龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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計画停電は結果か、それとも原因か

2011年03月28日 23時19分55秒 | 大震災の中で
 福島県が第一原子力発電所の事故による放射能飛散の不安におびえている時、首都圏では計画停電が進行中だ。

 福島第一原子力発電所が停止状態だから、電力不足で計画停電が始まったわけだけれど、もう少しさかのぼってみると、首都圏の電力需要が、耐用年数を超え、6メートル未満の津波しか想定していない福島第一原発の運用を継続させた、とは考えられないか。

40年前の「最新の知見」によって設計された、と東電によってコメントされている(毎日新聞による)福島第一原発は、より震源に近い東北電力の女川原発とは違って、冷却系が津波で作動不能状態に陥った。

ここには、その原発に加えられた有形無形の「市民」レベルの欲望が裏打ちされていると「読める」。

三陸の「文化」をバックに控えた東北電力の女川原発では、津波に対する意識が、作り手の側にも住民の側にも高かった。
それに対して、東京電力の福島第一原発では、三陸ほどの津波に対する「畏れ」が、市民の側にも、運営の側にも不足していたとは言えないか。

加えて、首都圏、そして経済界の欲望は、津波も地震も無いうちから、計画停電をすることを不可能にしていたのではないか。

福島原発の稼働停止とか本格的な改良工事は、東電のそろばんには乗らなかったのだろうし、それは日本国民が「選んだ」ものだったのではないか。東電だけに、この「欲望」を止める力は無かっただろう。
政府にもこれを止めることはできなかった。
市民もまた、この事態を暗黙の内に容認していた、とも言えまいか。

そんなことも、後付けの「知恵」に過ぎない、と言ってみることもできる。
しかし、女川原発は大丈夫で、福島原発はダメだった、とするなら、
「絶対的な想定外の自然の脅威」
といって済ませることはできまい。
仮に1000年に一度の災害でも、女川は大丈夫で、福島ではダメだったのだから。
その差異については、しっかりと考察していかねばならない。

福島原発10基の耐震安全性の総点検等を求める申し入れ

ここに、既に福島原発の危険性を東電に問いただす福島県議会議員の一部の申し入れ書がある。

結果としてこの「危惧」は無視され、そして現実のものとなった。

断っておくが、ここで私がいいたいのは、「ほーらね、やっぱり原発は危険だったでしょ」と誇らしげに自らの「正しさ」を言挙げするためでもないし、そういう輩を持ち上げるためでもない。

常識的に考えて、この事態は「想定外」ではなかっただろう、という推測に根拠があるものだということを指摘したいだけだ。

つまり、この事態が実は十分想定されつつも「想定外」とされてきたのではないか、という疑問を呈したいのだ。

そしてそれは、一見「結果」に見える計画停電が、実はその本当の原因だったのではないか、という疑問に繋がる。

経済界や首都圏の市民は、そんなことを望んではいなかった、それは東電の怠りだ、と言うのだろう。

福島県民もまた、こんなことが起こるなら、誰も原発など認めなかった、東電が安全だというから許容しただけだ、というのだろう。

そして東電側は、そろばんに乗らないリスクへの対応は、可能性は知っていても放置するしかなかった、というのだろうか。
それとも「想定外」と言い張って乗り切るのかなぁ。

当時の政府もまた、それを追認してきただけのことだ。

中国政府は、天安門事件における市民の弾圧を、必要なリスクとして処理した。
日本政府は、福島原発事故の結果を、日本経済に必要なリスクとして処理するのだろうか。
それとも、やはり政府もまた、「想定外」の自然災害の結果として、「無力な人間」の側に立とうとするのだろうか。

私が個人でここに推測を重ねて書き込み表現することの重みは、東電や政府と比すべくもないし、2007年の申立書を提出した議員団に比べても、ほとんど無意味なものかもしれない。

この事故が本当に「想定外の1000年に一度起こった自然災害の結果」だと信じる人々を日本人、と呼ぶのなら、私はその範疇に入りたくないし、他方、その危険に警鐘を鳴らし続け「だから言ったじゃないか」と「正しさ」をどこかで隠し持ってしまうような人々の仲間にもなりたくない。

私は、そこにある人間と自然の関係において何が起こっていたのか、が知りたいだけだ。

この国の言説における「欲望」は、「国難」に強い。おそらく、この「人為=自然」が起こした事象を、不可視の中心として、その裂け目に瞳を凝らさないためにさまざまな言説を競って立ち上げていくことだろう。

そうやって、自分たちの「日常」を再発見しようとする「欲望」が必ずしも指弾されるべきものとも思わない。
人間はそうやって生き延びていくものだろう。

ただ、そうで「も」ある自分を自覚しつつ、私はなおも「人間」という場所から身をズラし、「断片」としてむしろその裂け目、その傷に瞳を凝らし続けていたいと思う。

それもまた、「人間的理性」の「欲望」に過ぎないと言えばいえる。
けれども、その臨界面に瞳を凝らすか凝らさないか、に人間倫理の値打ちが賭けられている、とも思うのだ。

計画停電は結果か、それとも原因か。
答えはそう簡単には出せないのではないか。






3月27日(日)のこと<本を読むより現実を「読め」ということ>

2011年03月28日 20時30分46秒 | 大震災の中で
 ついに差し当たってやることが亡くなってしまった。
 普通の日曜日であるかのように(笑)ゆっくり起き出し、犬の散歩をしがてら郵便局に届いていた書留を取りに行く。
 
 帰ってきてブランチ。昨日焼きそびれたヒレ肉の残りを焼く。
 コンビニも開き始め、宅配便も営業所留めなら受け取れるようになってきた。

 しかし、考えてみたら3月になってからほとんど本を買っていないことに気づく。

 ふらりと本屋に顔を出し(というか本屋が開いている日常性にびっくりなのだが)、推理小説を2冊、言語学者の伝記らしきもの?を一冊購入。
『二流小説家』ディヴィッド・ゴードン ハヤカワポケットミステリ
『ことばの哲学』池内紀 青土社
『大絵画展』望月諒子 光文社

しかし、本を開かずに手にしたのはiPhone4のゲーム『イノティア戦記2』だった。

 本を読む気持ちになれない。

 この現実こそが、想像力で築き上げられたどこか遠い場所ででもあるかのような気がしてしまう。

 現実感がない、ということか。
 それとも圧倒的な現実性に打ちのめされているということか。

 今日も1000万倍の放射線量という話がテレビで報道され続けている。

 これはいろいろ本当にじっくり腰を据えて考えなければならない時期に来ている。

 この日々日記はこれで終了し、明日からは、「課題」ごとにじっくりと考えを深めていくことにしようと思う。