ガソリンが市内に届いた、との噂が朝からささやかれて、またぞろガソリンスタンドには行列が出来ている。
実際、一部の独立系GSでは給油ができた、ということもあって、噂は繰り返し立ち現れる。
実際に給油できたのかどうか、朝並んでいた列は、夕方には消えていて、しかも給油している現場を見たことがないのでなんともいえないのだが。
これはまるで、ガソリンを求めてサバイバルゲームを続けるオーストラリアロケの映画『マッドマックス』を彷彿とさせる。
むろんただ行儀良く並んで、いつ来るとも分からない油を待つっていうのは、映画とは比べようもないほど「牧歌的」ではあるのだが。
さて、また屋根のシートと重しがずれたので、それを屋根に上がって直す。
屋根の上は、地面と比べると驚くほど風が強い。ビニールシートは容易に「風に舞い上がるビニールシート」になってしまう。
これを押さえる重しは土嚢が最適だと最初は分からなかったから、瓦のがれきを重しにした後で土嚢をくくりつけるという二度手間になっている。
素人の仕事とはそういうものなのだろう。
手本のないサバイバルはみな、自分で失敗して落とし前をつけ、その上でやり直すか別のことをやりはじめるかも自ら選択しなければならない。
こういうこと一つとっても、手仕事は面白いものだ。
そして、土いじり(土嚢)と水仕事(給水)を交互に毎日やっていると指先がかさかさに荒れてくる。
日を追うごとにひどくなり、生まれてこの方冬場でもハンドクリームなど付けたことがない脂性の私が、日に何度か手にクリームを塗るようになった。
同僚に教えてもらった消防分団の水道は、給水所と違って人が並ばない。
車も蛇口に横付けできるから、給水し放題である。
良質の水場を見つけた動物は、こんな気持ちになるものだろうか。
一つ一つの行動が「生」と結びつく実感がある。
むきだしの「自然」が露呈する惨事に見合った形で、それと向き合いつつなおも「生」を全うしようとするときにこちら側の内面から立ち上がってくるものこそが「生」なのだろう。
それ自体は断片的な衝動のようなものなのかもしれないが、自然の脅威を「意味あるもの」としてつなげ、それに見合った自己を一貫した行動として効率よく立ち上げていく働きこそが、人間の営みの根本にあるような気がしてくる。
非日常で気分が高ぶっているがゆえの「想像」に過ぎないのかもしれないが。
入院してからこのかた、父親の意識が、より「断片化」してきているような気がする。
遠いところから、病気の負担で思うようにならない身体をなんとか制御しようと苦労している父親の存在を、その断片化された行動の端々から感じると、彼の精神は崩壊しつつあるのではない、という実感が湧いてくる。
これもまた、身内の存在を永続的なものとして捉えたい願望がそういう認識を招き寄せる、と言われてしまうだろうか。
だが、これは正直な実感なのだ。
私が見るところ、精神の「断片化」と「崩壊」とは断固違う。
精神が「崩壊」(ひらたくいうとボケ、ですね)する、という考え方には、元来精神とは「理性的統一」が前提となっており、それを自らも自明の前提とした働きであると、無前提に前提している「匂い」がつきまとう。
私達の脳みそには、実のところ現象を認識すると思考を経由せずにオートマティックに反応する部分がたくさんあって、それらもともと断片にすぎない反応を、後から、あたかも先取りした統一体があるかのように「思う」のがいわゆる「精神活動」なのではないか。。
基本的な脳の活動は必ずしも長期的に一貫性を持っているのではなく、断片化した反応を後から統合して一貫性を跡づけている、といってもいい側面があるだろう。
父を見ていると、その後から先取りして自分を保つという手品のような身振りを「精神」というなら、そのカバー、フォローは必ずしも十分ではなくなりつつあるようにも思える。
認識・思考・記憶・反射・本能・意思・行動などさまざまな枠組みで考えることのできる精神の活動は、みかけほど全てを覆い尽くしている人間身体にとっての神様みたいな存在ではなく、つねに「断片」として存在する様々な働きを、辛うじて取捨選択することで一貫性を見いだしているように思われる。
そのバランス調整が少し崩れると、新たなバランスを求めてぎくしゃくした動きになる。
あるいは体調がいよいよ不良になったり、体力が低下して一貫性が保持できなくなってくると、身体レベルの「断片」がそのまま浮上してくるだけのことだ。
まあ、意識レベルが低下してくる、という意味では崩壊も断片化も同じようなもの、といえばいえる。
しかし、元来統一されているべきもの、という前提で崩壊した、と見なす場合と、もともとけっこうバラバラだったものをなんとかやりくりして統合してきたが、しだいに身体が追いつかなくなって、意識そのものの上に断片がそのまま浮上してくる瞬間が多くなってくる、と見なす場合では、人間観が根本的に変わってくる。
被災者の方が、「普通の生活に戻りたい」「普通でいいんです」と声高でなく、ささやくようにインタビューに答えていたのが印象にのこった。
その「普通の生活」とは、断片的で多方向を指す無数の風見鶏のような現実の事象を、なんとか生活の中で馴致しながら、動的バランスを保つことであり、断じて
「単に蛇口をひねれば水が出るのが当たり前だ」
ということを「普通」というのではあるまい。
もしかすると、発話者の表層的意識としては、電気と水と家があって放射能がないこと、というだけの意味なのかもしれない
「普通の生活」
はしかし、そういう底の話では収まらないような気がする。
特に、この震災をくぐり抜けてしまった今では。
話が少々ずれた。
17日は屋根を補修し、水をまた汲みに行ったあと、おにぎりとゆで卵をつくり、夕刻付き添いの家族に届けに行った。
父は大声で「帰る」「水」「おしっこ」「ご飯」を繰り返している。
なんのことはない、大震災という大事象の中で私達が右往左往しつつ求めている、「水と食事と住居とかえるべき日常」と全く同じことではないか。
壊れかけた肉体の中で父が求めていることと、壊れかけた福島県の南の端で私が求めていることは、意外なほどシンクロしている。
震災の中で無力な自己でしかない私と、壊れかけた身体の中に閉じ込められて、「家(普通の生活の中)でお茶を飲み、こたつでごろ寝がしたい」と願う父は、いったいどこが異なるというのか。
小事象と大事象が二重写しになった「終末」を同時に抱えながら、その中間領域としての仕事とか社会とか、地域とか、国家とかをどう捉え直すか。
ようやく1週間の時を経て、自分なりの課題が見えてきたような気がするのもまた、極限状況における思考の固着化とか、逃避的妄念の一種に過ぎないのだろうか。
実際、一部の独立系GSでは給油ができた、ということもあって、噂は繰り返し立ち現れる。
実際に給油できたのかどうか、朝並んでいた列は、夕方には消えていて、しかも給油している現場を見たことがないのでなんともいえないのだが。
これはまるで、ガソリンを求めてサバイバルゲームを続けるオーストラリアロケの映画『マッドマックス』を彷彿とさせる。
むろんただ行儀良く並んで、いつ来るとも分からない油を待つっていうのは、映画とは比べようもないほど「牧歌的」ではあるのだが。
さて、また屋根のシートと重しがずれたので、それを屋根に上がって直す。
屋根の上は、地面と比べると驚くほど風が強い。ビニールシートは容易に「風に舞い上がるビニールシート」になってしまう。
これを押さえる重しは土嚢が最適だと最初は分からなかったから、瓦のがれきを重しにした後で土嚢をくくりつけるという二度手間になっている。
素人の仕事とはそういうものなのだろう。
手本のないサバイバルはみな、自分で失敗して落とし前をつけ、その上でやり直すか別のことをやりはじめるかも自ら選択しなければならない。
こういうこと一つとっても、手仕事は面白いものだ。
そして、土いじり(土嚢)と水仕事(給水)を交互に毎日やっていると指先がかさかさに荒れてくる。
日を追うごとにひどくなり、生まれてこの方冬場でもハンドクリームなど付けたことがない脂性の私が、日に何度か手にクリームを塗るようになった。
同僚に教えてもらった消防分団の水道は、給水所と違って人が並ばない。
車も蛇口に横付けできるから、給水し放題である。
良質の水場を見つけた動物は、こんな気持ちになるものだろうか。
一つ一つの行動が「生」と結びつく実感がある。
むきだしの「自然」が露呈する惨事に見合った形で、それと向き合いつつなおも「生」を全うしようとするときにこちら側の内面から立ち上がってくるものこそが「生」なのだろう。
それ自体は断片的な衝動のようなものなのかもしれないが、自然の脅威を「意味あるもの」としてつなげ、それに見合った自己を一貫した行動として効率よく立ち上げていく働きこそが、人間の営みの根本にあるような気がしてくる。
非日常で気分が高ぶっているがゆえの「想像」に過ぎないのかもしれないが。
入院してからこのかた、父親の意識が、より「断片化」してきているような気がする。
遠いところから、病気の負担で思うようにならない身体をなんとか制御しようと苦労している父親の存在を、その断片化された行動の端々から感じると、彼の精神は崩壊しつつあるのではない、という実感が湧いてくる。
これもまた、身内の存在を永続的なものとして捉えたい願望がそういう認識を招き寄せる、と言われてしまうだろうか。
だが、これは正直な実感なのだ。
私が見るところ、精神の「断片化」と「崩壊」とは断固違う。
精神が「崩壊」(ひらたくいうとボケ、ですね)する、という考え方には、元来精神とは「理性的統一」が前提となっており、それを自らも自明の前提とした働きであると、無前提に前提している「匂い」がつきまとう。
私達の脳みそには、実のところ現象を認識すると思考を経由せずにオートマティックに反応する部分がたくさんあって、それらもともと断片にすぎない反応を、後から、あたかも先取りした統一体があるかのように「思う」のがいわゆる「精神活動」なのではないか。。
基本的な脳の活動は必ずしも長期的に一貫性を持っているのではなく、断片化した反応を後から統合して一貫性を跡づけている、といってもいい側面があるだろう。
父を見ていると、その後から先取りして自分を保つという手品のような身振りを「精神」というなら、そのカバー、フォローは必ずしも十分ではなくなりつつあるようにも思える。
認識・思考・記憶・反射・本能・意思・行動などさまざまな枠組みで考えることのできる精神の活動は、みかけほど全てを覆い尽くしている人間身体にとっての神様みたいな存在ではなく、つねに「断片」として存在する様々な働きを、辛うじて取捨選択することで一貫性を見いだしているように思われる。
そのバランス調整が少し崩れると、新たなバランスを求めてぎくしゃくした動きになる。
あるいは体調がいよいよ不良になったり、体力が低下して一貫性が保持できなくなってくると、身体レベルの「断片」がそのまま浮上してくるだけのことだ。
まあ、意識レベルが低下してくる、という意味では崩壊も断片化も同じようなもの、といえばいえる。
しかし、元来統一されているべきもの、という前提で崩壊した、と見なす場合と、もともとけっこうバラバラだったものをなんとかやりくりして統合してきたが、しだいに身体が追いつかなくなって、意識そのものの上に断片がそのまま浮上してくる瞬間が多くなってくる、と見なす場合では、人間観が根本的に変わってくる。
被災者の方が、「普通の生活に戻りたい」「普通でいいんです」と声高でなく、ささやくようにインタビューに答えていたのが印象にのこった。
その「普通の生活」とは、断片的で多方向を指す無数の風見鶏のような現実の事象を、なんとか生活の中で馴致しながら、動的バランスを保つことであり、断じて
「単に蛇口をひねれば水が出るのが当たり前だ」
ということを「普通」というのではあるまい。
もしかすると、発話者の表層的意識としては、電気と水と家があって放射能がないこと、というだけの意味なのかもしれない
「普通の生活」
はしかし、そういう底の話では収まらないような気がする。
特に、この震災をくぐり抜けてしまった今では。
話が少々ずれた。
17日は屋根を補修し、水をまた汲みに行ったあと、おにぎりとゆで卵をつくり、夕刻付き添いの家族に届けに行った。
父は大声で「帰る」「水」「おしっこ」「ご飯」を繰り返している。
なんのことはない、大震災という大事象の中で私達が右往左往しつつ求めている、「水と食事と住居とかえるべき日常」と全く同じことではないか。
壊れかけた肉体の中で父が求めていることと、壊れかけた福島県の南の端で私が求めていることは、意外なほどシンクロしている。
震災の中で無力な自己でしかない私と、壊れかけた身体の中に閉じ込められて、「家(普通の生活の中)でお茶を飲み、こたつでごろ寝がしたい」と願う父は、いったいどこが異なるというのか。
小事象と大事象が二重写しになった「終末」を同時に抱えながら、その中間領域としての仕事とか社会とか、地域とか、国家とかをどう捉え直すか。
ようやく1週間の時を経て、自分なりの課題が見えてきたような気がするのもまた、極限状況における思考の固着化とか、逃避的妄念の一種に過ぎないのだろうか。