昨日紹介した「生振神社」の近くに「創生園」という場所を見つけたので、車を停めて降りてみました。
碑にあるとおり、平成2年(1990年)の開園だそうです。
園の一角に、小さな田んぼがあります。
近くにある「生振小学校」という学校の「学校田」。
「近くにある」と書きましたが、この「創生園」というのは、かつての「生振小学校」があった場所なんだそうです。
この地域の中心産業である稲作を通して、地域の開拓の歴史を子供たちに伝え、収穫の厳しさや楽しさを学び取ってもらうということが狙いなのでしょうかね。
そういえば、都心部の学校でも、敷地内に小さな畑や田んぼがあるところがあったりしてますね。札幌市内でもあったと思います。
かなり古そうな農業用機械が保存されています。
戦後の復興期を支えた揚水機だそうです。
「感謝」という言葉が刻まれているのが印象に残ります。
こうして保存しておくことで、現在に至る産業の歩みを後世に伝える役割を果たしているということなんですね。
「水鴻恩」と書かれている大きな碑。
横に開設を記した碑があったのですが、写真を撮りそびれてしまったので、帰宅してから調べてみました。
昭和25年(1950年)に、生振を含む現在の石狩市内の農業事業や農業用施設の維持管理を行う「石狩花畔土地改良区」が設立され、戦後の食糧需要という国策に応じるため、生振地区でも開田が進み、稲作が広く行われることとなりましたが、それを支えたのが、先程も触れた揚水機によって石狩川から引かれてきた水だったとのことで、その水に対する感謝の意を表し、戦後の混乱期において復興事業に尽力した人たちの功績を称えるべく、平成12年(2000年)に建立された碑だそうです。
「土地改良区」という団体、私は職業柄接点があるのですが、農業や関連事業に従事されていない方にとっては、あまり馴染みのない団体ではないかと思います。
「土地改良法」という、日本の農業における基幹的な法律に基づいて設立されている法人で、土地改良事業(農業事業のこと)の実施や施設の維持管理を行うべく、農業者の発意を受け都道府県知事の認可によって設立されています。
地域における稲作の歴史が書かれた「開田之碑」。
昨日の記事でも触れましたが、生振地区の開拓は、明治4年(1871年)、山形県米沢地方の人々が入植したことにより始まりました。
それから120周年が経過した平成2年(1990年)に、「創生園」の開園と共に、その歴史が刻まれた碑が、ここに建立されています。
これは句碑でしょうかね。
生振小学校の初代校長にして「桃下」という俳号を持っていた「中島源五郎」氏が、愛知団体の入植50周年に当たり詠んだ句が刻まれています。
何という句なのかは、少し調べてみましたが、残念ながら分かりませんでした。
何となく読めるのは、上五が「怠らぬ」、中七が・・・、最初の文字は「鍬」でしょうかね。そして下五は「畑うち」でしょうか。
農業関連の碑ばかりかと思っていましたが、戦没者の慰霊碑も建立されていました。
このようなことも含め、生振という地域の歴史を広く後世に伝えるというのが、「創生園」の開園の狙いであり、開園に込められた願いということなのでしょうね。
最後に、園内の綺麗な花の写真。
秋が深まり、本格的な雪の季節を迎えると、このような光景も来春までお預けになるかと思うと、ちょっぴり寂しい気がしますね。