龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
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モノが消えた!(震災の翌日3/12)

2011年03月16日 23時49分41秒 | 大震災の中で
3月12日(土)のこと(その3)
今、当時のメールのやりとりをたどりながら数日前のことを思い出しつつこのブログを書いている。

それにしても、翌日からこれほど早く商品が棚から消えるということには改めて驚かされる。
あ、思い出した。確かに、11日(金)の夕方、断水の話を聞いたとき、私は病院を出てちかくの酒屋さんに走り、ペットボトルの水2リットル×6本を購入してクルマに積んだのだった。

それは間違いなく地震当日のことである。買い占め心理は、翌日のスーパーで他人の様子を見て起こってきた衝動ではなく、不足や不便がすなわちそれを代替するべきモノの購買欲求に直結しているのだ、ということが改めて確認できる。

16日(水)の時点で、政府から燃料の買い占めを首都圏で行わないでほしい、というアナウンスがなされているのを聞いたが、そういうもの、なのですね、人間は。どう考えても不足するわけはないものであっても、「不安」になるとつい備蓄に走るのは、実際の「需要」とは決定的に異なる行動に違いない。

ただし。
首都圏の知人に水を送ってもらおうと連絡をしたら、既にペットボトルの水が市場から消えていた。
災害援助の側から物流にコントロールが入って、被災地優先にブツが確保されている、という動きも大きくはあるのかもしれない。

ガソリンの不足については、それほど日々の物流に油の供給は頼っていたのか、とびっくりさせられる。これも物流をコントロールする意図が働いているのかもしれないが、その割には被災地にも届いていない。

このあたり、素人かつ被災地の住人には見えない。実感として分かるのは不安にかられた衝動買い、の欲望ばかりである。

結局無事ドッグフードと日本人のソウルフードを携えてドラッグストアを後にすることができた。

この時点では、てっきり「あとは水の心配だけだ」と思っていた。





病室から外へ。メディア→現実へ(信じられない惨状)

2011年03月16日 23時36分40秒 | 大震災の中で
3月12日(土)のこと(その2)

昼前、付き添いを交代して家に帰る。
道路はさほど混んではいない。こっちの道路を行った方がいい、と教えてもらったおかげだ。
通行止めになっていた橋は、津波を警戒してのことだったらしい。今日は何事もなく通ることができた。

しかし、帰り道に海沿いの街並を通ると、はじめて津波のすごさを自分の眼で見ることになった。
川の橋桁にクルマが引っかかって宙づりになっていたり、壁際にクルマが3台、まるで崩れかけたハンバーガーのように積み重なっていたり、警察署の交差点の角に、軽乗用車が突き刺さっていたり……。

こだわるようだが、

「TVの映像で繰り返された惨劇を自分の瞳で再認し、大きな災害の中に再配置していく作業を、そのとき行っていた」

のではないかと、今この16日(水)夜の時点では考えてしまう。

一端家に帰るが、犬の餌が不足していると母が気にしていたので、犬の餌を買いに走るが、どこにも売っていない。
というか、店は開いていても、商品が決定的に不足気味になってきている。

これも不思議と言えば不思議なことだ。
地震の翌日にはスーパーやドラッグストアからモノが消え始める。実際の物不足の前に、災害情報によって不足のイメージが先取りされ、私達の行動がそれを追認していく作業になっているような気がする。
私は最初犬の餌を探していたのだが、これもまた付和雷同というか、他の物資も押さえておいた方がいいのではないか、と、「欠如のイメージ」を共有=内面化していってしまうことになる。

6軒目だったか7軒目に通りかかったドラッグストアの灯りが付いていたので、ダメもとでクルマを停め、店に入る。
照明は半ば消え、閉店間際の様相だ。
既にドラッグストアの隅にある生鮮食料品と飲み物のコーナーは完全に売り切れている。

目的のペットフードコーナーに行くと、まだドッグフードは平積みになっていた。
だが、高齢者(犬)用のものは最後の一袋。
「やった!」
とそれを抱えてレジに向かおうとするが、
「ちょっとまてよ、今水が止まってるけれど、こんな風に商品の棚が空になるのだから、米ぐらいは買っておいた方がいいかも」
と内面化された「欠如のイメージ」がけしかけ、米10キロとドッグフードを抱えてレジに並ぶ。

ところが、気がつくと現金がない!
それまでに、病人用グッズをいろいろと買い足していて、ATMに寄る暇が無かったのだ。
カードで買えばいいや、と思ったが、携帯も通じない状況ではクレジットの照合通信も怪しいかも知れないと思い、レジの人に尋ねると、案の定カード決済は停止中、とのこと。
文明的生活から一つ一つ薄皮をはがすように原始に帰っていく感覚がここで最初に生まれた。

お店から出てもう一度来る頃には閉店になってしまうし、米も高齢者用ドッグフードも最後の1袋。
誰かに買われてしまうかもしれない。
家族に電話をするがなかなか通じない。これで最後と思ってかけた電話が繋がり、現金をお店まで持ってきてもらうことにする。

たくさんの人があるだけの商品を山のように買っていくのをレジ脇で眺めながら、果たしてこの状態から脱して日常に戻るのはいつになるのだろう、とぼんやり考えていた。



父の看病をする閉じられた病室の中、「大震災」はTVからやってきた。

2011年03月16日 22時43分56秒 | 大震災の中で
3月12日(土)のこと

病室の中で眠ったり起きたりの父親と対話する小さな世界から引きずり出されたのは、翌日(3月12日土曜)になってからのことだった。

 港の方は津波で大変なことになっているらしい

 いや、南の方でも堤防を越えて街中まで津波がきたようだ

 中学校と高校が避難場所になったよ

 昨夜からの断水がまだ続いているんだ

 道路も寸断されてるから、渋滞で身動きがとれない

 10日ほど付き添い生活で世間から離れていた暮らしに、突然最大級の衝撃波が襲いかかってきたように思われた。
 切れてしまったTVカード(入院時、病室のテレビはテレカの様な病院専用のカードで冷蔵庫とテレビを度数管理している)を購入してテレビのニュースを追い始めると、朝から地震と津波のニュースしかやっていない。

しかも全局共通だ。

 正直いえば、ほんの数日前までツイッターでマスメディアの報道均一化は記者クラブが諸悪の根源だ、みたいな論調をよく見聞きし、
「ふーん、そういうものか。でも国民国家を情報として支えたのが市民が朝読む新聞であった、という大澤真幸の分析からすれば、いまさら新聞やTVの報道が『均質的』だって指摘するのはどうなの?むしろそういう風に機能することがマスコミの大きな役割だったんじゃないの?」

ぐらいに「新聞(&TV)の読めなさ」を認識していた。つまりは、記者クラブ=マスコミはその均質化の欲望の「鏡」として覗くものだろう、程度に考えていたわけだ。

ところが、この圧倒的な均質報道を目の当たりにして、私は正直、この災害の巨大さを思い知らされていくのである。

それは大事件・大災害だから当然だ。針小棒大に小沢某の政治資金規正法違反をあげつらうのとは訳が違う……といって見ることはできる。

ここはとても難しいところで、間違っても現代文明批判とか、マスコミ批判とかの「文脈」で考えてほしくないし、まして昔は良かった懐古主義とは無縁の話なのだが、40数年前、楢の薪を家の裏に一冬分購入し、それで風呂を沸かし、七輪に練炭を入れて火をおこして煮炊きし、井戸水を汲んでいた頃、そして電話が町内に1軒しか引いていなかった頃は、現在、寸断されると生命の危機さえ覚えるような「ライフライン」なるものは、現代と比べるとその重要性は極端に低かった。
たしかに水道も来ていたし、電気も通じていた。

しかし、年長の人は思い出せば分かることだが、当時は停電があるのは当たり前だったし、断水だってしょっちゅうだった。
そんな風に生活していたのだ。高度経済成長前夜のことである。

ところが、今回、災害はまずメディアからやってきた。
いや、上記の「昔」と比較すると「ライフライン」もまた、ある種の虚構的ネットワークの一種なのではないか、という疑念が、1週間経った「私」の立場からすると頭をもたげてくる。

だが、一足飛びに結論を探すのは控えよう。
とにかく、3月12日土曜日の時点から連続的にTVの報道に釘付けになった私は、閉じられた病室の中で、そこでは病院ということもあり、ライフラインは完全に確保されているにもかかわらず、そして被災地のただ中にいるにもかかわらず、メディアによってはじめてその中に置かれることになったのである。




大きな災害はすぐには全容が掴めない

2011年03月16日 22時21分17秒 | 大震災の中で
3月11日のこと。(その2)
しかしながら、最初は正直なところ他人事の不安だった。
家が海沿いにあるわけではないので、「大津波警報」と聞いても実感は湧かない。
早くみんな逃げてくれればいいけど、と漠然と思うだけのことだ。

被災地の中にいる、と実感しはじめたのは夕方になってからのことだった。

家族で付き添いのシフトをしているのだが、夕方の当番になっている長男と連絡が取れない。
まず携帯が繋がらない、というのが最初の障害だった。

夕方からの当直の看護師の人に
「海側から二本目までの橋は通行止めになっているみたいだよ」
と教えられ、昨日走った橋が落ちたのか、と思うと急に怖くなった。

家族同士でなんとか連絡を取り、長男は学校帰りに大渋滞に巻き込まれていることを知り、もう一晩そのまま病室に泊まることにする。

しかしこの時点ではまだ、一過性のよくある出来事としか考えていなかった。

父親の病状は一週間過ぎたあたりから小康状態となり、家に帰りたいと言い始めていた。
年寄りの長期入院は体力的にも認知の面からも、それ自体が高リスクである。
しかし、高齢者の気胸(咳き込んだときなど、肺に小さな穴があく病気)はなかなか塞がらないのだという。
病気と体力低下、相反するリスクをマネージメントしながらの治療は、なかなか簡単ではない。

病室の外のことは世間の人に任せておこう。

夜になってもまだそんな風に思っていた。

3月11日(金)のこと<宮城県沖地震の記憶と「大津波警報」>

2011年03月16日 22時02分29秒 | 大震災の中で
3月11日(金)のこと 
2月末に父が緊急入院。それからしばらく厳しい容態が続く。
 そのため家族全員の生活が父親の付き添いを中心に回っていた。
 だから、当日3月11日(金)の午後も仕事を休んで父親の付き添いをしていた。

 看護婦さんが病室にきて点滴を替える。世間話をしているうちに、ぐらっときた。最初はそれほど大きな揺れとは思わなかった。去年新築したばかりの病棟は、地震が起きても不安はない。
 だから最初は何も心配せず、他の患者さんの様子を見に行くという看護師さんの代わりにベッドの脇に立ち、点滴が倒れないように押さえていた。

 だが、揺れがいつまで経っても収まらない。
 これは大きい地震だな、と思うまもなく、連続的に大きな横揺れが襲ってきた。

 視線を上げて窓の外を見ると、3Fの病室から眺めた駐車場では、クルマが前後にステップを踏むように「踊って」いた。

 とっさに30年前の記憶が蘇る。宮城県沖地震の時は丁度大学の二年生だった。あのときは、貯水池の水が「踊り出し」て、溜め池の隣の敷地に水が全部飛び出してしまい、底が見えていたっけ。

 いそいでTVをつけると、震源地は宮城県沖だという。けれどそのときは、津波の警報が出ているなあ、とぼんやり思っただけで、病室の日常に意識は戻っていった。

 どうも様子がおかしいと感じ始めたのはそれからしばらく経ってからのことである。考えてみると「大津波警報」というのが聞き慣れない。三陸沖とかはリアス式海岸だから津波の高さが湾の奥で高くなる、とは聞き知っていたが、報道を聞いているうちに、次第に不安が大きくなってくる。