昨日のことなのに、なんだか上手く思い出せなくなっている。
こんなにも異常な事態にさえ、脳みそは手慣れた日常として受け止めてしまう、ということなのだろうか。
あるいは、昨日水が出た、という安堵感があまりにも大きなものだったから、ついホッとしてしまったのだろうか。
結局もう新しくなにかやる、ということがなくなってしまった。
被災という非日常にあってさえ脳味噌の中で「日常化」は進行する。
たくましいというか、飽きっぽいというか、頼りにならないというか。
入院中の父の付き添い。
その交代の送迎。
母の薬を主治医にもらいにいく。
合間に食料の調達。
昨日「水汲み」がそのメニューから消えた。
変化はそのぐらいのものだ。
しかしまた、日常化は微妙な変化も生む。
同じく行列を作っているときでも、
給水場所では人は「共同的」に振る舞う傾向があり、
スーパーでは「個別的」な表情を持ち、
ガソリンスタンドでは「競争的」な原理が働いているかのようなのだ。
こんなことは普段経験できないので、メモしておく。
あくまで個人的な印象なのだが、
水<電話<食料<お風呂<家<ガソリン
水と情報は見知らぬ人とも分かち合える。
食料とお風呂は、見知った者、苦労を共にした者となら分かち合える。
そして、家とガソリン(車)は家族の中でしかシェアしにくい。
必要不可欠な生活の基盤であっても、その意味というか、有り様が異なっているようだ。
これも課題のひとつ。
それにしても、こんなに続いていいものかというほどまだ余震が起こる。
そのたびに記憶が蘇り、このまま揺れがあの時のように大きくなったら、とつい思ってしまう。
いちいちパニックは起こさないけれど、気持ちは悪い。
あとは、今日の出来事として特筆すべきは、洗濯の再開だ。
水がでた日は、お風呂しか思い付かなかった。
安定的に水が供給されてはじめて洗濯機は使える。それほどに水を大量に使うのだ、と改めて実感した。
こんなにも異常な事態にさえ、脳みそは手慣れた日常として受け止めてしまう、ということなのだろうか。
あるいは、昨日水が出た、という安堵感があまりにも大きなものだったから、ついホッとしてしまったのだろうか。
結局もう新しくなにかやる、ということがなくなってしまった。
被災という非日常にあってさえ脳味噌の中で「日常化」は進行する。
たくましいというか、飽きっぽいというか、頼りにならないというか。
入院中の父の付き添い。
その交代の送迎。
母の薬を主治医にもらいにいく。
合間に食料の調達。
昨日「水汲み」がそのメニューから消えた。
変化はそのぐらいのものだ。
しかしまた、日常化は微妙な変化も生む。
同じく行列を作っているときでも、
給水場所では人は「共同的」に振る舞う傾向があり、
スーパーでは「個別的」な表情を持ち、
ガソリンスタンドでは「競争的」な原理が働いているかのようなのだ。
こんなことは普段経験できないので、メモしておく。
あくまで個人的な印象なのだが、
水<電話<食料<お風呂<家<ガソリン
水と情報は見知らぬ人とも分かち合える。
食料とお風呂は、見知った者、苦労を共にした者となら分かち合える。
そして、家とガソリン(車)は家族の中でしかシェアしにくい。
必要不可欠な生活の基盤であっても、その意味というか、有り様が異なっているようだ。
これも課題のひとつ。
それにしても、こんなに続いていいものかというほどまだ余震が起こる。
そのたびに記憶が蘇り、このまま揺れがあの時のように大きくなったら、とつい思ってしまう。
いちいちパニックは起こさないけれど、気持ちは悪い。
あとは、今日の出来事として特筆すべきは、洗濯の再開だ。
水がでた日は、お風呂しか思い付かなかった。
安定的に水が供給されてはじめて洗濯機は使える。それほどに水を大量に使うのだ、と改めて実感した。