龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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3月13日(日)のこと(その2)<津波の恐ろしさ。>

2011年03月17日 13時53分58秒 | 大震災の中で
3月13日(日)のこと(その2)

 1,小さな病室で父親と向き合い、生死の境界を見つめる営み

 2,不足した物資を求めて買いだめに走る心の中の不安=衝動

 3,道路の断裂による交通渋滞や断水、地震による家の損壊など、具体的な被害

 4,地震そのもののもたらす甚大な被害の報道

これらが次々に襲いかかってくると、受け入れられる自分自身の精神の容量を超えてしまうのだろうか、なにかある種の「高揚感」が短期的には起こってくるようだ。
不足した水を求めて給水場所を探し、生活物資を探してお店を巡り、壊れた瓦を集め、屋根にシートをかけていた2日目から3日目にかけては、そんな「陽気さ」が心を占めていたような気がする。

そんなこんなでバタバタした土日を終える。この頃はまだ曜日の感覚が残っていたようだ。

屋根のシートをかけ終えて屋内に戻り、夕食を取りながらTVを観る。
視聴者が目の前で撮影した映像が放送されている。津波が圧倒的に全てを飲み込んでいく様が、まざまざと映っている。

恐ろしい。

一瞬で全てがさらわれていく恐怖。あまりにあっけないその巨大な力に、ただ畏れを抱かされる。
海辺の町ではおそらく、過去の経験に加えて研究の成果も踏まえ、以前から津波への対応や警戒がなされていたことだろう。

しかし、今回の大津波は、自然に対抗する人間の営みの全てを圧倒的な力で押し倒した。

自分自身はその津波の直接的被害は受けていないけれど、それでもひたすら己の無力を感じさせられる。
できることといえば、父の痰を取り、給水所にいって水を汲んだり、買い物をしたりするぐらいだ。

この日の夜、ようやく自分の置かれた立場と周囲の損害、そして震災の全体像が一つに繋がってきたように思えた。
翌朝にはさらに次のステージが用意されていると知ることになるのだが。





自分も被災者なのだと気づくのは、割と遅い。

2011年03月17日 01時11分32秒 | 大震災の中で
3月13日(日)のこと
 12日(土)の夕方、家に戻ると瓦が大量に落ちていた。

 屋根は合掌するように、二つの斜面が真ん中で合わさっている。そしてその一番高い合わせ目には両端に鬼瓦、その間に丸い瓦が並んでいる。その屋根の「稜線」に当たる丸瓦が全て外れ、その大半が地面に叩きつけられていた。

 おそらく、屋根の斜面は、瓦が繋がっていて、一つの面として構成されていて、その二つの面が大きく揺すられた結果、その力が真ん中の丸瓦に集中し、耐えられなくなって飛ばされたのだろう。

 さっそく12日のうちに家族が瓦屋さんに電話をしたが、屋根が損傷した家が多すぎて、今日は見に来られない、との返事。
13日(日)の朝、もう一度留守をするのでいつ頃現場を見に来てもらえるか、と電話で尋ねると、ガソリンが不足してこれないのだという。

ここでようやく、自分が罹災していることを実感する。そうか、ガソリンも売っていないんだ。

とりあえず応急措置をしておいた方がいい、と瓦屋さんに言われ、ビニールシートを買いにホームセンターに行くが、どこも閉店している。仕方がないので家で使っているシートを引きはがしてかき集め、屋根に上って漆喰が露わになっているところをとにかく覆うことにする。

だが、子どもの頃、母の実家のトタン屋根の塗装など、気軽にひょいと屋根に上って手伝ったこともあるはずなのに、瓦にかけられた脚立の高さが怖い。

あのころの3倍以上の体重と、比較も愚かなほど衰えた運動能力とバランス感覚。
できれば誰かに代わって貰いたいと思った。
しかしもちろん、給水所と病院と買い物とに分かれて動いている家族の中で、屋根を直すのは私しかいない。

分かってはいるが、なかなか足が上がらない。
意を決してはしご段を昇る。脚立から屋根に乗り換えるのに大層難儀した。

だが、いったん屋根に上ってしまうと、はしご段の急な角度とは違ってむしろ緩やかな傾斜である。
子どもの頃のようにぴょんぴょん飛び跳ねて自在に動く度胸はないが、なんとか這いつくばっては動ける。
幸い無風に近かったので、シートを開いてはその端に錘を縛り付けていく。

その重しには落ちた瓦を使い、なんとか瓦の取れた屋根部分の8割程度をカバーした。
その周りや隙間から雨漏りするのはやむを得ないとしよう。

2週間か1ヶ月か、いずれにしても、プロの瓦屋さんが直してくれるまでの辛抱だ。

この日は屋根に上って3時間ほど悪戦苦闘したものの、まだまだ楽観的にそう思っていた。

 それにしても、重病人の泊まりの付き添いとか、屋根に上って応急措置をするとか、今までやったこともない役割が次々に降りかかってくる。

こういう時、人は「人間」についてより、自然とか神について考えたくなるものだ、と思う。
ただし、真っ只中ではなく、少し「ずれ」たところで。

 ともあれ、病人の食事と水、身の回りの世話と、罹災者としての自分たちの食事や水、家のメンテ。
二つの渦の中を行ったり来たり往復運動しながら、とりあえず最初の二日を夢中で乗り切ろうとしていた。

病室での小さな一つの生死と、テレビの中の万単位の生死。

2011年03月17日 00時47分34秒 | 大震災の中で
3月12日のこと(その4)
 病院から家に帰り、食事をしたりお茶を飲んだりしながらTVの報道を見ていると、病室で病人の付き添いをしていた時とは違ったリアリティが生じてくる。

 未曾有の災害が、自分たちの身の上に降りかかっているのだ、ということが次第に「理解」できるようになってくるのだ。

 このあたり、その時には混乱していて何がなにやら分からないというのが実情だったのだけれど、

明らかに病室での実感と茶の間での実感は違っていた。

 これは時系列上、翌日(12日)になって災害の実情の詳細が報道されはじめたという面もあるのかもしれない。
 帰り道に、自分の瞳で災害を目の当たりにしたということもあるのだろうか。

 肉親一人の、死と闘う姿に寄り添うことは、それはそれで濃密なリアリティがある。
 他方、何千人、行方不明の人も含めれば一万人以上とも言われ、避難した人々を含めれば数十万人となる大災害では、人はなによりも「数」として扱われる。しかしそれは簡単に数え切れないほどの量をもった「数」である。

 黒田三郎だったか、亡くなった方の報道の人数に違和感を覚える死があったように記憶している。

 「だがそれは数のことなのか」

 そんな詩句だったか。

たった一人の肉親の生死と、万単位の命、そして数十万人にも及ぶ生活者の基盤の喪失。テレビで繰り返される大津波のスペクタクル、増え続ける死者、行方不明者、避難民の数。

 もとより比較できるものではないし、比較しても意味はない。

 同時に小さな渦と大きな渦と、両方に飲み込まれている、ということなのだろう。

 しかし、まだ自分の中では、その二つのリアリティを、バランスよく手に持つことができずにいる。