英の放電日記

将棋、スポーツ、テレビ等、日々感じること。発信というより放電に近い戯言。

金環食

2012-05-21 22:20:18 | 気象
 今日は金環食でした
 「ね」が赤字で太字ということに気がつき、私が何か特殊な感情を持っていることを想像した方は鋭いです。
 そう、福井は金環食ではなく、部分食でした。と言っても、9割以上月に隠れるので、輪っかになるかならないかの「ちょっとした違い」です。ええ、ちょっとした違い、ちょっとした違い、ちょっとした違い、ちょっとした違い………。
 今回は、南ほど天気が悪い予報が出ていたので、「金環食なんて、雲に隠れてしまえ~」なんて思いませんよ(笑)

 でも、9割は隠れる日食なので、夕方のように暗くなりました。天気は良かったので青空が広がり、太陽も輝いて見えたのに、暗いんです。脳は「天気が良い日中」と認識しているのに、視界は暗い。そのギャップに脳がついていかず、目がおかしくなったような錯覚に陥りました。

 かなり不思議な感覚でした。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『平清盛』 第20話「前夜の決断」

2012-05-21 17:44:22 | ドラマ・映画
 今回が一番面白かった。実は、ある事情で、『平清盛』の記事はやめようと思っていたのですが、それを踏み止まらせるくらいの出来でした。

 清盛(松山ケンイチ)、忠正(豊原功補)、池禅尼(和久井映見)、頼盛(西島隆弘)、後白河天皇(松田翔太)、信西(阿部サダヲ)、崇徳上皇(井浦新)、頼長(山本耕史)、義朝(玉木宏)、為義(小日向文世)、通清(金田明夫)、正清(趙和)、時子(深田恭子)、由良(田中麗奈)、常盤(武井咲)らが、それぞれの思い、思惑で決意をする、そんな様がよく描かれていた。
 特に、清盛と後白河天皇が対峙するシーンは見ごたえがあった。


 天皇(後白河天皇)方と上皇(崇徳院)方へと分かれていくなか、平氏はどちらに組するかを明らかにしない。態度を保留することで、戦の行方を大きく左右する平氏の価値を高めるのが狙いで、前回の崇徳院に刀を突きつけたことから分かるように、この時点では既に清盛の腹は決まっていたはず。腹心たちも、この事実(鳥羽院への忠義の署名や警護に当たったこと)は知っていたはずで、今週の一族の話し合いは、ピント外れのように思う。

★後白河帝と崇徳院、どちらに付くか?
①義理(筋)、正義
 平氏としては、鳥羽院に使えてきたことを考えると、後白河帝に付くのが筋である。また、現天皇に仕えるのは大義名分が成り立つ。平氏一族の考えもこの考えが大勢を占めていたよう。
 ただ、皇位継承の順当さを考えると、崇徳院という考え方もできる。
 
②どちらが優勢か
 現実的には、これが一番肝心かもしれない。実際、荒れ武者・源為朝(橋本さとし)が崇徳院方に参戦すると聞き、意気消沈気味の平氏一門。
 しかし、実際問題では、最大武力を保有する平氏一門が加勢した方が有利なのは間違いない。

③どちらが勝ったほうが都合が良いか
 この都合というのが微妙で、恩賞が大きいかが一番分かりやすい基準。
 そして、清盛が重視したのは、長年の念願であった武士の世が来るか、武士が力を発揮できる世が来るか?ひとつの観点としては、御し易い人物かどうか?
 後白河帝の場合、本人も信西も一癖もふた癖もある人物、美福門院もいる。崇徳院方は、頼長は切れ者だが、崇徳院は御しやすそう。
 もうひとつの観点は、どちらが武士を登用してくれるか?これは、普通に考えると貴族が実験を握る世の中では、進んで武士を登用してくれるとは思いがたい。だからこそ、清盛は態度を保留して、平氏の価値を高めようとした。
 可能性を考えると、貴族政治第一主義の頼長よりは、後白河帝のほうが可能性が高いと考えられたが、清盛と後白河帝の密談の際、後白河帝は「そち(清盛)の思うとおりにはならぬ。朝廷の番犬として死んでいくのじゃ」と言い切られてしまう。

④仕えるに値する人物か
 これは、③の範疇に含めてもいいのかもしれないが、清盛はこれを重視したように感じたので、敢えて④として別扱いにした。
 まず、平氏の価値を吊り上げようとした腹の中を見透かされたことに清盛は後白河帝の鋭さを評価した。
 しかし、「ずっと番犬」と言い切られては崇徳院に組みするしかないが、後白河帝の言葉は、平氏に力を与えると危険と見て、つまり平氏(武士)の力を認めての言葉だと解釈、さらに、後白河帝の言葉通りに捉えず、「権力を取れるものなら取ってみろ」という挑戦だと考えた。
 後白河帝の器の大きさを認め、そこに、武士の世の可能性を見出したのだろう。穿った見方をすれば、後白河帝に惹かれ、面白いと感じたのかもしれない


 とは言え、「番犬として死んでいけ」と言い放つ後白河帝に組みするのは、かなりの博打で、頼盛が不満や不安を感じるのはもっともなことかもしれない。

★清盛が博打に乗ったわけだが、博打を仕掛けた後白河帝の方が、もっとリスクを背負った博打だったはず
 清盛の腹(値を吊り上げる)を見透かしていた上、鳥羽院崩御の際に、崇徳院に刀を突きつけた事実を考えると、清盛が自分に味方するつもりであることは推し測れていたと思える。
 なので、なにも「番犬宣言」するのは、非常に危険な一手だ。言葉通りに清盛が受け取って、「あ、そう。じゃあ、崇徳院に付くよ」と言っちゃう可能性が大きく、危険を通り越して「大悪手」であろう。何しろ、放っておいても、自陣営についてくれそうだった(しかも、その考えを見抜いていた)。
 よほど博打が好きなのか?脚本家さんがどんでん返しが好きなせいなのか?

 とは言え、この二人の対峙シーンは見ごたえがあった。

★忠正の決断
 忠正は清盛を認めていた。今回の行為や決断を「兄・忠盛も同じことをしたであろう」と。
 しかし、万が一、後白河帝側が敗れて平氏一門が全滅になってしまうことを危惧した池禅尼の意を汲んでの決断であった。
 しかも、「平氏は一蓮托生」という清盛の思いを考え、頼盛に「わしとお前の間には、はなっから絆などないわ」の言を託す。
 私は確信できなかったけれど、清盛は叔父の真意を汲み取ったんですよね。涙したのは、叔父の気持ちが分かったからなのでしょうね?
 一番嫌われていた叔父と清盛、袂を分かって戦うことになったが、一番強い絆で結ばれていた……

 また、頼盛が崇徳院側に付くことを察知し、留める。
 これは、清盛側(後白河帝側)が勝つことを予見し、若い命を散らしてはいけないという思いと、頼盛の死は池禅尼が悲しむという思いからだったのだろう(忠正は池禅尼を好きだったんだよね)。
 そして、兄弟が戦うというのは絶対避けたかったのだろう。

 この忠正の思い、頼盛も理解したのかな。(忠正の言を伝える頼盛の表情はそういう風に感じた)

★何を賭して戦うのか?
伊藤忠清(藤本隆宏)の侍大将としての言葉
「戦は博打ではござりませぬ。戦は常に、生きるか死ぬか。
 今この時を戦うことに一心に打ち込まぬ者は命を落とす」

 先日、「(後白河帝か崇徳院か)どちらでも良い故、早う戦わせて下さりませ」といった男の言葉とは思えぬまじめな言である。
 これに対し、清盛
「皆に尋ねるが、
 此度の戦は、何が為に戦うのか?
 帝と上皇に成り代わり、関白と悪左府の名代として武士同士が戦うのだ。
 これに命をとして戦えるのか?」
「武士の世はもうそこまで来ている。
 我ら平氏は、そのために戦う」


 確かに、あんなやつらの為に命を懸けて戦うのは阿呆らしい。


【その他の感想】
・鬼若(後の弁慶・青木崇高)は、人間的に軽すぎるように思える



次回は、いよいよ、保元の乱。



【ストーリー】(番組サイトより)
 1156年(保元元年)7月2日、鳥羽法皇(三上博史)が崩御した。あわただしく人が行きかう鳥羽院御所の門前には西行(藤木直人)の姿もあった。手をあわせる西行に平清盛(松山ケンイチ)は戦になると告げる。
 失脚の憂き目にあった左大臣・藤原頼長(山本耕史)は崇徳上皇(井浦新)に接近。頼長は自分と組むことでいずれ天下の権を奪い返すこともできると崇徳上皇を説得した。しかし、その動きを察知した信西(阿部サダヲ)は、二人に謀反の疑いをかけ、武士たちに帝(みかど)をお守りせよと発令。後白河天皇(松田翔太)と崇徳上皇の雌雄を決する戦が始まろうとしていた。
 諸国の武士が京に集結し、天皇方と上皇方へと分かれていくなか、清盛の館に平氏一門が集まるが、どちらにつくか意見がまとまらない。清盛は、武士の世を作るため、双方を待たせて戦の後の恩賞をつり上げるという方針を決定した。弟の頼盛(西島隆弘)は清盛の決定に不安をかくせなかった。
 7月8日(戦の2日前)、京は日増しに騒然としていた。天皇、上皇それぞれのもとへゆかりの武士たちが諸国からも召し出されていた。鎮西にいた荒れ武者・源為朝(橋本さとし)もその一人だった。圧倒的な存在感を放ちながら京の町を進む為朝の姿を鬼若(青木崇高)が見つめていた。
 清盛の作戦が功を奏したか、上皇方の藤原頼長や、天皇方の藤原成親(吉沢悠)・信頼(塚地武雅)らは清盛の動向に目が離せず、いらだち始めていた。
 そのころ、源義朝(玉木宏)は、父・為義(小日向文世)と決裂、後白河側につくことを決断。親子で戦うことの是非を問う鎌田通清(金田明夫)に、為義はしかたないと答え、義朝の乳兄弟である鎌田正清(趙和)には義朝側につく自由をあたえた。しかし正清は動かない。
 そんな中、後白河天皇は清盛を自邸に招き、二人だけの密談を始めた。後白河天皇は清盛の策略を見透かし、たとえ恩賞をつり上げても戦勝後に清盛の思いどおりになどならないと告げ、サイコロで即座の決断を迫った。清盛はこの戦いにも後白河天皇にも勝ってみせると言い返した。
 7月9日(戦の前日)、為義の前では為朝が存分に働いてみせると豪語する。それを為義は頼もしそうに見つめていた。一方、平氏一門にも頼もしい加勢があった。伊藤忠清(藤本隆宏)が豪勇で知られる弟・忠直(土平ドンペイ)を連れてきたのだ。しかし一門の顔は晴れない。評判の高い為朝が上皇方についたこと、そして清盛はそれとは反対に天皇方につくと決めたからである。清盛は後白河天皇が自分の志や武士の力を見抜いていたことを挙げ、平氏の今後を賭けることを決めたのだった。疑問を残しつつも棟りょうの言葉に従う一門だったが、頼盛はある決意を固めていた。
 京の町が殺伐としてくると、義朝は正妻・由良(田中麗奈)と鬼武者(のちの頼朝)が避難している別宅に、側室の常盤(武井咲)と子どもたちを連れて行く。由良はいやな顔ひとつせず常盤を迎えた。一方、清盛は時子(深田恭子)や子どもたちを故・藤原家成の娘、経子の元に預けた。そこで、後に夫婦となる長男・重盛と経子が出会う。そのころ、頼盛は腹心の家臣を集め、自分は清盛とたもとを分かち、上皇方につくと明かす。母・池禅尼(和久井映見)は頼盛をいさめるが、頼盛は自分は兄・家盛のようになりたくないと反発する。
 7月10日(戦の当日)、後白河天皇は高松殿、崇徳上皇は白河北殿に本陣を置き、まもなく始まる戦に備えた。清盛とともに出立する重盛・基盛に、時子は母として声をかけるとともに清盛に新たな子が宿ったことを告げる。一方、義朝も由良と常盤のもとで出立の準備をすすめる。常盤は親兄弟と戦うことの是非を改めて問い、由良は存分に働くようにと声をかける。
 為義たちは崇徳上皇方の白河北殿で警備を固めていた。そこで鎌田通清は、息子の正清に好きなようにするがよいと話し、正清は後白河天皇方の義朝のもとへ向かうことを決断した。
 六波羅の館で清盛は一門を集め、出陣を命じた。頼盛は秘めた思いを胸に別行動を起こそうとしていたが、頼盛の裏切りを見抜いていた叔父・忠正(豊原功補)は、頼盛の裏切りを認めようとしない。やがて清盛の軍勢に頼盛軍が合流するが、一緒に来るはずの忠正が来なかった。忠正は、頼盛の代わりに崇徳上皇方についたのだった。平氏の絆を重んじる清盛は、忠正を連れ戻そうとするが家臣に止められる。そんな清盛に頼盛は忠正の伝言をつたえる。「お前とわしとの間に絆などはなっからないわ!」と。
 そして清盛は300騎をつれて高松殿に参陣し、それを義朝が迎えた。清盛と義朝は身内と敵対する痛みをかかえながら「保元の乱」と呼ばれる戦を戦うこととなった。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする