北の風に吹かれて~独り漫遊記~

町歩きを中心に、日々の出来事を綴ります。 
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箱館戦争勃発の地

2024-07-04 20:09:30 | 渡島・檜山地方

 

「道の駅なないろ・ななえ」の敷地内に町内のスポット紹介的な看板があって、ここに書かれている三つの場所が紹介されていた(この写真は道の駅の敷地内のものではない)のだけど、「箱館戦争勃発の地」というのが気になり、調べたところ、道の駅からそんなに離れていない場所だったので、行って見ることにしました。

 

 

行ってみると、このような地図が。

ここにある「戦死者の墓」の側に、「箱館戦争勃発の地」の碑があるそうです。

 

 

この道の先にあるそうです。

 

 

そういうことだそうなので、車は手前で停めて歩いていきます。

 

 

白い囲いの中に、小さな石碑が幾つか見えます。

 

 

 

 

「戊辰役勃発之地」と書かれています。

ここが、「箱館戦争勃発の地」ということなのですが、森町鷲ノ木に旧幕府軍が上陸した後、陸軍奉行だった「大鳥圭介」率いる一帯が、現在の七飯町峠下で新政府軍と戦闘になったことは知っていたものの、このような碑の存在は知りませんでした。

1868年10月20日(旧暦)、旧幕府軍が鷲ノ木に上陸しましたが、旧幕府軍の本来の意図は新政府軍と戦うことではなく、徳川家臣団の存続のため、蝦夷地の開拓と北方の警備に当たりながら、新政府軍に協力して新しい日本の国づくりに貢献していくということでした。

このことから、榎本武揚は、無用な戦闘を避けたいという考えから、五稜郭の箱館府知事・清水谷公考(しみずだにきんなる)のもとへと先発隊を派遣しましたが、新政府軍は出兵を決意し、10月22日未明、峠下で宿営していた大鳥圭介の部隊を狭撃しました。これが発端となって、翌年5月まで箱館戦争の幕が切って落とされることとなりました。

この戦いには、先日の記事で紹介した「八王子千人同心」の子弟達も箱館府守備兵として戦いに参加しましたが、新政府側についていながら、徳川家への恩顧を受けていた者達の中には、旧幕府軍に協力しようとする者もあったそうです。

今回初めて訪れたこの碑と、その周囲を囲むように建っている戦死者の墓。

これから五稜郭でもガイドデビューしたいと考えているので、五稜郭で箱館戦争の話に触れるときは、タイミングを見て、この話にも触れてみようかなと思いました。

 

 

同じ囲いの中にある「平山先生之墓」。

この地で私塾を開いていたという「平山金十郎」という人物の墓ですが、この人物もまた、徳川家から受けた恩を忘れることが出来ず、反乱を起こそうと企てていた人物でした。

清水谷公考を奪ってクーデターを起こす計画を立てていたそうですが、裏切り者が出た為に失敗に終わりました。

しかし、金十郎は逃げ延び、松前で、徳川脱走軍と合流して戦闘に加わったそうです。

 

 

「一行院」というのは、峠下での戦死者を祀っていたお寺だそうで、現在は廃寺となっています。

 


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