今この国では、原発を新たな「外圧」=「自分以外の場所にある不可視の中心」として機能させ、自らを周縁と位置付け直そうとする物語がいたるところで発動している。
そんな中でハイパーレスキュー隊員が、
「日本の救世主になってください」
という家族のことばを胸に、命がけで倫理的な責任感から、懸命の放水活動を「不可視=不可触」の「負の中心」に向かって続けてくれたことは、福島県民としてどれほど感謝すればよいか分からない。
泣けてくる。
課題は、その個々の自己犠牲的でさえある高い「倫理性」を、社会がどんな形で回収しようとするか、だ。
いっぽうでは、原発事故を無意識のうちにあたかも荒ぶる「自然」の神に喩えてしまい、結果としてそのように振舞うことが考えられる。
けれど、それに対置してそれぞれの「断片」としてのわたし(たち)が「倫理的」責任をそこで徹底的に思考しておくことは、さらに決定的に重要だ。
自然観と倫理の問題といってもいい。
選択の余地、自由が存在するところに初めて責任が生じるのは近代的ルールの基本だろう。
負の中心に全ての根拠を背負わせて、無力の自由を行使し続けるよりは、圧倒的な自然の脅威的力の前にあっても、不自由を承知で自らの倫理を問うことが、福島県民としてのわたしにとっては、今一番大切なことだと思えてならない。
それは、単に自らの無力と無知の結果を、後付けの「不可能な倫理」を遡及して求めることで覆い隠そうというつもりなのではない。
そうではなく、一元化されたモノの見方に対して、断片の側からとこばを発しようとするときには、そういう断片は断片なりに、倫理的であろうとすることが必要不可欠だと考えるからだ。
どんな場合でも、「考え」は後付けでしか立ち上がらないことは確かなんだけどね(笑)。
実務的 ・現実的には、現場の方々には放射能の封じ込めに全力を挙げて欲しいし、周辺住民のわれわれは冷静に事態を見守って対処したい。
その上で政府や東電にはしっかりと結果の責任をとり、補償をして欲しい。
だが、放射能汚染の内部に留まって生活しつづけているモノとしては、これをだれがが引き起こした事件(それが自然であれ電力会社であれ)として「だけ」済ませるわけにはいかないのだ。
たやすく無力&無知の旗を上げる愚だけは犯したくはない。
だって、原発の危険は漠然とであれ、なにしろ「知っていた」のだから。
ただし、これは自分の立場を特権化することではないし、法的に東電や政府の責任を追及することの放棄でもない。
ましてや自虐の身振りでもない。
単純に権力論を意識すると、微細な権力の遍在みたいな話になりかねないから難しい。
政治の話に倫理が入ってくるのはやはり避けられない、と思う。
が、ま、それはさておき。
とにかく、屋内退避圏内までが実質上避難しはじめているということは、このいわき市が、原発地域の最前線、ということになるわけだ。
この場所で物事を考える、ということは、単純に(処世術的に)辺境意識を煽ることであってはなるまい。
ましてやグローバル経済の中の単なるミクロなファクターとして(たとえ絶望の身振りは装っていたとしても)原発事故を扱うようなことはしない。
私にとっての答えは、内田樹的な辺境主義の中にも、池田信夫的グローバルスタンダードな「絶望」の経済認識の中にも、ないことがようやく分かった。
そしてわたしが分かったことそれ自体は、無数にある主体のひとつの揺らぎにすぎないといえばいえる。
それでも、統合を欠いた単なる弱さとしてたけではなく(つまりは本来あるべき統合を失った断片としてだけとらえるのではなく)、一見すると無力であるような個を見つめ直す契機として「倫理」を考えたい、ということなのである。
そんな中でハイパーレスキュー隊員が、
「日本の救世主になってください」
という家族のことばを胸に、命がけで倫理的な責任感から、懸命の放水活動を「不可視=不可触」の「負の中心」に向かって続けてくれたことは、福島県民としてどれほど感謝すればよいか分からない。
泣けてくる。
課題は、その個々の自己犠牲的でさえある高い「倫理性」を、社会がどんな形で回収しようとするか、だ。
いっぽうでは、原発事故を無意識のうちにあたかも荒ぶる「自然」の神に喩えてしまい、結果としてそのように振舞うことが考えられる。
けれど、それに対置してそれぞれの「断片」としてのわたし(たち)が「倫理的」責任をそこで徹底的に思考しておくことは、さらに決定的に重要だ。
自然観と倫理の問題といってもいい。
選択の余地、自由が存在するところに初めて責任が生じるのは近代的ルールの基本だろう。
負の中心に全ての根拠を背負わせて、無力の自由を行使し続けるよりは、圧倒的な自然の脅威的力の前にあっても、不自由を承知で自らの倫理を問うことが、福島県民としてのわたしにとっては、今一番大切なことだと思えてならない。
それは、単に自らの無力と無知の結果を、後付けの「不可能な倫理」を遡及して求めることで覆い隠そうというつもりなのではない。
そうではなく、一元化されたモノの見方に対して、断片の側からとこばを発しようとするときには、そういう断片は断片なりに、倫理的であろうとすることが必要不可欠だと考えるからだ。
どんな場合でも、「考え」は後付けでしか立ち上がらないことは確かなんだけどね(笑)。
実務的 ・現実的には、現場の方々には放射能の封じ込めに全力を挙げて欲しいし、周辺住民のわれわれは冷静に事態を見守って対処したい。
その上で政府や東電にはしっかりと結果の責任をとり、補償をして欲しい。
だが、放射能汚染の内部に留まって生活しつづけているモノとしては、これをだれがが引き起こした事件(それが自然であれ電力会社であれ)として「だけ」済ませるわけにはいかないのだ。
たやすく無力&無知の旗を上げる愚だけは犯したくはない。
だって、原発の危険は漠然とであれ、なにしろ「知っていた」のだから。
ただし、これは自分の立場を特権化することではないし、法的に東電や政府の責任を追及することの放棄でもない。
ましてや自虐の身振りでもない。
単純に権力論を意識すると、微細な権力の遍在みたいな話になりかねないから難しい。
政治の話に倫理が入ってくるのはやはり避けられない、と思う。
が、ま、それはさておき。
とにかく、屋内退避圏内までが実質上避難しはじめているということは、このいわき市が、原発地域の最前線、ということになるわけだ。
この場所で物事を考える、ということは、単純に(処世術的に)辺境意識を煽ることであってはなるまい。
ましてやグローバル経済の中の単なるミクロなファクターとして(たとえ絶望の身振りは装っていたとしても)原発事故を扱うようなことはしない。
私にとっての答えは、内田樹的な辺境主義の中にも、池田信夫的グローバルスタンダードな「絶望」の経済認識の中にも、ないことがようやく分かった。
そしてわたしが分かったことそれ自体は、無数にある主体のひとつの揺らぎにすぎないといえばいえる。
それでも、統合を欠いた単なる弱さとしてたけではなく(つまりは本来あるべき統合を失った断片としてだけとらえるのではなく)、一見すると無力であるような個を見つめ直す契機として「倫理」を考えたい、ということなのである。