが私の古いアルバムを見つけた。
そのレコード店に私のアルバムを売った人がいる。
「どうもありがとう」と言いたい。
海外で日本語で歌ったのに最後はスタンディングオベーション
これまでやったことに無駄がなかったと思った。
紅白に落とされ、復帰し、また落とされ、今度はポートランドから中継で紅白と。
2曲目は歌詞の切なさに惹かれる曲。
テレサ・テン「別れの予感」
歌詞の体験は私生活ではまったくないけど。笑
彼女42歳で旅立った。今も元気ならどんな歌を歌っていただろう。
姉はO型、私はA型。
姉はそうじゃないといい加減。それにカリカリしていた。
そしたら母が「同じ血液型だったら大変でしょう。姉はOKしてくれるんだから楽でしょう」と。
感想;
一つひとつはバラバラでもいつかそれがつながって大きな形になることがあります。
由紀さおりさんは米国の音楽の聖堂と言われるところで歌われ実感されたようです。
その時その時を精一杯やって来られたからでしょう。
米国の店に由紀さおりのアルバムを売った人がいなかったら米国での活躍もなかったのでしょう。
女神が微笑んだのですが、それまでやってきたら女神の微笑みをチャンスにされたのだと思います。
その努力なしに女神の微笑みを生かすことはできないでしょう。
自分の人生にどんな女神の微笑みがあるか。
それを信じて、今ここでできることを精一杯していく。
お姉さんと童謡を一緒に歌う。
古い歌のチャート全米第一位。
コンサアート今は40本/年。多い時は126本/年だった。
30年童謡のコンサートを姉と一緒にやってきた。10本/年ほど。後のコンサートは一人で。
大人の歌い手で初めて歌った4曲の1曲。高校生の時。「ある恋の物語」
童謡歌手から大人の歌を。
童謡歌手から脱皮。
人の前で歌わないと上手くならないと言われて、銀座のジャズ喫茶を紹介してもらった。
高校時代銀座で歌手修行。20時くらいに終わる。母が迎えに来ていた。
母はまだわかかったので、ホステスに勧誘された。それからは母は喫茶店で待つようになった。
兄はマサチューセッツ工科大学、姉は芸大。私は流行歌手。
姉は5歳違いで早くから童謡歌手でヒット。
姉に付いていくことがあった。お姉さんは鈴のような声。
私は?と尋ねると皆さん止まって、そして「味のある声」と。
「夜明けのスキャット」を二十歳で。150万枚の大ヒット。
高校2年生の時、上手く行かなくて、契約を解除して欲しいと言って、でも1年ほど音沙汰がなかった。そして1年後に解雇の連絡があった。
どこかの事務所に行くのではと思われていたのかと。凄い挫折を味わった。
ダバダバとか言葉を出すのが流行っていた。
いずみたくさんの曲ができたので、自由に歌いやすい言葉を乗せて欲しいと言われた。
ルーラーパーなどは自ら考えた。破裂音を4つ続けとおかしくなる。
破裂音の代わりに溜息を。
これでいずみたくさんの前で歌った。
これに言葉を付ければ売れるといずみたくさんが言われて、シングルとしてレコードが出た。
30代から姉と童謡コンサート。実は30代で低迷期を経験した。
自腹でNHKホールを借りて15周年コンサートをやろうと思った。
一人では荷が重いしと思ったら、母が「姉と一緒に歌ったら」と言われて一緒にやった。
姉は「マイクはじゃまだ」と。でも私はマイクは必要。
母が歌手人生を導いてくれた。
姉と一緒に歌えるのは幸せだなと思う。
時代とともに新しいものが生まれる。
きちっとした日本語は使えるようにして欲しいな。
ちいさな秋みつけた の魅力
想像することがなくなった。
ちいさな秋 はどんな秋?
季節の移ろい。夏になると入道雲。
夏から秋へのちいさな変化。鈴虫の鳴き声がちいさな秋。
隅田川をがーと歌う。鼻濁音のがで歌う。
みずやあけぼの 露浴びて
美しい日本の歌に調子を付けていた。
5年前アルバムが大ヒット。
トーマスさんが私の古いアルバムを見つけた。
そのレコード店に私のアルバムを売った人がいる。
「どうもありがとう」と言いたい。
海外で日本語で歌ったのに最後はスタンディングオベーション
これまでやったことに無駄がなかったと思った。
紅白に落とされ、復帰し、また落とされ、今度はポートランドから中継で紅白と。
2曲目は歌詞の切なさに惹かれる曲。
テレサ・テン「別れの予感」
歌詞の体験は私生活ではまったくないけど。笑
彼女42歳で旅立った。今も元気ならどんな歌を歌っていただろう。
姉はO型、私はA型。
姉はそうじゃないといい加減。それにカリカリしていた。
そしたら母が「同じ血液型だったら大変でしょう。姉はOKしてくれるんだから楽でしょう」と。
感想;
一つひとつはバラバラでもいつかそれがつながって大きな形になることがあります。
由紀さおりさんは米国の音楽の聖堂と言われるところで歌われ実感されたようです。
その時その時を精一杯やって来られたからでしょう。
米国の店に由紀さおりのアルバムを売った人がいなかったら米国での活躍もなかったのでしょう。
女神が微笑んだのですが、それまでやってきたら女神の微笑みをチャンスにされたのだと思います。
その努力なしに女神の微笑みを生かすことはできないでしょう。
自分の人生にどんな女神の微笑みがあるか。
それを信じて、今ここでできることを精一杯していく。
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