龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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3月19日(土)<日常化が始まっている、という恐怖>

2011年03月21日 05時04分28秒 | インポート
昨日のことなのに、なんだか上手く思い出せなくなっている。

こんなにも異常な事態にさえ、脳みそは手慣れた日常として受け止めてしまう、ということなのだろうか。
あるいは、昨日水が出た、という安堵感があまりにも大きなものだったから、ついホッとしてしまったのだろうか。
結局もう新しくなにかやる、ということがなくなってしまった。

被災という非日常にあってさえ脳味噌の中で「日常化」は進行する。
たくましいというか、飽きっぽいというか、頼りにならないというか。

入院中の父の付き添い。
その交代の送迎。
母の薬を主治医にもらいにいく。
合間に食料の調達。

昨日「水汲み」がそのメニューから消えた。

変化はそのぐらいのものだ。

しかしまた、日常化は微妙な変化も生む。

同じく行列を作っているときでも、

給水場所では人は「共同的」に振る舞う傾向があり、

スーパーでは「個別的」な表情を持ち、

ガソリンスタンドでは「競争的」な原理が働いているかのようなのだ。

こんなことは普段経験できないので、メモしておく。

あくまで個人的な印象なのだが、

水<電話<食料<お風呂<家<ガソリン

水と情報は見知らぬ人とも分かち合える。

食料とお風呂は、見知った者、苦労を共にした者となら分かち合える。

そして、家とガソリン(車)は家族の中でしかシェアしにくい。

必要不可欠な生活の基盤であっても、その意味というか、有り様が異なっているようだ。

これも課題のひとつ。

それにしても、こんなに続いていいものかというほどまだ余震が起こる。
そのたびに記憶が蘇り、このまま揺れがあの時のように大きくなったら、とつい思ってしまう。
いちいちパニックは起こさないけれど、気持ちは悪い。


あとは、今日の出来事として特筆すべきは、洗濯の再開だ。

水がでた日は、お風呂しか思い付かなかった。
安定的に水が供給されてはじめて洗濯機は使える。それほどに水を大量に使うのだ、と改めて実感した。