実際に番組を観ていないので正当な評価ができませんが、納得なのでコメントします。
桜井財務副大臣が
「20mSv/y」
にした基準を問われて
「それはあの地域(福島県)の人々がそこに住んでいられるようにということなんです」
と明言したという。
ここでも以前触れたけれど、「政治」とはそういうものだろうと思う。
「本当は住んではいけない場所」と言われても、福島県人としては正直困る。
原発を容認していた「愚かさ」に加えて、避難もしない「愚かさ」を重ねて演じているようで、居心地も悪い。
でもね。
できればこの場所に住みたいのです。
だからこそ、できるだけ被曝線量を少なくし、住み続けられる環境構築に最大限のサポートをしてほしいのです。
あの爆発の時の風の通り道になった浜通りから北西に福島に抜け、中通りを南下していく道筋上には、
福島県民の半分ちかくが住んでいるのだと思います。
だとすれば100万人を直ちに受け入れる場所がいったいどこにあるでしょう。
基準設定の「政治性」「経済性」も問題だけれど、もっと問題なのは、いったん基準を決めてしまうと、今度は高みの見物をして「市町村を支援します」とかいいやがる(文科省の)姿勢だと思います。
大丈夫って基準を決めたから、やるのは「支援」だけ。
これは本当に役人や政治家の愚劣さがあらわれた態度です。
なるほど、「政治」と「経済」のファクターは無視できない。だから原発がこんな風になったのでしょう。
でも、政治家と東電「だけ」がいかれポンチだったっていう議論は、私は採れません。
いうまでもなく、1億2000万人総懺悔なんて話をしたいのでもありません。
「人災」といえば全て人災でしょうが、歴史の判断を待たねばならない大きな分岐点の「責任」の所在が明らかになるまで、私達は待ってはいられない。
それに、いつだって「政治的」「経済的」な判断は、「公共性」を期待すべくもない妥協と計略の産物でしょう。
しかしたとえ与えられたものが「政治」と「経済」の論理によっていかほどかゆがんだフレームではあったとしても、その中で人は誰であっても政府でも政治家でも、被災地のために何が最善か、を徹底的に考えてサービスする「倫理的」姿勢を持ってほしいのです。
その誠実さまでが「詐欺的」であるかどうか、は「感情のニュアンス」を受け取るこちらの感受性=「公共性の感覚」の鋭敏さ、によって判断するしかありません。
でも一つ言えることは、たとえ一方では妥協と計略、経済的意図や保身が渦巻く中であっても、人は「誠実」であることは可能だし、「倫理的」姿勢を貫くことはできる。
そういうことが試されているのだと思います。
政治家も、私達も。
桜井財務副大臣が
「20mSv/y」
にした基準を問われて
「それはあの地域(福島県)の人々がそこに住んでいられるようにということなんです」
と明言したという。
ここでも以前触れたけれど、「政治」とはそういうものだろうと思う。
「本当は住んではいけない場所」と言われても、福島県人としては正直困る。
原発を容認していた「愚かさ」に加えて、避難もしない「愚かさ」を重ねて演じているようで、居心地も悪い。
でもね。
できればこの場所に住みたいのです。
だからこそ、できるだけ被曝線量を少なくし、住み続けられる環境構築に最大限のサポートをしてほしいのです。
あの爆発の時の風の通り道になった浜通りから北西に福島に抜け、中通りを南下していく道筋上には、
福島県民の半分ちかくが住んでいるのだと思います。
だとすれば100万人を直ちに受け入れる場所がいったいどこにあるでしょう。
基準設定の「政治性」「経済性」も問題だけれど、もっと問題なのは、いったん基準を決めてしまうと、今度は高みの見物をして「市町村を支援します」とかいいやがる(文科省の)姿勢だと思います。
大丈夫って基準を決めたから、やるのは「支援」だけ。
これは本当に役人や政治家の愚劣さがあらわれた態度です。
なるほど、「政治」と「経済」のファクターは無視できない。だから原発がこんな風になったのでしょう。
でも、政治家と東電「だけ」がいかれポンチだったっていう議論は、私は採れません。
いうまでもなく、1億2000万人総懺悔なんて話をしたいのでもありません。
「人災」といえば全て人災でしょうが、歴史の判断を待たねばならない大きな分岐点の「責任」の所在が明らかになるまで、私達は待ってはいられない。
それに、いつだって「政治的」「経済的」な判断は、「公共性」を期待すべくもない妥協と計略の産物でしょう。
しかしたとえ与えられたものが「政治」と「経済」の論理によっていかほどかゆがんだフレームではあったとしても、その中で人は誰であっても政府でも政治家でも、被災地のために何が最善か、を徹底的に考えてサービスする「倫理的」姿勢を持ってほしいのです。
その誠実さまでが「詐欺的」であるかどうか、は「感情のニュアンス」を受け取るこちらの感受性=「公共性の感覚」の鋭敏さ、によって判断するしかありません。
でも一つ言えることは、たとえ一方では妥協と計略、経済的意図や保身が渦巻く中であっても、人は「誠実」であることは可能だし、「倫理的」姿勢を貫くことはできる。
そういうことが試されているのだと思います。
政治家も、私達も。