北の風に吹かれて~独り漫遊記~

町歩きを中心に、日々の出来事を綴ります。 
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山越諏訪神社

2024-10-18 20:00:00 | 渡島・檜山地方

 

昨日紹介した「山越内関所之跡」は、函館から札幌へ向かう国道5号に面した所にありますが、今日は、同じくその国道5号沿いにあるこちらの鳥居から。

 

 

「諏訪神社」とあります。

「札幌諏訪神社」が好きになった私には、思わず反応してしまう社号が刻まれています。

正確には「山越諏訪神社」という社号です。

 

 

今日はいきなり地図をリンクさせますが、ご覧のとおり、「山越諏訪神社」は、鳥居が面している国道5号から、JR函館本線を越えた位置にあります。

 

 

ということで、函館本線を渡る歩道橋へ。

 

 

ちょうど、札幌行きの特急「北斗」を見ることができました。

次の停車駅である八雲駅までは、もうすぐの場所にあります。

 

 

歩道橋を降りて参道へ。

 

 

この神社のある「山越内」と呼ばれた場所は、1800年に江戸幕府の直轄となり、会所や下宿所(通行家)が設けられ、通行人の改めなどが行われるようになってから急激に開けたとされています。

この「山越諏訪神社」は、1807年、当時「福山」と言っていた現在の松前の人が、漁業の繁栄と住民の氏神として創建したとされており、祭神として、「建御名方之神」(たけみなかたのかみ)という、「古事記」にも登場し、長野県の諏訪大社最古の縁起絵巻である「諏方大明神画詞」にも描かれている神が祀られています。

この頃には、近隣に稲荷社もあったそうですが、後になって合併されたそうで、かの松浦武四郎の「東蝦夷日誌」には、「山根に諏方明神の社稲荷合殿有」と記されています。

住民の氏神として崇拝されてきたこの神社は、1876年10月に郷社(神社の社格の一つで、最下位とされる「村社」の一つ上の格付け)に列せられ、1915年11月には、「神饌幣帛料供進神社」(一定の額の幣帛料が、県や町村から供進される神社)となり、1937年に本殿が改築されています。

 

 

 

狛犬は、何となくだけど、阿形(右側)の方が、表情が穏やかなように感じました。

 

 

 

 

社務所は、冒頭の鳥居の側にあります。

 

 

 

八雲町は、現在は、太平洋と日本海の二つの海に面していることから「二見郡」という郡命になっていますが、2005年に、日本海に面していた「熊石町」と合併するまでは「山越郡」という郡命でした(現在も、隣の「長万部町」が、「山越郡」となっています)。

江戸幕府の直轄となったことによって拓かれ、郡命にもなった「山越」の地をずっと見守り続けてきた神社の存在。小学生時代の歴史の学習では触れられなかったエピソードなだけに、大変興味深く感じることとなりました。

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最北端の関所跡

2024-10-17 20:00:00 | 渡島・檜山地方

 

道南八雲町のレポートを再開します。

まずはこの看板の場所から。

 

 

「山越内関所之跡」とあります。

「関所」とは、古くは「大化の改新」の頃から江戸時代にかけて、交通の要所において、徴税や検問のために設置された施設ですが、日本最北端の関所が、ここ八雲町に存在していたのです。

 

 

先日の記事で、蝦夷地(アイヌ民族の居住地)と和人地(アイヌ民族の血を引かない日本人「和人」の居住地)との境界について触れていましたが、ここにもその解説がありました。

「アイヌモシリ」とは、その名のとおり、「アイヌ民族が住む大地」という意味の言葉です。

 

 

 

関所とその周辺の平面図がこうして掲示されています。

 

 

八雲に住んでいた小学生3年生のとき、町の教育委員会が監修している副読本を使って、町内の歴史や文化について触れる授業があり、その関係で、私も「関所」というもののことを知りました。

そして、ここに看板のある「夜泣き石」の伝説も。

 

 

因みに、これがその副読本です。

現在も大切に持っていて、今年、6年ぶりに道南に住むということで、函館にも持ってきました。

 

 

これは捨てられないぞ - 北の風に吹かれて~独り漫遊記~

月曜日あたりから部屋の整理に着手しているのだが、今回は、処分する物の方が圧倒的に多くなると思われるので、まずは、細々とした物を、残す物、捨てる物に振り分けるとこ...

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この「夜泣き石」のことは副読本には書かれていなかったのだけど、確か、関連して配付された資料に書いてあったと思います。

 

 

「八雲」という地名の由来が書かれています。

「八雲たつ」という枕詞、確かに聞いたことがあります。

八雲に住んでいた当時、鉄道少年だった私は、日本全国の特急列車大図鑑的な本(「ケイブンシャの大百科シリーズ」)を持っていて、山陰地方に「やくも」という特急が走っていることを知っていましたが、その「やくも」と、北海道の「八雲」とが関連が深いということは、この解説板で初めて知りました。

命名者として書かれている「徳川義勝公」については、後日、別な記事で詳しく触れたいと思います。

 

 

 

この地には、関所の他に、幕府直轄の「会所」(集会所)があったそうです。

1799年、ロシアをはじめとする諸外国の脅威から蝦夷地を守るため、幕府は東蝦夷地を松前藩から取り上げる形で直轄地とし、道南地方も幕府の直轄下となりました。

八雲町にもその歴史を伝える施設が残されていたことを、これまた今回初めて知りました。

 

 

昔ながらの建築様式で作られている「山越中央会館」。

「山越」は一つの集落となっている地域なので、現在もここで、住民たちの会合など、地域の行事が広く行われているということです。

 

 

おやおや、反応してしまう名前の神社があるようですね(「札幌諏訪神社」が大好きなので)。

ということで、長くなってきたので、この記事はここまで。

この神社は、次の記事で紹介します。

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駅前の風景

2024-10-08 20:10:40 | 渡島・檜山地方

 

JR八雲駅。

場所は、私の住んでいた当時(1981年4月~84年3月)と当然ながら変わっておらず、外観も、色は変わっていると思うけど、建物の作りそれ自体は変わっていないと思います。

 

 

 

 

これはさすがに当時はなかったですね。

ここに描かれている「徳川義勝公」については、後日、別な記事で触れたいと思います。

 

 

駅の内部。

 

 

右奥の自販機のある辺りには、当時はKIOSKがありました。

同じように、かつてKIOSKのあったスペースが自販機スペースになっている駅は全国に沢山あると思います。

今もそうだけど、八雲町内には書店が少なく、住んでいた頃は、愛読書だった「テレビランド」(徳間書店)をここで買った思い出もあります。

 

 

駅の外へ出てみました。

今は道道になっていますが、かつてはこの道が、八雲町内のメインストリート、国道5号でした。

現在の国道5号は、バイパス形式で海側へシフトしています。

 

 

このお店のあった場所に、当時、化粧品や衣料品、文房具や書籍などを取り扱うお店がありました。

「井筒屋」という名前で、ここで買ったことを今でも覚えている本があります。

 

 

画像はお借りしてきたものですが、「秘密戦隊ゴレンジャー」から、昨日もちょっと触れた「太陽戦隊サンバルカン」までの5大戦隊の大図鑑。

手放してしまったことを心底後悔している本の一つです。

「まんだらけ」や神田の古書店街などで根気よく探してはいるのですが・・・。

 

 

当時から残っている建物はほとんどないと思いますが、この旅館は、建て変わってはいると思うけど、旅館自体はここにありました。

実は、八雲を離れてからちょうど10年が経った94年の春に、札幌から八雲へ一泊の旅行をしたことがあって、そのとき、ここの旅館にお世話になっていたことがあります。

 

 

写真の家具屋さんも、恐らく当時はなかったと思います。

 

 

雪の日の待ち合わせ - 北の風に吹かれて~独り漫遊記~

ある雑誌で読んで印象に残ったトピックス。(待ち合わせで恋人の遅刻を待てる時間ランキング)http://ranking.goo.ne.jp/ranking/017/late_time_man/読んだ記事の趣旨は、別...

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こんな記事を書いていました。

もう40年も前の話だから書いちゃうけれど、この記事で書いている相手の実家は、当時このメインストリートでお店を経営していました(何屋さんかは、個人の特定防止のために割愛)。

今はどうしているのかな・・・と、たまに思い出すこともあります。

機会があれば再会してみたい気持ちは勿論あるけれど、元気で幸せでいてくれればいいなと思います。

 

 

この郵便局はですね・・・、多分当時からこの場所だったと思います。

ここを利用したこともあるとは思うのだけど、自宅のあった住宅街の方に小さな郵便局があった(今もある)ので、そっちの方が記憶に残っています。

 

 

写真右側のビルは、転勤族だった私の父親が勤めていた、某電信電話会社のビル(当時は公社でした)。

あの頃は、家族ぐるみのレクとかが沢山あって、社屋内で開催されたレクにも参加したことがあるのを覚えています。

 

 

 

そんなこんなで、当時からある建物も少なくなってきたな~と思いながら歩いていましたが、このお店、金物屋さんなんだけど、このお店は、間違いなく当時からそのままです。

店名は、写真のアルファベット表記ではなく、漢字表記だったはずだけど、間違いなく当時から同じ場所にありました。

こういう場所を見つけると嬉しくなりますね。

とまあそんなこんなで、40数年前に思いを馳せた町中探索、色々なことが思い起こされて良かったです。

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蝦夷地・和人地の境界

2024-10-06 16:16:58 | 渡島・檜山地方

 

八雲町内の国道5号を走っていると、こんな標柱を見つけました。

 

 

「蝦夷地・和人地の境跡」?

「和人」というのは、江戸時代から、先住民族である「アイヌ民族」に対し、アイヌ民族の血を引かない日本人を称するものとして使われてきた言葉で、それは私も子供の頃から知っていましたが、気になるのは「蝦夷地」の方。

「蝦夷地」って、かの松浦武四郎が、1868年に「北海道」と名付ける以前の、現在の北海道地域を指す地名だったはず。その「蝦夷地」と、アイヌ民族の血を引かない日本人の住んでいた土地の境?どういうこと?

 

 

実は、ここでいう「蝦夷地」というのは、かつての北海道全域をダイレクトに指すものとはちょっと違っていて、アイヌ民族の居住区と、和人の居住区とが、この辺りで明確に区分けされていたのがこの場所だったということを意味しています。

つまり、ここでいう「蝦夷地」というのは、「アイヌ民族の居住区」を指すのです。

諸説あるものの、「蝦夷」と書いて、「えぞ」の他に「えみし」と呼ぶことがあり、平安時代の末から鎌倉時代に以降においては、「蝦夷」といえばアイヌ民族のことを指すとされてきていました。(もっとも、数ある説の中には、「蝦夷」=「アイヌ民族」であることは肯定しつつも、一般的な呼称ではなく、むしろ「蔑称」であるとするものもあるので、使い方には注意が必要かと思います)

そのことから、アイヌ民族が住んでいる場所ということで、「蝦夷地」と名付けられたという説がありますが、八雲町を含む道南地方は、現在の北海道全域の中でも、比較的早い時期から和人が移住してきた地域のため、和人の居住区とアイヌ民族の居住区とを明確に分けたということなのだそうです。

標柱の解説の冒頭に「野田追場所」という表記がありますが、ここでいう「場所」とは、17世紀末から、松前藩の家臣が、運上金(税金)を取って、商場の経営を商人に委ねた「場所請負制」という制度に基づく商場、即ち商取引の拠点となる場所のことで、1801年に「野田追場所」が定められたのがきっかけで、アイヌ民族の居住区と和人の居住区が明確に区別されるようになったということなのですね。

 

 

この標柱は、国道に架かる小さな橋の側にあります。

 

 

何という橋かなと思ったら、「境橋」というんですね。

土地の歴史がそのまま橋の名前として残っているということになります。

 

 

橋の上からの海の眺望は綺麗です。

この日はあいにくの曇りでしたが、晴れた日には絶好の眺望になりそうですね。

 

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70年前の大惨事に思いを

2024-09-28 16:20:04 | 渡島・檜山地方

 

「洞爺丸台風」とは、1954年(昭和29年)に発生した台風15号のことで、同年9月26日未明に鹿児島県に上陸し、時速約100キロメートルという猛スピードで九州~中国~日本海を北東進して、函館港沖に避難していた「洞爺丸」をはじめとする5隻の青函連絡船が沈没するという大惨事をもたらしていました。

この日の夕方、函館湾周辺は暴風が収まっていて、晴れ間も覗いていたことから、5隻の船は、台風は既に過ぎ去ったと思って出航したものの、実は台風は北海道の直前で急激に速度を落としていてまだ北海道に到達しておらず、出航直後に5隻は暴風に襲われ、函館港に避難するも、残念な結果になってしまっていたということだったそうでした。

「洞爺丸」をはじめとする5隻の船が被害に遭っていることから「洞爺丸台風」と名付けられた経緯がありますが、この台風に関して、道南地方の地域FM局「FMいるか」の番組で、クイズが出題されていました。

 

 

そうなんですよね、「洞爺丸台風」と名付けられたくらいだから、「洞爺丸」にばかりスポットが当たりがちですが、実際に被害に遭ったのは、↑でも書いているとおり「5隻」。つまり、洞爺丸以外にも4隻が被害に遭っているのです。

その4隻に関する問題が出されていますが、正解は、↓の記事を参照しながら確認いただければと思います。

 

 

未曽有の海難事故 - 北の風に吹かれて~独り漫遊記~

北斗市の国道228号沿いにある表示板。小さいので見落としてしまいそうだけど、ここにある物は何かと言うと・・・、1954年9月26日、日本海を北上して北海道に上陸...

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被害に遭ったのは「洞爺丸」だけではない、他にも4隻の船が被害に遭っているということに思いを寄せることも、亡くなられた方々への供養、そしてこのような事案に関する再発防止策の策定に繋がっていくのだろうなと思います。

 

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