龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
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3月26日(土)<「断片化」という現実、「宙づり状態」という現状、そして「悲哀の仕事」

2011年03月27日 23時12分14秒 | 大震災の中で
母親が、お香典やお見舞いのお返し物を探したいというので、朝から父親が乗っていた軽自動車で市内を動く。
ハイオクが相変わらず入手できないので、自分の車は動かしにくい。

まず、看病中に調子の悪くなった補聴器をみてもらいに湯本へ。
しかし、水道が復旧していない温泉街はまだほとんどシャッターを降ろしたままだ。
幸い補聴器屋さんはお店を開けていた。
災害見舞いに電池を1ケース無料で頂戴する。
ありがたい。
ただ、修理には2週間ほどかかるという。
とりあえず応急処置をしてもらって、修理は後日に。

最近の補聴器は高性能で、外すとほとんどなにも聞こえない年寄りでも、これを入れていれば日常生活をほぼ普通に過ごすことができる。
お値段も数十万円と安くはないが。

平の市街地まで出てみるが、お茶屋さんもデパートのパイロットショップも再開していない。
ゴボウ、大根などを買っただけで用事はたせなかった。休日なのに、人通りもまばらだ。

ただ、駐車待ちしていた向かいの美容室は営業を再開していた。
少しずつ街も再起動しつつある、ということか。

これで原発事故がなければ、と、ついついそこに立ち戻り、暗い気持ちになってしまう。

福島第一原発の退避地域に隣接する市町村に共通する
「宙吊り」
の感覚だろう。

被災からの復興は、少しづつ先が見えてくれば頑張れる、ということもある。

こういうとき、先が見えないのがいちばん辛い。

正直なところ、冷静に今までの状況を(限られた情報ではあっても)分析すると、爆発によって大気中に大量の放射性物質が飛散する、という事態にならない限り、撤退を余儀なくされるという最悪の事態にはならないだろう、と考えてはいる。

福島県の公務員としてお給料をいただいている以上、残る市民がいて、そのサービスを続ける限りはとどまるのが当たり前だとも思う。

さほど悲観的になっているわけでもない。

しかし、この「宙吊り」の状態がずっと続いていくとなると、精神的エネルギーの次元では、いささか「消耗戦」の様相を呈してくる。

今回水が関東地方の広域に渡り水道水が基準値を超えたのは、大気中に飛散し、拡散した放射性物質が雨のために集中して降りてきたからだろう。

とすれば、壊滅的な大爆発が起こらなくても、冷却が十分に進まず、小規模な爆発が間欠的であるにせよ継続していけば、近隣の地域では水道水が飲みにくい状況が起こるのではないか、という不安は当分消えない。

つまりは、現実問題として水が長期にわたって飲めないとなると、いわき市を生活の根拠として継続的に生活することが困難になるのではないか、という危惧を抱え続けることになる。

帰りがけ、ソフトバンクに寄って、父親の携帯電話を止める。91歳の「おじいちゃん」ではあっても、社会的存在としてのつながりはいろいろあるものだが、これで一応一段落。

あとは「喪失」を軟着陸させて内面化する「悲哀の仕事」が始まるわけだ。

震災体験の中で生活の基盤・根拠が大きく揺らぎ、原発事故によって復興が心理的に「宙吊り」されたまま、近親者の「死」を内面化していくのは、これからけっこうシンドイのかもしれない。

子どもである私にとってもそうなのだから、母親の精神的負担は相当なものになろう。

地面の中に沈んでいくような感覚を、どうバランスを取りながらやり過ごすのか。

次の課題をさらに考える必要が出てきたようだ。





3月25日(金)のこと<人一人が死ぬための手続きは意外に多い>

2011年03月27日 22時36分33秒 | インポート
今日は朝から、さまざまな手続きをして回った。
警察に免許証を返納し、市役所に健康保険証と介護保険証を戻す。
郵便局に簡易生命保険の手続きをしに行くと、まだ地元の特定郵便局には現金が届いていないのだという。

気がついてみると、3月11日以降、郵便は2週間止まったままだ。

アマゾンも福島県は最後まで配達が止まったままだ。

そんなこんなで、死亡届&死亡診断書の写しを持って町中をぐるぐる回っている間に半日がすぎた。

葬儀はなし、お香典も花輪も受け取らず、家族で見送る、と決めてはいても、遠方の知人から郵便でお悔やみが送られてくる。そのお返しの買い物もしたいのだが、葬祭場も物流が止まっていてお茶も手に入らない。お店は開いていても商品券売場は閉まったまま。
母親ははやく返さないと、と気がせいているのだが、なかなか思うに任せない。

帰りがけ、スーパーに寄ったら国産の牛ヒレステーキ用肉がどっさり並んでいた。ちょっと豊かな気分になりたいと思い、4パックまとめ買いをする。

こういうとき、外食を億劫がりだしたオヤジに、旨い肉を買ってきて家で焼いて一緒に食べようと考えていたことを、ふと思い出す。

感傷的な気分に浸る、というのではない。むしろ断片化した感情が不意に意識の表面の割れ目から顔を出す、という方が正確だ。

結局、オヤジと外食したのは、ちょっといけるお蕎麦やさんで天せいろを食べたのが最後になった。
「また行こう」
と楽しみにしていたのに果たせなかった、と思うのは、後悔や思い残しとかいった大げさなものではなく、終わりが来るまでは「その先」があるようについ思ってしまうこころの「慣性」ゆえ、であろうか。

午後、家に戻ってから本を読もうとするが、テキストを開く気持ちになれない。
後でこの日々を思い出す手がかりにしようとしてかろうじてこのブログを書き続けるのが精一杯だ。

家の仕事ばかりしている2週間なのだが、思いの外余裕はないのかもしれない。
睡眠もなかなか連続して取れない。
今日は久しぶりに昼寝をし、夕食を初めて家族に任せた。

家事の中では食事作りが一番得意なので、今日まではずっと夕食係をしていたのだが、ようやく緊張がほぐれてきた、ということか。

これから始まり、しばらくは続いていくである「鬱」の時期をどう切り抜けるか、がたぶん個人的な主題になるのだろうと予想。

原発事故の影響で宙づりされている中で、家族を失った服喪の時期を過ごすのは、意外にしんどくなるのかもしれない。

どうなることやら。

私としてはあり得ないことなのだが、本が手につかないので、以前downloadして手も触れなかったiPhoneのゲーム「イノティア戦記2」を取り出して始める。
つかの間の逃避行為として時間を文字通り「潰す」のには、ゲームはもってこいのエンタテインメントだ。

だいたい世界が崩壊の危機に瀕していて、それを救うために無力な主人公が成長しつつ悪と戦うのがRPGの王道。
ゲームの設定などどうでもいいっちゃどうでもいいのだが、お使いワンちゃんのように依頼を機械的にこなしながら敵をひたすらザクザク切っていくこういうアクションRPGは、無為な時間を生成し、生の時間を「潰す」ために(私にとっては)最適のアイテムである。
いったんキャラを19レベルまで育てるが、うまく進めなくなったので、もう一度別キャラでやり直しているうちに深夜のいなった。
こういうゲームは、一度失敗したら、もう一度最初からやりなおせるのもいい。
格好の逃避=癒し=自堕落(笑)の夜であった。