龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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自然か、人為か(その2)

2011年03月20日 10時38分22秒 | インポート
今この国では、原発を新たな「外圧」=「自分以外の場所にある不可視の中心」として機能させ、自らを周縁と位置付け直そうとする物語がいたるところで発動している。

そんな中でハイパーレスキュー隊員が、

「日本の救世主になってください」
という家族のことばを胸に、命がけで倫理的な責任感から、懸命の放水活動を「不可視=不可触」の「負の中心」に向かって続けてくれたことは、福島県民としてどれほど感謝すればよいか分からない。

泣けてくる。

課題は、その個々の自己犠牲的でさえある高い「倫理性」を、社会がどんな形で回収しようとするか、だ。

いっぽうでは、原発事故を無意識のうちにあたかも荒ぶる「自然」の神に喩えてしまい、結果としてそのように振舞うことが考えられる。

けれど、それに対置してそれぞれの「断片」としてのわたし(たち)が「倫理的」責任をそこで徹底的に思考しておくことは、さらに決定的に重要だ。

自然観と倫理の問題といってもいい。

選択の余地、自由が存在するところに初めて責任が生じるのは近代的ルールの基本だろう。

負の中心に全ての根拠を背負わせて、無力の自由を行使し続けるよりは、圧倒的な自然の脅威的力の前にあっても、不自由を承知で自らの倫理を問うことが、福島県民としてのわたしにとっては、今一番大切なことだと思えてならない。

それは、単に自らの無力と無知の結果を、後付けの「不可能な倫理」を遡及して求めることで覆い隠そうというつもりなのではない。

そうではなく、一元化されたモノの見方に対して、断片の側からとこばを発しようとするときには、そういう断片は断片なりに、倫理的であろうとすることが必要不可欠だと考えるからだ。

どんな場合でも、「考え」は後付けでしか立ち上がらないことは確かなんだけどね(笑)。

実務的 ・現実的には、現場の方々には放射能の封じ込めに全力を挙げて欲しいし、周辺住民のわれわれは冷静に事態を見守って対処したい。

その上で政府や東電にはしっかりと結果の責任をとり、補償をして欲しい。

だが、放射能汚染の内部に留まって生活しつづけているモノとしては、これをだれがが引き起こした事件(それが自然であれ電力会社であれ)として「だけ」済ませるわけにはいかないのだ。

たやすく無力&無知の旗を上げる愚だけは犯したくはない。

だって、原発の危険は漠然とであれ、なにしろ「知っていた」のだから。

ただし、これは自分の立場を特権化することではないし、法的に東電や政府の責任を追及することの放棄でもない。

ましてや自虐の身振りでもない。

単純に権力論を意識すると、微細な権力の遍在みたいな話になりかねないから難しい。
政治の話に倫理が入ってくるのはやはり避けられない、と思う。

が、ま、それはさておき。

とにかく、屋内退避圏内までが実質上避難しはじめているということは、このいわき市が、原発地域の最前線、ということになるわけだ。

この場所で物事を考える、ということは、単純に(処世術的に)辺境意識を煽ることであってはなるまい。

ましてやグローバル経済の中の単なるミクロなファクターとして(たとえ絶望の身振りは装っていたとしても)原発事故を扱うようなことはしない。

私にとっての答えは、内田樹的な辺境主義の中にも、池田信夫的グローバルスタンダードな「絶望」の経済認識の中にも、ないことがようやく分かった。

そしてわたしが分かったことそれ自体は、無数にある主体のひとつの揺らぎにすぎないといえばいえる。

それでも、統合を欠いた単なる弱さとしてたけではなく(つまりは本来あるべき統合を失った断片としてだけとらえるのではなく)、一見すると無力であるような個を見つめ直す契機として「倫理」を考えたい、ということなのである。



自然か、人為か。

2011年03月20日 08時59分12秒 | 大震災の中で
広瀬隆というライターがいる。今手元に資料がないが、
『東京に原発を』
などの著書があり、一貫して福島原発を含めてその危険性に警鐘を鳴らし続けて来た、と記憶している。

また、昨日友人からのメールで、こんなサイトを紹介された。

http://www.jcp-fukushima-pref.jp/seisaku/2007/20070724_02.html

チリ地震級の津波が襲ったら、福島原発には間違いなく今回のようなことが起こる、という警鐘が既に
4年以上も前に指摘され、東電側にも福島県の議員から申し入れがなされて来ているわけだ。

1000年に一度の大地震だから誰かの責任を問う前に一丸となって事態に対処すべきだ、という報道や政府の方向付けが、この瞬間の対応として直ちにまちがっているとはいわないが、どうしても苦いものを飲み下すような思いを抱く。

ハイパーレスキュー隊というのだろうか、東京都の消防庁の精鋭が、文字通り命を掛けて放水作業を行い、高い成果を挙げた、ときくと、さらにその苦さは深くなる。

つまり、東電側はこの事態を全く予測もできず、危険性を察知する科学的知見を全然持ち合わせていなかったのか、それとも、今のように首都圏向けの発電量を減らすことはできないから、今回のような事故の可能性を予見しつつも、そのままの状態を続けて来たのか?

そういう疑問が湧く、ということだ。

確かに地震それ自体は、未曾有のモノだったのだろう。

それは分かる。

だが、東電は
上記のサイトのように中越沖地震を踏まえて出された
津波への懸念を、単なる原発忌避を前提とした根拠なき言い掛かりとして、単に無視し続けて来たのだろうか。

今日の疑問点の一つ目。

福島原発が海沿いに立地されていることを考えたとき、もし津波の影響でバックアップの電源が壊滅したのだとしたら、これは明らかに人災ではないのか。

つまり、炉は停止できる(核分裂反応は止めることができる)けれど、冷却関係が弱いことは織り込み済みで、首都圏の電力供給のために古い設計のまま老朽化した福島原発をかどうさせていたのではないか、ということだ。

一ライターや、県議会議員が容易に抱く疑念なのに、そしてそれがこうして現実として起こっているのに、研究者たちがそのリスクを全く認識していなかったと思えるほどに私はナイーブではない。

断っておくが、ここで主張したいのは、とりあえず東電批判ではない。

福島県民の背負うリスクを計算によって知りながら、私たちをきちんと啓蒙しなかった専門家たちの倫理的責任である。

専門家たちの中には無論東電も入るけれど。

他方、上記の原発批判者の言説もまた、疑問の対象となるだろう。

確かに、原発批判者たちはその危険性を言いたてる。反対の声を上げ続ける。

だが、彼らは、私たち「愚かな」福島県民を十分に啓蒙しきることはできなかった。知っているモノには責任があるだろう。
その倫理的責任は、主張の正しさによって、果たして免責されるのか、という疑問を呈したいのだ。


急いで言っておくと、福島県民は無垢であっていい、ということがいいたいのではないし、分かっていたのに行動しなかったか、さらに愚かだった、というのでもない。

私たち被害者たちには、倫理的責任がないのか、ということである。
正しさによる免責と、無知による免責とをどこまで行使しえるのか、という疑問である。


今日の2番目の疑問点

なぜ、正しいひとたちは、その正しさをもって福島県民を啓蒙できなかったのか。

当然これは権力論のはなしにもなるだろう。

「予見可能性」をめぐって東電がどれだけ今回の津波によるバックアップ用冷却系の被害を事前に計算できたかが、裁判の争点になるだろう、とは素人でも予想できる。

二つ目の疑問からは、
だからいってたじゃないか、と「正義の人」が続出してウンザリさせられ、
いっぽうでは計算の範囲でわかってやってるんだけどね、というしたり顔の経済学者やらがあらわれて神経を逆なでし、
はたまた権力者の陰謀論みたいな政治批評が「蔓延してウンザリさせられ
、といったことが予想できる。

だが、ことが起こってみると、「正しさ」も、「啓蒙」も、「陰謀」も、

「後から『先に』分かっていたと分かる物語」

に過ぎない、と「分かって」くる。

私たちは原発の危険性を知ってはいなかっただろうか。
いや、知っていた。

ただ、こんなことになろうとは思わなかっただけだ。

福島県民も、東電も政府も首都圏の電力消費者たちも、こんなことを望んではいなかっただろう。

そして、この危険を察知していたモノたちはその危険から目を逸らし、あるいは警鐘を鳴らしていたモノたちは無力だった。

政府と東電は原発事故の責任を問われていくだろう。
近代的ルールからいえば当然のことだ。

けれど私は、それとは別の次元で、

1.権力者の判断
2.企業の経済論理、
3.首都圏電力消費者の欲望、
4.原発地域の住民の日常化による感覚の鈍磨、

それぞれがそれぞれ明確さの度合いは違っていても危険を認識していたはずなのに、なぜこの事態を止められなかったのか、

「倫理的理由」

が知りたいのだ。