春嵐 卒業式の 忙しく
梅士 Baishi
この季節はいかにも忙しい。
一年の総決算と、次年度の総計画、そして、その先を見
据えた人生戦略も練らなければならない。
明日は卒業式である。
そしてまた、会議が重なり、入学式になる。
檻の中の虎のように歩き回り、宇宙からの糸を手繰り寄
せようと空を探り、一人、う~と唸る。
人はそれぞれ欲があり、計算があり、愛憎があり、夢も
あろう。
しかし、それも、一瞬の津波で一幕となる。
大したことではない。
しかし、あーあということになっても、それまでは必死に
もがくものだ。
だから、人生は面白い。
今世、ろくなことはなかったが、幾転生してもめぐり合え
ないであろう仏陀再誕の地、日本に生まれ合わせ、これに
気付き、その法を学び、その使命についてゆこうとして
いる。
気付いて当然と思うが、したたかに不明な人々が95%も
いる。
気付いたはずの者が退転する者もいる。
【裏切りというこの世的計算式と信仰という幸福】
強引とはいえ、救世主の妻となった者が裏切り、他人の
不幸を食らう週刊誌に売り渡そうとしてもいる。
その過去世は、裏切りのユダその人だという。
確かに、救世主以上の存在と知りながら、よくぞ妻にな
ることができるものだと不思議に思ったものだ。
しかし、ユダと言い、裏切りの妻Kyoukoといい、所詮、
救世主ではなく、有力な人間として目をつけていただけな
のだなあと思う。
すなわち信仰者ではなかった。
いい馬にまたがった、という感覚であろう。
その馬が、言いなりには走らなくなった。
裏切りはこの世の計算である。
そうでもなければ、裏切りはできない。
この世の試しをする代表として、裏切りの役割を果たし
ているのだろうが、そうした存在もまた、神仕組みとして作
られた魂なのであろう。
いわば、悪役である。
仏弟子に求められていることは、裏切り者への裁きでは
なく、その試練を越える信仰であり、伝道という未来建設
である。
教育が国づくりであるように、信仰もまた未来作りであり
文明作りである。
信仰とは発想の転換である。
この世の計算の延長上にはない。
珍しいから価値があるのではなく、圧倒的な価値の確信
が信仰というべきなのではないか。
奪うものではなく、気付くものというべきだろうか。
悟りとはそういものであろう。
Kyouko問題には、he~という程度で、あまり心が動か
なかった。
しかし、信仰とは何かを考える歴史的できごとを目の当
たりにしているのかもしれない。
信仰の本質は悟性である。
五感で感じ取るこの世の財産をかなぐり捨ててでも貫く
べき命というべきものである。
命あってのものだね、とでもいうべきが信仰である。
信仰とは真理の世界、悟りの世界を探求する決意と努
力に他ならない。
まさに、死に甲斐である。
いよいよ、信仰が面白くなってきたのである。
この感覚は、なかなか伝わらないものなのであろうが、
風流の世界、美の世界というのも、この世的な価値観から
すれば変人の世界ではないか。
信仰の世界に似ていると思う。
多くの人々が、この、信仰という幸福を得ることができま
すように!
幸福とは実に、酔狂なことなのではないか。
立憲女王国・神聖九州やまとの国 梅士 Baishi