母親が、お香典やお見舞いのお返し物を探したいというので、朝から父親が乗っていた軽自動車で市内を動く。
ハイオクが相変わらず入手できないので、自分の車は動かしにくい。
まず、看病中に調子の悪くなった補聴器をみてもらいに湯本へ。
しかし、水道が復旧していない温泉街はまだほとんどシャッターを降ろしたままだ。
幸い補聴器屋さんはお店を開けていた。
災害見舞いに電池を1ケース無料で頂戴する。
ありがたい。
ただ、修理には2週間ほどかかるという。
とりあえず応急処置をしてもらって、修理は後日に。
最近の補聴器は高性能で、外すとほとんどなにも聞こえない年寄りでも、これを入れていれば日常生活をほぼ普通に過ごすことができる。
お値段も数十万円と安くはないが。
平の市街地まで出てみるが、お茶屋さんもデパートのパイロットショップも再開していない。
ゴボウ、大根などを買っただけで用事はたせなかった。休日なのに、人通りもまばらだ。
ただ、駐車待ちしていた向かいの美容室は営業を再開していた。
少しずつ街も再起動しつつある、ということか。
これで原発事故がなければ、と、ついついそこに立ち戻り、暗い気持ちになってしまう。
福島第一原発の退避地域に隣接する市町村に共通する
「宙吊り」
の感覚だろう。
被災からの復興は、少しづつ先が見えてくれば頑張れる、ということもある。
こういうとき、先が見えないのがいちばん辛い。
正直なところ、冷静に今までの状況を(限られた情報ではあっても)分析すると、爆発によって大気中に大量の放射性物質が飛散する、という事態にならない限り、撤退を余儀なくされるという最悪の事態にはならないだろう、と考えてはいる。
福島県の公務員としてお給料をいただいている以上、残る市民がいて、そのサービスを続ける限りはとどまるのが当たり前だとも思う。
さほど悲観的になっているわけでもない。
しかし、この「宙吊り」の状態がずっと続いていくとなると、精神的エネルギーの次元では、いささか「消耗戦」の様相を呈してくる。
今回水が関東地方の広域に渡り水道水が基準値を超えたのは、大気中に飛散し、拡散した放射性物質が雨のために集中して降りてきたからだろう。
とすれば、壊滅的な大爆発が起こらなくても、冷却が十分に進まず、小規模な爆発が間欠的であるにせよ継続していけば、近隣の地域では水道水が飲みにくい状況が起こるのではないか、という不安は当分消えない。
つまりは、現実問題として水が長期にわたって飲めないとなると、いわき市を生活の根拠として継続的に生活することが困難になるのではないか、という危惧を抱え続けることになる。
帰りがけ、ソフトバンクに寄って、父親の携帯電話を止める。91歳の「おじいちゃん」ではあっても、社会的存在としてのつながりはいろいろあるものだが、これで一応一段落。
あとは「喪失」を軟着陸させて内面化する「悲哀の仕事」が始まるわけだ。
震災体験の中で生活の基盤・根拠が大きく揺らぎ、原発事故によって復興が心理的に「宙吊り」されたまま、近親者の「死」を内面化していくのは、これからけっこうシンドイのかもしれない。
子どもである私にとってもそうなのだから、母親の精神的負担は相当なものになろう。
地面の中に沈んでいくような感覚を、どうバランスを取りながらやり過ごすのか。
次の課題をさらに考える必要が出てきたようだ。
ハイオクが相変わらず入手できないので、自分の車は動かしにくい。
まず、看病中に調子の悪くなった補聴器をみてもらいに湯本へ。
しかし、水道が復旧していない温泉街はまだほとんどシャッターを降ろしたままだ。
幸い補聴器屋さんはお店を開けていた。
災害見舞いに電池を1ケース無料で頂戴する。
ありがたい。
ただ、修理には2週間ほどかかるという。
とりあえず応急処置をしてもらって、修理は後日に。
最近の補聴器は高性能で、外すとほとんどなにも聞こえない年寄りでも、これを入れていれば日常生活をほぼ普通に過ごすことができる。
お値段も数十万円と安くはないが。
平の市街地まで出てみるが、お茶屋さんもデパートのパイロットショップも再開していない。
ゴボウ、大根などを買っただけで用事はたせなかった。休日なのに、人通りもまばらだ。
ただ、駐車待ちしていた向かいの美容室は営業を再開していた。
少しずつ街も再起動しつつある、ということか。
これで原発事故がなければ、と、ついついそこに立ち戻り、暗い気持ちになってしまう。
福島第一原発の退避地域に隣接する市町村に共通する
「宙吊り」
の感覚だろう。
被災からの復興は、少しづつ先が見えてくれば頑張れる、ということもある。
こういうとき、先が見えないのがいちばん辛い。
正直なところ、冷静に今までの状況を(限られた情報ではあっても)分析すると、爆発によって大気中に大量の放射性物質が飛散する、という事態にならない限り、撤退を余儀なくされるという最悪の事態にはならないだろう、と考えてはいる。
福島県の公務員としてお給料をいただいている以上、残る市民がいて、そのサービスを続ける限りはとどまるのが当たり前だとも思う。
さほど悲観的になっているわけでもない。
しかし、この「宙吊り」の状態がずっと続いていくとなると、精神的エネルギーの次元では、いささか「消耗戦」の様相を呈してくる。
今回水が関東地方の広域に渡り水道水が基準値を超えたのは、大気中に飛散し、拡散した放射性物質が雨のために集中して降りてきたからだろう。
とすれば、壊滅的な大爆発が起こらなくても、冷却が十分に進まず、小規模な爆発が間欠的であるにせよ継続していけば、近隣の地域では水道水が飲みにくい状況が起こるのではないか、という不安は当分消えない。
つまりは、現実問題として水が長期にわたって飲めないとなると、いわき市を生活の根拠として継続的に生活することが困難になるのではないか、という危惧を抱え続けることになる。
帰りがけ、ソフトバンクに寄って、父親の携帯電話を止める。91歳の「おじいちゃん」ではあっても、社会的存在としてのつながりはいろいろあるものだが、これで一応一段落。
あとは「喪失」を軟着陸させて内面化する「悲哀の仕事」が始まるわけだ。
震災体験の中で生活の基盤・根拠が大きく揺らぎ、原発事故によって復興が心理的に「宙吊り」されたまま、近親者の「死」を内面化していくのは、これからけっこうシンドイのかもしれない。
子どもである私にとってもそうなのだから、母親の精神的負担は相当なものになろう。
地面の中に沈んでいくような感覚を、どうバランスを取りながらやり過ごすのか。
次の課題をさらに考える必要が出てきたようだ。