龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

3月17日(木)<父の意識の断片化と『マッド・マックス』的ガソリン需給状況>

2011年03月18日 22時06分59秒 | 大震災の中で
ガソリンが市内に届いた、との噂が朝からささやかれて、またぞろガソリンスタンドには行列が出来ている。
実際、一部の独立系GSでは給油ができた、ということもあって、噂は繰り返し立ち現れる。
実際に給油できたのかどうか、朝並んでいた列は、夕方には消えていて、しかも給油している現場を見たことがないのでなんともいえないのだが。

これはまるで、ガソリンを求めてサバイバルゲームを続けるオーストラリアロケの映画『マッドマックス』を彷彿とさせる。
むろんただ行儀良く並んで、いつ来るとも分からない油を待つっていうのは、映画とは比べようもないほど「牧歌的」ではあるのだが。

さて、また屋根のシートと重しがずれたので、それを屋根に上がって直す。
屋根の上は、地面と比べると驚くほど風が強い。ビニールシートは容易に「風に舞い上がるビニールシート」になってしまう。
これを押さえる重しは土嚢が最適だと最初は分からなかったから、瓦のがれきを重しにした後で土嚢をくくりつけるという二度手間になっている。
素人の仕事とはそういうものなのだろう。

手本のないサバイバルはみな、自分で失敗して落とし前をつけ、その上でやり直すか別のことをやりはじめるかも自ら選択しなければならない。
こういうこと一つとっても、手仕事は面白いものだ。

そして、土いじり(土嚢)と水仕事(給水)を交互に毎日やっていると指先がかさかさに荒れてくる。

日を追うごとにひどくなり、生まれてこの方冬場でもハンドクリームなど付けたことがない脂性の私が、日に何度か手にクリームを塗るようになった。

同僚に教えてもらった消防分団の水道は、給水所と違って人が並ばない。
車も蛇口に横付けできるから、給水し放題である。
良質の水場を見つけた動物は、こんな気持ちになるものだろうか。

一つ一つの行動が「生」と結びつく実感がある。
むきだしの「自然」が露呈する惨事に見合った形で、それと向き合いつつなおも「生」を全うしようとするときにこちら側の内面から立ち上がってくるものこそが「生」なのだろう。

それ自体は断片的な衝動のようなものなのかもしれないが、自然の脅威を「意味あるもの」としてつなげ、それに見合った自己を一貫した行動として効率よく立ち上げていく働きこそが、人間の営みの根本にあるような気がしてくる。

非日常で気分が高ぶっているがゆえの「想像」に過ぎないのかもしれないが。

入院してからこのかた、父親の意識が、より「断片化」してきているような気がする。
遠いところから、病気の負担で思うようにならない身体をなんとか制御しようと苦労している父親の存在を、その断片化された行動の端々から感じると、彼の精神は崩壊しつつあるのではない、という実感が湧いてくる。

これもまた、身内の存在を永続的なものとして捉えたい願望がそういう認識を招き寄せる、と言われてしまうだろうか。

だが、これは正直な実感なのだ。

私が見るところ、精神の「断片化」と「崩壊」とは断固違う。

精神が「崩壊」(ひらたくいうとボケ、ですね)する、という考え方には、元来精神とは「理性的統一」が前提となっており、それを自らも自明の前提とした働きであると、無前提に前提している「匂い」がつきまとう。

私達の脳みそには、実のところ現象を認識すると思考を経由せずにオートマティックに反応する部分がたくさんあって、それらもともと断片にすぎない反応を、後から、あたかも先取りした統一体があるかのように「思う」のがいわゆる「精神活動」なのではないか。。

基本的な脳の活動は必ずしも長期的に一貫性を持っているのではなく、断片化した反応を後から統合して一貫性を跡づけている、といってもいい側面があるだろう。

父を見ていると、その後から先取りして自分を保つという手品のような身振りを「精神」というなら、そのカバー、フォローは必ずしも十分ではなくなりつつあるようにも思える。

認識・思考・記憶・反射・本能・意思・行動などさまざまな枠組みで考えることのできる精神の活動は、みかけほど全てを覆い尽くしている人間身体にとっての神様みたいな存在ではなく、つねに「断片」として存在する様々な働きを、辛うじて取捨選択することで一貫性を見いだしているように思われる。

そのバランス調整が少し崩れると、新たなバランスを求めてぎくしゃくした動きになる。
あるいは体調がいよいよ不良になったり、体力が低下して一貫性が保持できなくなってくると、身体レベルの「断片」がそのまま浮上してくるだけのことだ。

まあ、意識レベルが低下してくる、という意味では崩壊も断片化も同じようなもの、といえばいえる。

しかし、元来統一されているべきもの、という前提で崩壊した、と見なす場合と、もともとけっこうバラバラだったものをなんとかやりくりして統合してきたが、しだいに身体が追いつかなくなって、意識そのものの上に断片がそのまま浮上してくる瞬間が多くなってくる、と見なす場合では、人間観が根本的に変わってくる。

被災者の方が、「普通の生活に戻りたい」「普通でいいんです」と声高でなく、ささやくようにインタビューに答えていたのが印象にのこった。
その「普通の生活」とは、断片的で多方向を指す無数の風見鶏のような現実の事象を、なんとか生活の中で馴致しながら、動的バランスを保つことであり、断じて
「単に蛇口をひねれば水が出るのが当たり前だ」
ということを「普通」というのではあるまい。

もしかすると、発話者の表層的意識としては、電気と水と家があって放射能がないこと、というだけの意味なのかもしれない
「普通の生活」
はしかし、そういう底の話では収まらないような気がする。

特に、この震災をくぐり抜けてしまった今では。

話が少々ずれた。

17日は屋根を補修し、水をまた汲みに行ったあと、おにぎりとゆで卵をつくり、夕刻付き添いの家族に届けに行った。

父は大声で「帰る」「水」「おしっこ」「ご飯」を繰り返している。

なんのことはない、大震災という大事象の中で私達が右往左往しつつ求めている、「水と食事と住居とかえるべき日常」と全く同じことではないか。

壊れかけた肉体の中で父が求めていることと、壊れかけた福島県の南の端で私が求めていることは、意外なほどシンクロしている。

震災の中で無力な自己でしかない私と、壊れかけた身体の中に閉じ込められて、「家(普通の生活の中)でお茶を飲み、こたつでごろ寝がしたい」と願う父は、いったいどこが異なるというのか。

小事象と大事象が二重写しになった「終末」を同時に抱えながら、その中間領域としての仕事とか社会とか、地域とか、国家とかをどう捉え直すか。

ようやく1週間の時を経て、自分なりの課題が見えてきたような気がするのもまた、極限状況における思考の固着化とか、逃避的妄念の一種に過ぎないのだろうか。



3月16日(水)その3<ゴーストタウンのような街並もしくは映画的リアル>

2011年03月18日 19時03分08秒 | 大震災の中で
私の住んでいるところは丘の上で、そこから南に下って病院にいく途中、津波が押し寄せた海沿いの街中を通るのだが、街中のお店というお店が閉まっている。

銀行も、飲食店も、コンビニも、携帯ショップも、喫茶店も、塾も、一軒たりとも開いていない。そして、津波が残した土砂は、道路を薄く覆うだけでは収まらず、さらに両脇に吹き溜まって、風に煽られるたびに白い砂埃を立ち上げている。

昔『ブラック・レイン』という外国の監督映画があって、ざらついた感触のフィルムで撮られた日本の街並が、まるでどこか別の世界のように見えて驚いたことがあった。

津波の後の街は、それに似た違和感がある。

画面の色調はブラック・レインではなく、白っぽい砂埃の立つ西部劇なのだが。

ふと、ここでサバイバル映画のロケをすれば面白い、と空想してしまう自分を止められない。
普段から不謹慎な妄想はよくする方だが、この大震災からこちら、忘れていた不条理な笑いを取り戻しつつある自分を自覚する。

近代が積み上げてきたその突端にあるこの「生活」のリアリティではない、別の「リアル」が間違いなくここには顔を出している。

醜悪だとか、爆笑ものだとか、単純な恐怖だとか、むしろ美しいとか、そういった表象のカテゴリーには収まりきれない、「あられもない」「モノ自体」の感触。

一生に一度しかない、貴重な体験ではあるのだろう。



3月16日(水)その2<閉鎖されたガソリンスタンドに並ぶ車>

2011年03月18日 18時51分59秒 | 大震災の中で
昨日(15日)あたりから、ガソリンスタンドに並ぶ車の列が目立ち始めた。
警察の人が「デマだよ、デマ」といって道路で並ぶ車に声をかける。
実際、独立系のGSのごく少数が給油を行っているが、大手の看板を立てたところで給油しているお店は見当たらない。

病院に向かう途中、2軒のガソリンスタンドが長蛇の列になっていた。当然ながらスタンドは閉じたまま、である。微妙に他のガソリンスタンドもあるのだが、そこのコスモとエネオスだけに人が並んでいるのだ。

コスモは昨日も今日も連日の行列である。そしてスタンドの店員はいない。
車の速度を下げて待っている人に声をかけると
「わかんないけどとりあえず並んでみてるんだ」
とのこと。

たしかに田舎に行けば行くほど、車は生活を支える不可欠の道具になる。
買い物も通勤も病院も、はては断水時の給水でさえ、遠くまで車で水を汲みに行かなければならない。

千葉に避難した息子も6時間待ちで2000円分しか給油できなかった、とメールを寄越す。

どこでも同じ、といえば同じなのだろう。

が、待てば買える場所がまだましだ、とうらやましく思ってしまう自分は、立派に「被災者の僻み」を内面化してしまっているのだろうか(苦笑)。

しかし、被災すると人は慎み深く、優しくなるのも確かだ。それが生きる意欲の喪失や抑鬱ではなく、ある種の振る舞いとして成立していると思えるのは、こんなときでなければできない発見でもあった。

水を汲むにも年寄りのタンクを優先したり車まで運んだり、運べない人にはワゴン車で配達してくれたり。
私の地区は電気が通じているので困るのは水ぐらいのものだが、水場の前では整然と並び、譲り合いながら給水している姿が普通に見られる。
声をかけると、むしろ普段よりも明るく気さくに会話がはずむ。

こんなことを言えばまた不謹慎のそしりをまぬがれないのかもしれないが、命のやりとりをしている瞬間、生活の基盤が切り崩され、不安を形にすることさえかなわない状況の中では、あるとき人はむしろ、豊かな守りの状況よりも優しくなってしまう、ということがあるのではないか。

弱さを肌身に感じて分かるからこその倫理。

自分を安全な場所に置いたきれいごと、としての「優しさ」や「思いやり」ではなく、極限的な場に立つからこそ立ち現れる「不可能」を前提とした連携。

大きな災害という物語が連帯を生むという大事象のメカニズムだけでもなく、
地域や知人友人のネットワークや、職場・社会の相互扶助という中事象のメカニズムだけでもなく、
個人がぎりぎりの極限状況に置かれることによってある瞬間得られる静謐のようなもの、という小事象のメカニズムだけでもなく。

このあたり、さらにもう少し経ってから考えてみたい、と思い、メモしておくことにする。

しかし、いずれにしても多くの人は、ガソリンを入手できなかったようだ。






3月16日(水)<病院閉鎖の危機>

2011年03月18日 18時02分25秒 | 大震災の中で
そろそろ事象は出揃った、と思うのは、つくづく小人の賢しらなのだと分かるのが「災害」というか「事故」というか「自然」の凄いところだ。
ガソリンのあるうちに出勤しておこうと思って準備をしていると、病院に詰めている家族からメール。
「主治医から重大な話がある」
とのことで、仕事を休んで病院へ行くことにする。

原発による避難指令というような巨大な災害の話から、また小さな生と死の現実に引き戻される。
どちらもぎりぎりの話なのだが、事象の「柄」の大小に差がありすぎ、自分の中でうまく一方から他方に身を翻すことができない。

職場では出勤できる人が仕事を続けているのだろうと思うと気がとがめるが、家族の危篤がその「アリバイ」となってほっとする。そして次にはそのほっとする自分を居心地悪くも思う。
若い頃なら、こういうことでグルグル大魔神を召喚して自分を見失うのだろうな、と懐かしく想像する。
50歳を過ぎると、無限遡行やメタベタのグルグルに巻き込まれることが少なくなってくる。

そうなると、むしろ視界は「晴れ渡る」のだ。
思考や視点の生成と消失を繰り返しているうちは、どんな素敵なアイディアがあっても、「モノにする」ことはできない。
素早いステップできりきり舞いをしながらでなければ見えないこと・感じられないこと・考えられないこと・表現できないことも確かにあるのだろう。

しかし、今はもう、そういう「グルグル魔神」に身を委ねることはなくなった。
年を取ってフットワークが失われた、のだろうか。
ぼけてきて知性の反射神経が鈍った、のだろうか。
そうかもしれない。そうでないかもしれない。
巨大すぎて全部を自分では決して認識も受容も対応もできないような事象を目の前にして、何をどう考えるのか。

根本的なものを見つめさせられる非日常の倫理を、日常の倫理と鈍感に取り違える愚は犯したくないが、このポイントも、じっくり考える良い機会である。

病院に行くと、既に家族が主治医から階の移動を告げられていた。
医療スタッフもガソリン不足で通勤が不可能になり、患者さんに退院してもらうかフロアをまとめて戦線を縮小するしかない、のだそうだ。
今の父が退院して自宅で静養するのは、本人にとっては家に帰れるから望むところなのだろうが、病気の治療という面からはかなり厳しい。かといって、物流がいつ戻るか分からない状況では、スタッフの不足も医薬品の底付きもすぐそこに見えているだろう。

加えて原発事故による放射線量の増大が続けば、最悪の場合病院閉鎖も考慮に入れておかなければならない。

もはやそんなことは自分の思考や判断を超えている。
病室を移って、面倒を見てもらえるうちは見てもらう、ということでとりあえず今日は一段落。

ふと、我に返ると、こりゃあ凄い状況だなあ、と改めて思い、なんだか少し可笑しくなって、クスリと笑ってしまう。

人はぎりぎり(どんな種類のぎりぎりかにもよるのだろうが)になると、けっこう笑うものかもしれない。

父は自分でトイレに行きたい、自分で食事をしたい、自分で家に帰ってこたつでうたた寝をしたい、という普通の生活なら「望む」ことさえできないような当たり前のことを望み続けている。
そして、その当たり前ができない状態だからこそ病院に入院し、管をつけられて寝たきりになっている。老齢の身に寝たきりはいろいろと辛い事態をもたらす。

意識は断片化し、しかし付き添っていると、ふと、ごくごく普通の記憶と判断・思考が蘇る瞬間もあるのだ。

小事象としての父の看護

大事象としての原発・津波・大地震、

間の事象としての断水や職場の災害復旧、周囲の人の被災状況、そして友人知人とのやりとり。

どれもが極限形として立ち現れるというのは、人生の中でそうはあるまい。

ようやくこうしたことを考えられるようになってきた、ということでもあるだろうか。

この日(16日水曜)の夜から、このブログの「大震災のなかで」を書き始めることになった。

3月15日(火)その2<楳図かずお『漂流教室』と退避勧告>

2011年03月18日 17時38分59秒 | 大震災の中で
地震が起こってから4日。
大災害が、ようやくその容貌の全容を露わにしてきた、という印象がある。

正直、03/11(金)の時は何も分からなかった。
12日(土)の夕方になっても水が出ず、お店が次々と閉店していくのを目の当たりにして、これはちょっと、と思い始め、
13日(日)に屋根の修理をして、その力の大きさを身体で感じ、
14日(月)、通勤して道路や建物の崩壊度合いをつきつけられ、
15日(火)は原発が1機だけでなく次々に深刻な事態に陥るのを見て、ことの重大さを実感した。

あまりにも巨大な事象は、その時には見えてこない。
これを書いている18日(金)現在も、原発の危険はまだ続いたままだ。これからさきさらに深刻な事態が生じるのか、このまま軟着陸が可能なのか。

夜になって強風が吹いた。
素人のかぶせたシートは無残な状態になり、かつシートの錘として使った針金付きの瓦は、風に煽られて無事な屋根瓦と打ち合わさり、まるで忍者が仕掛けた「鳴子」のように近所中に「カラン、カラン」と鳴り響き続ける。

仕方がないから夜中に懐中電灯と土嚢を持って再度屋根に登る。

本当に、楳図かずおの『漂流教室』か、さいとうたかおの『サバイバル』か、はたまた小松左京の『日本沈没』・『復活の日』か。

あられもない不気味な「自然」の露呈、という観念が、たとえば屋根瓦が落ちてしまった自宅屋根や、橋の欄干にひっかかった車、地割れで通行不能になった道路といった形で「現実化」している。

それを「神」の「表象」として何かを「読み取る」というのとはちょっと違う。
「人知尽力を超えたものを見たときに人間が覚える畏れ」が「神」の「あらわれ」としてその理不尽が現実を受け止めてしまうのだろう」
と言われるかもしれない。まあ、そういうことだ、と言ってしまってもとりあえずはかなり近いのだが、ちょっと違う。

なぜなら、それはそんな「神」概念よりも「リアル」だからだ。その「リアル」をもたらすのも所詮「理性の誤謬」だというのは簡単だが、そういう無限遡及の話には今は付き合わない。

分かる人には分かる、なんていったら怒られるかな。
それは、災害の悲惨さは体験したものでなければ分からない、というのではない。
むしろその逆だ。
「分かる体験」「理解する体験」のその先にこそリアルがある、という風に捉えたい。

言語ゲームや理性の限界という話でもなくて。

だから「自然」即「神」って話が身に沁みるのね。
この身に沁みる感覚は、狂気や非日常にむしろふさわしいのかもしれない、とも思わないではない。
この項も、後日ゆっくり考えるべき事柄の一つ。
今はとりあえずメモだけしておく。




3月15日(火)<水汲み、という仕事>

2011年03月18日 16時43分33秒 | 大震災の中で
 昨日職場で、水道復旧した地区の消防分団前の外水道が自由に給水可能だ、との情報をいただき、朝からそこに水を汲みに行く。
 給水専用の容器がないので、大きな盥や衣装ケースにビニール袋30リットル(市のゴミ出し規格)を二重にして入れ、そこに水を注いで袋の口をゴムで縛る形で水をもらってくる。
 ビニール袋はぐにゃぐにゃして持てないし、衣装ケースは一杯にすると一人では持てない。
 微妙な量で止めて車に積むのだが、これを寒い屋外で毎日のように繰り返していると、指先が油を失ってかさつき、ひび割れしてくる。

 外国の水道がない地域では、水くみは女の大事な仕事だ、なんてテレビの秘境番組めいたものでよく観ていたが、自分がその仕事を毎日やるようになるとは思っていなかった。
 むろん私のそれは車で水道の蛇口までいってポリ袋に水を汲んで車でまた運んでくるだけの
「なんちゃって水汲み」
に過ぎないのだが。

改めて、井戸水と炭が中心で、風呂は薪で沸かし、ガスレンジも灯油ストーブもなく、停電もしょっちゅうだった昭和30年代を思い出す。

仕事以外に生活の多くの部分が、多くの手間によって成立していた。

ボタン一つで風呂にお湯が張れる今とは、どう考えても比較にならない、と思う。

この新鮮な再発見も、のど元過ぎれば熱さを忘れてしまう、のだろうか?
しかし、この大災害(そして原発の災害は現在進行形であり、後年まで大きな傷跡を残すに違いない)は、私達の「上手な忘却」を押しとどめる「神の手」の役割を果たすのではないか。

このことについても、ゆっくり考えてみたいと思う。

メールや電話で、他地域にいる知人友人からの安否確認が届き出す。
今までは電話もほとんど通じなかったが、今日あたりからだいぶ通じやすくなってきたようだ。

インフラ、インフラ、というけれど、大災害の前ではひとたまりもない。
しかし、同時に、高度に発達した環境と技術は、電話の復旧も素早かった。
同様に、原発の放射能漏れも深刻だが、なんとか高い技術で次善の策を徹底して講じてほしいと切に願う。

土地が汚染され、全てを捨てていつ戻れるか分からない状態で「避難民」になるかもしれない、という想像が、空想ではなく自分の現実に近づいてくるこの「不思議さ」を、どう表現したらいいのか、まだよく分からない。

適切な表現が見つかるまでには、時間がかかりそうだ。

そうそう、この日11時に菅総理から、福島第一原発20キロ圏内の住民に待避指令が出たことは、書いておかねばなるまい。
2号機3号機付近で400ミリシーベルト/hの放射線量計測結果がでる。
ミリシーベルトやらマイクロシーベルトやら、人体への影響やら、これもとりあえずは、全くもってただびっくりするほかない。

「とりあえずびっくり」

の後、ではそれをどう受け止め、咀嚼し、考え、行動するか。
一日、二日で答えの出る課題でないことは確かだ。

3月14日(月)その2 <スーパーで\18,000の買い物・息子たちの避難>

2011年03月18日 16時29分45秒 | 大震災の中で
3月14日(月)のこと(その2)
職場を出た帰り道、地元のチェーン店スーパー「マルト」が営業しているのを見かけ、車を停めて店に入る。
日曜日はほとんどの店が閉店だったので、これはいかん、と迷わず買いだめに走る。

豚の肩肉300㌘3パック、豚の挽肉300㌘3パック、キャベツ2玉、冷凍エビ2袋。鰯の丸干し2連8尾×3、ぶなしめじ3つ、アスパラ3束、レタス2玉、トマト8個、キュウリ15本、デコポン4個。タラコ2パック。わかめ8袋、ノリ10枚入り×4、寝たきりの父用介護オムツと尿パッド各2、わけもわからず1万8千円ほど買い物をする。

明らかに衝動買いだめの典型だ。
愚かしいが、あといつこのスーパーが開店するか分からない、と思うと、この行動を抑制するのはかなり難しい。
キュウリ15本って、どういう根拠があって買ったのか不明(笑)。

卵、牛乳、納豆などある程度保存のきくものや、レトルト食品・缶詰・パスタ・カレールーなどの保存食料、除菌ウェットティッシュなどほぼほしいものは品切れである。
それでも肉は冷凍が利くのでとりあえず買いだめ。

それにしても、野菜類ははどう考えても衝動買いでした(反省)。

しかし、そのときはかなり高揚した気分で「やったぜ」状態だったような記憶がある。
実際役に立ったのは、病人用パッドとオムツぐらいだったが。

午後、部屋に戻ってみると、とりあえずすることがなくなっていることに気づく。
茶の間で漫然とTVを観る。津波の映像中心から、しだいに避難所と原発の映像に変わっていく。

どれも自分の現実とは違うのだが、それらがトータルとして「災害不安」となってこちらの背中に書き込まれていくのが分かる。
自分の所はとりあえず屋根もあり、電気も通じ、ガソリンは買えないにしてもまだしばらくは車も動く。

現実にこの災害を内面化して不安になったり気分を高揚させたりすることなく、冷静に自分の現実を見つめ、必要なことと今後を的確に考えていくのは思いの外に難しい。


小さな閉じた「自分たち」の現実



地域・職場・自治体の現状、口コミの情報・ネットメディアの情報、マスメディアがもたらす物語など

との間で錯綜した「情報災害」の実際は、素早く行動することと、じっくり冷静・的確に考察・判断することとの兼ね合いが非常に難しい。

これも後日考えなければ。

ぼんやりと部屋で夕方まで過ごす。夕食はゲットした鰯の丸干し焼きとサラダにおにぎり。

報道は福島原発の切迫した状況を次々に映し出す。
13日の3号機爆発に続き、14日夕方には2号機の燃料棒露出の報道。
昨日はまだ、と考えていたが、夜になって、ミリシーベルト単位の放射能漏れが報道される。

家族の他県避難を考える時期か。

聞けば、周囲の家でも、子どもを中心に避難の動きがあるという。

幸い車1台には半分以上ガソリンが残っている。動くなら今のうち、ということで子ども二人の県外避難を決断。
子どもたちは渋っていたが、とりあえずということで一応の納得。
午後11時に千葉の親戚を頼って出発。

にしても、合間合間に余震が続く。

原発の報道も切迫してくる。
深夜までテレビをみながら茶の間で寝る。

3月14日(月)のこと<職場の建屋が立ち入り禁止!>

2011年03月18日 16時00分20秒 | インポート
月曜日は朝から出勤しようと、職場に出かけた。
途中、道路は波打ったり亀裂が入ったりして、スピードを出すことが躊躇われる。
道がきちんと目的地まで繋がっているのか、がふと不安になった。

こんな気分は、20年以上前の豪雨洪水以来のことだ。
山道を曲がったとたん橋が落ちていて、濁流が目の前を横切っている直前で急ブレーキを踏んだことがあった。

無事職場の下までたどり着き、左折して取り付け道路を登りだそうとして驚いた。

ちょうどチョココーティングされた棒アイスのチョコがぱりぱりと剥がれるように、地面からアスファルトが鋭角に割れて剥がれ、ぎざぎざの断面を空中に付きだしている。
この取り付け道路が一番ひどい状態だった。

仮補修された道路の左端をそろそろと登っていくと、道路とグラウンドとの間に段差が出来ている。
道路が大分沈んだらしい。橋渡されている板に乗ってグラウンドに車を入れると、校庭には車が一杯に駐車してあった。

降りてきた方に尋ねると、一端津波から待避して避難所に入ったけれど、原発の関係で避難所が変更になり、再度避難してきたのだという。
職場の体育館は原発の南の津波被災地の方々の二次避難所になっていたのだ。

職場の建屋にたどり着くと、職員室は崩落のキケンがあり、立ち入り禁止になっている、というので、とりあえず別棟に集合。
今日の仕事は、余震が来たらいつ崩れるか分からない職員室に突入して、書類を持ち出す作業とのアナウンス。
「無理にとは言えないのですが、十分注意して」
と管理職。まあ、しょうがない。

とりあえず、必要な書類は持ち出さないと行けないので、必要最低限のものを取りに、斜めになった部屋に入る。
壁はヒビが入り、床は傾いているのが分かる。

もっとも、考えてみれば公簿類以外、教育という仕事に本当に必要な書類、は必ずしも多くはない。

仕事の本質は、必要なテキストと、教える人間、教わる人間、できれば教室と黒板があればなんとかなるものだ。

うむ。
しかし逆に学校という建屋を膨大な予算で建て直すのであれば、コンピュータでヴァーチャルな「教室」や「教材」を立ち上げ直す方が安上がりで効率的で、平等だ、という考え方もあるだろう。

これほどの大災害は、人間に根本的なところを問い直させる力がやはりある。
後でこれも考えてみなければ。

「やばい書類やしたくない仕事はここに入れてしまえばあとは立ち入り禁止だからね」
などと軽口を叩いて仕事を始めるが、ほとんどのものが床にぶちまけられていて、無理に何かを隠す必要もない。
公簿類やどうしても必要なものを取り出していると、10時過ぎに余震があった。
地震が縦揺れではないのに、床が縦にふわふわ揺れているような感じがある。
「出ろ~っ!」
とのかけ声で、皆が安全な棟への出口に殺到する。
本当に大きな地震が来たらここで死ぬのだな、と思うと、おしりのあたりがすーっと寒くなった。

建設年度の新しい、建て増した1F事務室と玄関、2F職員室、3F図書館の建て屋が一番危ない、というのはどうにも解せない。こんな設計がよく通った、と思うほど柱なしの広いフロアである。

つまりは、南側の部屋は通常の柱があるのだが、北側本来部屋の壁と廊下があるはずなのに、廊下までが一つの部屋として拡張されている。

昔の学校では、廊下のどんづまりの部屋が廊下分大きかったり、音楽室になっていたり、ということが確かにあった。
昔の基準では大丈夫だったものか。

ともあれ、この部屋に入るのももう今日限り、ということで、PCと公簿類、そして個人情報を持ち出し、午前中で危険な作業は終了。

このとき、付き添いをしている家族から、
「福島第一原発3号機の爆発に伴い、窓を絶対に開けないように」
と病院から指示があった、とのメール。

前日から原発のニュースは見ていたが、そのメールで急に地震と津波だけではない災害があるのだ、と改めて実感し、地震以上に嫌な予感がした。


この日の午後はとりあえず解散。明日からは、ガソリンや自宅被災の状況に応じて、休む者は連絡、とのこと。
ガソリンも足りないし、病人の付き添いもあり、水も出ない。とりあえず15日(火)休む旨上司に伝えて職場を出た。