龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

3月24日(木)のこと<昼酒&昼寝>

2011年03月25日 22時19分14秒 | インポート
この日は、朝からガソリンスタンドを巡ってハイオクを探すが、レギュラーしか入ってきていないという。
市の窓口でも把握できていない。

仕方がないから地元のスーパーチェーン店「マルト」を覗いてみる。

このスーパーは震災直後から限定的ながら営業を再開していて、今日は入場制限もなく、商品も野菜類、果物、魚(冷凍ものあるいは解凍が中心だけれど)&肉、そしてお菓子類まで含めて意外に豊富だった。

某IY系県内スーパーがまだ一度も開いていないのとは対照的で、日々地元民の生活をきちんと支えてくれている。

この恩は忘れないよ!

なんと私の一番好きな朝日山純米酒までが入荷していた。

四合瓶を2本買って帰り、午後から母と二人で飲み始める。

昼間から酒を飲み、死んだ親父の思い出話をする、なんて、ちょっと前までは考えていなかった。しみじみ飲んでいたら、溜まっていた疲れが出たのか、昼寝をしてしまう。

昼酒&昼寝。

こんなんで故人を偲ぶことになっているのかどうか。
まあしかし、この三週間、あまりに沢山のことがありすぎた。少し休んだほうがいいのかもしれない。

一方、市内の5割はまだ断水。復旧した水道水も、汚染によって乳児の飲用が禁止になっている。息子二人は今日、ヨウ素剤を市役所に取りに行った。

静かに酒盛りをしている家の外側ではまだまだ震災と原発事故の影響が続いているのだ。



3月23日(水)<日常の中の「悲しみ」と飲料水の放射能汚染>

2011年03月25日 01時12分46秒 | 大震災の中で
 家族の一人が亡くなったからといって、24時間悲嘆に暮れているわけではない。
 分けても高齢で、入院もしていた家族の場合、そんなに意外な事件でもないし。
 ただ、悲しみは微細なところで、小さな波頭のように顔を出す。

 ふと声をかけようと自分の身体の無意識が亡くなった人を求めてしまったとき。
 湯飲み茶碗を一つ多く食卓に持ってきてしまったとき。
 居なくなった彼が残したものに、彼のこちらに対する思いや気遣いを発見したとき。

 センチメンタルな気分が、折々に顔を出す。

 それは決して良くない気持ちではない。悲哀の仕事をしていくプロセスでもあり、こちらの身体の中で人が生きている証し、でもある。

 落ち着いてからしばらくは、そういう小さな事柄と丁寧に付き合っていくこともまた、ストーリーには収まらない「生」の小さな(けれど大切な)側面の一つなのだろう。

 同時に気持ちをそこに残しすぎるわけにもいかない。

被災者の一人としては並んででもガソリンを入手しなければ職場にも行けないし、開店前のスーパーの入り口で待ち構え、数の限られたお一人様1パック限りの「卵」をゲットしなければ料理に支障が出る。
今日は午前中家族総出でガソリン入手の列に並び、午後は買い物と壊れた屋根にかけた応急処置のビニールシートの補修・補正(強風が吹くと素人仕事なのでずれてしまうのでした)を行った。

久しぶりにゲットした肉は鹿児島産の銘柄品の豚肉。
それをキャベツと炒めてショウガ焼きにして食べる。
付け合わせのポテトサラダも、久しぶりに日常の匂いのする食事で満足だった。

問題は庭のほうれん草。

世の中では福島県の野菜は出荷停止となっているが、洗えば問題はない、とのニュース報道。
小さい子どものいない家庭、なので、構わず大量に煮て、ごま和えで食べる。
取れたての野菜は甘くて旨い。
これで放射能の心配がなければまるで普通の生活が戻ってきたかのようである。

ただし、毎日並んでいるだけでは稼げない。
来週からは仕事に戻ってそちらの「復旧・復興」をやらねば。

屋根の瓦屋さんも避難していて見積もりさえしてもらえない状況が続いている。

隣接する北の地区ではまだ水も復旧していないと聞く。まして津波被害にあった小名浜などは、4月になっても水道の復旧など見通しが立たない、と市のホームページに書かれてあった。
叔父さんやおばさんがなくなった、という同僚もいる。命が助かったと、泣いて抱き合った親戚もいる。
避難所に10日ほどいたが、首都圏に脱出した、という人もいる。

相変わらずハイオクのガソリンは入手できない

首都圏で騒ぎになっている乳児の水道水摂取制限は、当然いわきでも行われている。
野菜の出荷停止もあり、水の汚染も拡大し、原発事故の冷却処理も、懸命の作業が続いているが、まだ予断を許さない。
60キロ離れた私の居住地域が圧倒的な汚染にさらされるリスクは必ずしも大きくはない、と冷静に判断する自分と、風評やそのリスクをどう自分の生活の中で評価するかによって、この地を去る人も少なくないだろう、とそれを不安に思う自分とが、同居している。

私個人はここに残って仕事をしていくつもりだし、老齢の母親も動くつもりはないらしい。
だが、果たして町が十分に機能を回復するのか。雇用はきちんと継続して、人が生活を営んでいける水準を維持できるのか?
不安は尽きない。
一時避難で済むかどうか、は単なる汚染の数値だけでは計れないものだ、とつくづく思う。

ただ、ガソリンを販売するGSは増えてきている。大手のスーパーより、地元のスーパーが頑張ってくれている。コンビニはまだ閉まったままだ。

全体像が見えないまま、日々の生活に追われるのは、考えてみれば震災前とそんなに変わらないのかもしれない。

ただ、安心してライフラインが整った中にいるのと、そういう安心の表皮が剥がされて、人間の営みでは対応しきれない「自然」の地肌が露呈しているのとの違いがあるだけだ。

その「自然」の「露呈」をどう受け止めるのか。
私にとっては興味の尽きない課題を与えられたような気がしているのだが。




3月22日(火)のこと<家族だけ、枕元で飲み明かす通夜>

2011年03月25日 00時47分27秒 | 大震災の中で
 家族だけで夜更かしをしながら酒盛りをした翌日、今度はまた家族の中の一人に読経してもらって、午後には大学病院が手配した車で献体を済ませた。

 自宅で遺体を寝かせ、その隣で酒盛りをするのは、自分たちの仲間である家族の一人との別れを惜しみ、一員であった証しを、残った家族の心の中で確かめ合うために、とてもよい時間だった。

 翌日、家族で読経したのは、今度は亡くなったものを彼岸に送り出す身振りとしてこれもまた適切だったと感じる。

 社会集団として、「死」を悼みかつその集団から適切に「向こう側」に送りだす手続きは、あまりにも「社会化」しすぎている。

 全ては企業の経済的活動に支えられ、そのベルトコンベアに乗る形で一切が進行していく。
 まあ、それも悪いことではなくて、効率的に事象が「処理」される意義はあるのだろう。

 でも、社会化も度が過ぎれば、流通する経済活動の範囲における多元化多様化はサービスとして進むのだろうけれど、それは逆に個人を「孤立化」させ、その「孤立化」を受け止めようとすると逆に「社会化」をさらに推し進めていくことになってしまうという逆説を生きることになっていくだろう。

 もっと、フラジャイルな、「あえか」な営みに対する視線が担保される時間や空間を、自分たちで立ち上げていけばいいのだな、と改めて思った。

 震災の中で、そんなこととは関わりなく病気と闘い、力尽きて寿命が尽きた父親だが、入院していた病院もスタッフの確保が原発不安とガソリン不足で困難となり、電力も水も医薬品も不十分で、病棟が縮小して退院していった患者さんもいた。
 幸いというか、父は退院せず、最後まで看取ってもらえたけれど、原発事故の退避区域ではなくても、現実には人が避難していってしまって全てが回らなくなる、ということはある。

それは愚かな風評に惑わされて逃げ出した人、みたいには、どうしても捉えられない。
でも、そういう現実もあるのが被災地のリアル、なのだ。
人はそういう個別的な条件の中で、でも死ぬまで懸命に生きようとしつづけるのだ。
断片化する意識の中で
「家に帰りたい、自分でトイレにいきたい、水がほしい、こたつで居眠りがしたい」
と繰り返す父の様子は、大震災を被った私達の願いとどうしてもシンクロしてくる。

震災や原発を不可視の中心と捉えて全てをそれに背負わせる言説には絶対に与しない。

同時に、全体を見通せない中で「断片」を生きるほかない人間のリアルに、十分に届いてこない哲学や経済の言説の側に立つことも、最終的に私はしないだろう。

震災の中、家族でその死を看取るのは、一般化しにくい体験だ。それを「断片」として大切にしたい。
多層なリアルを多様に生きるのが人間であればこそ、下手な説得に耳を貸すのではなく、私はここから改めて思考を始めていきたい、と考えた。

避難民か難民か

2011年03月25日 00時28分15秒 | 大震災の中で
 大震災の復興が遅れている。
 県レベルを超えた500キロにも及ぶ太平洋沿岸<東日本>の被災を考えれば、そう簡単に復旧・復興が進むまい。

 体育館などが避難所になるのも、初期の緊急事態としてはやむを得ない。
 しかし、「そこ」はどう考えても「生活」の場所ではないから、長期に及ぶと避難所ゆえの「災害」が二次的に起こってくる。

 しかし、正直なところ帰る場所がとりあえずないから「そこ」にいるわけで、避難所の生活が過酷だからといって、そこら避難することなどできようはずもない。

 とすれば、彼らは「避難民」(一時的に避難してきた人)であるというより「難民」(帰るべき場所を持たない人)なのではないか、と考えざるをえなくなる。

 私は幸いにも屋根瓦が飛んだ程度で、シートをかぶせれば住める「家」があるから、いわき市の南部にとどまっている。

 だが、東京の方では、原発から30キロ圏内も生活上の支障が大きく孤立しているから、避難地域に指定すべきではないか、という議論が起こっていると聞く。

 なるほど、と思う反面、どんだけ「避難」→「難民」を出せばいいと思っているのか?との疑問も湧く。

 屋内退避とは、ライフラインを奪われて、短期的な未来への希望も持てず、バラバラに引きこもれ、という指示に他ならない。そりゃ、自主的に逃げ出すだろう。

 まして原発からの放射性物質の飛散は続いているわけだし。

 海産物も、農産物も「福島」は、世界に冠たる「出荷停止」ブランドになってしまった。経済的ダメージも計り知れない。

 福島県民の「避難」は、「避難」と言われている限り宙づりのままだ。
 むろん「難民」である、として別天地への定住を支援される方がいい、とは単純には思わない。

 私達はこのままこの「福島」、この「いわき」に住み続け、充実した生を営みたいと思っている。

 郷土への愛着、などと大見得を切るつもりはない。
 人はどこに住んだって生きてはいけるだろう。

けれど、慣れ親しんだ土地から自分の意思ではなく引きはがされる心理的抵抗は大きいし、土地や建物、有形無形の人的ネットワークなども含めた「財産」が、関東地方の電力確保の手段の大規模地震を想定していない結果として放射能や風評による孤立によって失われようとしているマイナスは、計り知れない。

いちもくさんに関西に逃げたらいい、という内田樹の提案は、「ふーん」という程度にしか私には響かなかった。

池田信夫のブログにある
>今回の震度は普通の原発の設計震度をはるかに超えており、
>これで最終的に数万人の一時避難ですめば、むしろ軽水炉の
>安全性を証明することになろう。

ふーん、我々の「いわき」市の現実は、池田信夫的認識においては、軽水炉の安全性の証明という言説に「利用」されてるんだ、と思うといささか腹が立った。これじゃあ、彼が批判している広瀬隆的「それみたことか」言説と表裏一体ですね。

その場所で生きている断片のリアルとは遠いところの議論にすぎない。

現代におけるNIMBY( Not in my backyard=必要なのは分かるけど、うちの近所は困るよ)問題の典型の一つである原発事故

の問題は、単なる軽水炉の安全性の証明の問題でもないし、リスクをオレは知っていた、とか威張るような種類のものでもない。

市民の「政治」としてこういうものと自分たちの「生」とをどう向き合わせるのか。
私達自身の「自立」というか「断片」における倫理が問われなければならない。

その選択をしないかぎり、私達はいつなんどきどんな形で「避難民」から「難民」への道を歩むことになるか分からない。

未曾有の天変地異だったから仕方がないね、なんてあきらめて地元にしがみつくのでない限りは。

福島県民は、池田信夫のいう「数万人の一時避難ですめば」という「程度」の事故によって、自分の土地に住めなくなるかもしれないし、農業や漁業、そして観光などにおける「フクシマ」ブランドの重大な毀損を受けようとしている。

なおもこの地で経済的政治的文化的な営みを続け、「復興」しようとするなら、つまりは「難民」として流浪するのではなく、「一時的避難」で済ませようとするなら、事態を冷徹に分析して、将来に向かって可能性を自ら掲げていくよりほかにないだろうと思う。

しかし、必要なのは単なる冷徹な分析、だけではないと思うよ。
そして、原発の事故はまだ収まっているわけではないのだから、その宙づりの不安に耐えるストレスもかなりなものだと思うしね。

大震災と原発は別の事象で「も」あるけれど、被災地の市民にとっては多重被災であることは間違いないわけだし。