「つきさっぷ郷土資料館」。
昨日は外回りを紹介しましたが、今日は中を紹介します。
大正5年(1916年)当時の月寒の地図。
かつて「つきさっぷ」と呼ばれていた現在の月寒地区は、明治4年(1871年)に、現在の岩手県地方からの入植者によって開墾されたもので、それから45年経った大正5年には、道路も整備され、大きな集落として機能していたようです。
昨日も触れましたが、月寒には、大日本帝国陸軍の一つであった「第7師団」の「歩兵第25連隊」が置かれていました。
航空写真も残っています。
かつての「豊平町」の役場。
先程の模型に役場の位置が示されていますが、「豊平町」とは、現在の札幌市南区、豊平区及び清田区に相当する範囲に約7万7千人の人口を擁していた、全国でも最も規模の大きい「町」でした。
紆余曲折を経て昭和36年(1961年)5月に札幌市と合併しましたが、町内には合併に反対する声も根強く、全国で最も規模の大きい「町」であったことを考えると、もし合併せずに独自に「豊平市」となっていたら、札幌市とは違う独自の発展を遂げたことで、現在とは違う様相になっていたと考えると、大変興味深く感じられます。
月寒の開墾とその後の発展に多大な功績を残した「吉田善太郎」氏の写真。
月寒神社に、その功績を称える碑が建立されています。
開墾に用いられた道具も多数展示されています。
かつての国鉄「月寒(つきさっぷ)」駅の写真。
ほほう、競輪場があったんですね。
現在の「月寒体育館」も、この後行ってみたので、後日紹介します。
何度か紹介している「月寒あんぱん」も展示されています。
「月寒あんぱん」の製造が始まった頃の「型押し」が保存されていました。
連隊をイメージさせるデザインになっています。
復刻版出ないかな。
2階には、連隊関係の資料が多数展示されています。
終戦後の昭和20年(1945年)8月18日に、ソ連軍が「占守島(しゅむしゅとう)」を侵攻した戦いの資料もあります。
その戦いを指揮した、北部軍司令官の「樋口季一郎」氏の肖像画。
兵庫県淡路島の出身で、太平洋戦争開戦後の昭和17年(1942年)8月に、札幌に司令部を置く「北部軍」の司令官となった軍人です。
樋口季一郎による「己を修めて人を治める」の言葉。
まず自分自身を修養し、その後に他人を正しくするという、儒教の根本精神だそうです。
古いラジオが展示されていました。
音が聞こえていたので、当時の放送の録音かなと思いましたが、リアルタイムで放送されている、HBCのラジオ番組でした。
昔懐かしい電話の数々。
公衆電話って、赤だけでなく青や薄いピンクもありましたよね。
月寒の町と連隊の歴史について触れてみました。
この後は、周辺を歩いてみるとします。