今日はいきなり地図の貼り付けから。
市電の「西4丁目」から「西15丁目」までの停留所がある「南1条通」を、「西15丁目」停留所からやや西へ行った地点です。
今では、幹線道路としてのイメージは薄れてしまっている感がありますが、実は明治期の札幌の都市計画において、現在の「創成川通」を道路整備の縦軸とするならば、横軸とされていたのは、この「南1条通」で、当時は「銭函街道」という通称で呼ばれていました。
その名のとおり、現在の小樽市銭函から、札幌市内へ向けて一本道が整備されていたということです。
古い時代の地図が入手困難なので、現在の地図に当てはめてみました。
赤線が、その「銭函街道」ということになるのですが、不思議なのが、青丸で囲んだ地点。
ここが、不自然にクランク状になっているのです。ある歴史関係書籍によると、明治29年の地図には、このようなクランク状の道路が確認できるそうです。
ちょっと車の動きを見てみましょう。
右折した自動車は、クランクを曲がって、この後左折していきました。
この赤い車も同様でした。
反対から来る車も観察。
やはり、左方向からクランクを曲がって来ていました。
明治期に整備された道路とはいえ、幹線道路としての位置づけなのに、何故不自然なクランク状になっているのか。
この辺りには、かつて、上の地図の水色の線で描いた小川が流れていて、ここが札幌市と、昭和16年(1941年)に合併した「円山町」(それ以前は「藻岩村」「円山村」)との境界だったそうです。
つまり、異なる行政単位に跨る道路だったということで、現在のように、国や道が計画を主導して一元的に道路整備を進めるような時代ではなかったこともあり、「銭函街道」という位置づけでありながら、札幌市と旧円山町とで、僅かに道路の位置がずれる形で整備され、それを、このようなクランク状で結び付けたということなのかなと思われます。
しかし、昔からの地図を見比べてみると、この地点の道路の形状は、色々と変遷を辿っていることが分かりました。
昭和10年(1935年)の地図。
今と同じようにクランク状になっています。
一気に年代が進み、平成10年(1998年)の地図。
状況は変わっていません。
遡って大正5年(1916年)の地図・・・、あれっ、クランク状になっていない!
実は、明治40年代に、不便解消のためか、クランク状を解消して、このような形で道が整備されていたのですが、それが、札幌市の発展途上における区画整備の過程で、再びクランク状が作られたということになります。
これは面白い発見だと思います。市の中心部に近い住宅街ということもあり、区画整備の過程においては、一区画は綺麗な四角形とし、周辺の道路はきちんとした直線にしておく必要があったということなのでしょうかね。
で、これが現在の地図。
クランク状の道路は当然残されていますが、よく見ると、青丸の中に、小さな斜めの道路がありますね。
25年前(平成10年)の地図ではなかった道路で、まるで、大正5年の地図にある道路の形を再現しているようにも見えます。
ということで、斜めの道を歩いてみました。
右方向に分かれる道がそれです。
真ん中に植樹帯があり、本線と側道のような関係にも見えます。
ここで一旦行き止まりのようにも見えますが、二つのマンションの境の先に、また小さな道があります。
道幅は狭いです。
先へ進んだ所。
この先が、旧円山町エリアにして、昭和後期、「裏参道」として整備され話題を呼んだエリアになります。
興味深い変遷を経て現在に至っている、かつての「銭函街道」とその周辺。
この小さな道路が整備された過程、調べてみたいです。
そうでしたか、よく通られる場所なんですね。
ここに限らず、札幌市内の、かつての小さな町や村の境界だった場所には、道路の形や町の区画割が不自然になっている所が多くて、そういう場所の歴史を掘り下げていくのも楽しいと思っています。
この場所も、まだまだ掘り下げて調べたいと思っています。