最近は、同僚や友人から、函館市内(近郊も含む)にあるスポットについて、「あれは何?」と尋ねられることがたまにあるのですが、今日は、最近尋ねられたのだけど、さらっとだけで詳細は答えられなかった場所について触れたいと思います。
谷地頭で市電を降り、立待岬へ向かう途中にある「住吉町共同墓地」の一角に、こんなお墓が設置されています。
同僚から尋ねられて、写真撮ってなかったかなと思って探したら、昨年の初冬に撮っていたので、遅ればせながら掲載しました。
「育児墓」って、一体どういうお墓なのでしょう・・・?
先のお墓の概要はこの表示板をご覧いただくとして、これにまつわるエピソードについて書きます。
「明治初年」と書いていますが、さる歴史書によると、明治2年(1869年)の6月、一人の妊婦が槇山淳道(まきやまじゅんどう)という町医者を訪れ、生活に困るので堕胎してほしいと願い出ました。
槇山は元々江戸の出で、堕胎という悪習を改めさせるために錦絵を発行するなどの運動をしていたことから、この妊婦に対しても非を諭し、同志と共に「育児講」という講社を結成し、この妊婦の産んだ子を引き取り、養育しました。
「育児講」は、明治4年(1871年)に「函館育児会社」と改称し、槇山が社長となって、官吏や財界、有志らの支援のもと、産婆(助産師)とも連携して堕胎の防止につとめ、困窮者のもとに生まれた赤ちゃんを引き取り、保育したとのことです。
表示板中にある「慈恵院」とは、明治33年(1900年)に設立された慈善団体で、「函館育児会社」はこれに引継がれ、孤児や困窮児の養育、旅のさ中に病気となった者の救済などを行いました。
昭和21年(1946年)には「函館厚生院」と改称され、現在、函館中央病院、五稜郭病院などの運営に携わっています。
函館中央病院は、私が毎年人間ドックでお世話になっている病院なのだけど、なるほどそういう歴史があったわけですか。
ガイドブックや検定のテキストにも載っていない、知る人ぞ知る的なスポットだけど、設立者の思いに触れ、命の尊さについて考えさせられるという点で、もっとクローズアップされてよい場所だなと思いました。
場所はこちらです。
谷地頭で市電を降り、立待岬へ向かう途中にある「住吉町共同墓地」の一角に、こんなお墓が設置されています。
同僚から尋ねられて、写真撮ってなかったかなと思って探したら、昨年の初冬に撮っていたので、遅ればせながら掲載しました。
「育児墓」って、一体どういうお墓なのでしょう・・・?
先のお墓の概要はこの表示板をご覧いただくとして、これにまつわるエピソードについて書きます。
「明治初年」と書いていますが、さる歴史書によると、明治2年(1869年)の6月、一人の妊婦が槇山淳道(まきやまじゅんどう)という町医者を訪れ、生活に困るので堕胎してほしいと願い出ました。
槇山は元々江戸の出で、堕胎という悪習を改めさせるために錦絵を発行するなどの運動をしていたことから、この妊婦に対しても非を諭し、同志と共に「育児講」という講社を結成し、この妊婦の産んだ子を引き取り、養育しました。
「育児講」は、明治4年(1871年)に「函館育児会社」と改称し、槇山が社長となって、官吏や財界、有志らの支援のもと、産婆(助産師)とも連携して堕胎の防止につとめ、困窮者のもとに生まれた赤ちゃんを引き取り、保育したとのことです。
表示板中にある「慈恵院」とは、明治33年(1900年)に設立された慈善団体で、「函館育児会社」はこれに引継がれ、孤児や困窮児の養育、旅のさ中に病気となった者の救済などを行いました。
昭和21年(1946年)には「函館厚生院」と改称され、現在、函館中央病院、五稜郭病院などの運営に携わっています。
函館中央病院は、私が毎年人間ドックでお世話になっている病院なのだけど、なるほどそういう歴史があったわけですか。
ガイドブックや検定のテキストにも載っていない、知る人ぞ知る的なスポットだけど、設立者の思いに触れ、命の尊さについて考えさせられるという点で、もっとクローズアップされてよい場所だなと思いました。
場所はこちらです。