龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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TVタックルの桜井財務副大臣の発言

2011年06月01日 20時53分44秒 | 大震災の中で
実際に番組を観ていないので正当な評価ができませんが、納得なのでコメントします。
桜井財務副大臣が
「20mSv/y」
にした基準を問われて
「それはあの地域(福島県)の人々がそこに住んでいられるようにということなんです」
と明言したという。

ここでも以前触れたけれど、「政治」とはそういうものだろうと思う。

「本当は住んではいけない場所」と言われても、福島県人としては正直困る。

原発を容認していた「愚かさ」に加えて、避難もしない「愚かさ」を重ねて演じているようで、居心地も悪い。

でもね。
できればこの場所に住みたいのです。
だからこそ、できるだけ被曝線量を少なくし、住み続けられる環境構築に最大限のサポートをしてほしいのです。
あの爆発の時の風の通り道になった浜通りから北西に福島に抜け、中通りを南下していく道筋上には、
福島県民の半分ちかくが住んでいるのだと思います。

だとすれば100万人を直ちに受け入れる場所がいったいどこにあるでしょう。

基準設定の「政治性」「経済性」も問題だけれど、もっと問題なのは、いったん基準を決めてしまうと、今度は高みの見物をして「市町村を支援します」とかいいやがる(文科省の)姿勢だと思います。

大丈夫って基準を決めたから、やるのは「支援」だけ。
これは本当に役人や政治家の愚劣さがあらわれた態度です。


なるほど、「政治」と「経済」のファクターは無視できない。だから原発がこんな風になったのでしょう。

でも、政治家と東電「だけ」がいかれポンチだったっていう議論は、私は採れません。
いうまでもなく、1億2000万人総懺悔なんて話をしたいのでもありません。

「人災」といえば全て人災でしょうが、歴史の判断を待たねばならない大きな分岐点の「責任」の所在が明らかになるまで、私達は待ってはいられない。

それに、いつだって「政治的」「経済的」な判断は、「公共性」を期待すべくもない妥協と計略の産物でしょう。

しかしたとえ与えられたものが「政治」と「経済」の論理によっていかほどかゆがんだフレームではあったとしても、その中で人は誰であっても政府でも政治家でも、被災地のために何が最善か、を徹底的に考えてサービスする「倫理的」姿勢を持ってほしいのです。

その誠実さまでが「詐欺的」であるかどうか、は「感情のニュアンス」を受け取るこちらの感受性=「公共性の感覚」の鋭敏さ、によって判断するしかありません。

でも一つ言えることは、たとえ一方では妥協と計略、経済的意図や保身が渦巻く中であっても、人は「誠実」であることは可能だし、「倫理的」姿勢を貫くことはできる。
そういうことが試されているのだと思います。

政治家も、私達も。





大震災の「後」で

2011年06月01日 19時59分48秒 | 大震災の中で

大震災は私達の生活の基盤それ自体の揺らぎをもたらし、不安と緊張、興奮と怖れの中でこの二ヶ月を過ごしてきたような気がする。
そして私達はまだ、大震災のただ中にいる。

けれど、一方では生活も始めなければならない。
「被災」だけでずっとそれが引き延ばされるのも辛い。が、将来の着地点がはっきりとは見えてこないにもかかわらず、日常を立ち上げていくのもまた、辛い。

いったん仕事が始まってみれば、止まっていた時間を一挙に動かしていかねばならない「多忙さ」を突然抱え込むことになる。
内面では、緊張しつづけることに耐えられず、どこかで綻びが始まっているのではないか、と少し怖い。

日常的無意識の基盤に支えられたかつての「安定」はすでにない。
人為の裂け目についての感度は確かに上がったと思うけれど、それは決して「強さ」ばかりを意味するわけではないだろう。

自分はいったいどこまで大丈夫なのか?
どこかで薄氷を踏むような思いもあるのだ。

復興などと偉そうな話をしているのではない。
「ふつう」が回復するまで、踏ん張りながらいけるところまで行くしかないのは分かっている。
しかし、最後までもつのだろうか、という不安がよぎる。

「最後」とはだが、いつのことか。

誰に尋ねることもできないまま、日常生活はもう見切り発車してしまった。
会議でも、打ち合わせでも、「非日常」の中に「日常」を再現するための「検討」「調整」「交渉」「合意」が続く。

もはや何が日常で何が非日常なのかもわからなくなりそうである。

詠んだことのない歌にもならないような歌を、半日で30首ちかく吐息のように書き出したのも、そのままでは心の中のバランスが取れなくなっているから、だろうか。

被災とは、生きること全体いたるところに広がり、覆い尽くしているものなのだ、とようやく気づきはじめている。


ETV特集「ネットワークでつくる放射能汚染地図」を観た

2011年06月01日 01時59分46秒 | 大震災の中で
友人に勧められて、
ETV特集「ネットワークでつくる放射能汚染地図~福島原発事故から2か月~」

何度目かの再放送を観た。東電福島原発事故に関心のある人必見。

木村真三さんという研究者(放射線衛生学)は、かつて放射線医学総合研究所に所属。
その後、厚生労働省の研究所に移り、自主的にチェルノブイリの調査も経験したが、今回の事故に際して、職場の幹部は自発的調査をしないよう指示。木村さんは辞表を出す。

「指示が出ないと動けないという窮屈感というものがものすごくありました」

その後木村さんが、たくさんの研究者の支援・連携のもと、1回3000キロにも及ぶ採取を何度も繰り返し、福島県内の調査を積み重ねた二ヶ月のドキュメントである。

土壌採取、線量検査、現地取材の様子が淡々と描かれていくが、それだけで衝迫力のあるものになっている。
チェルノブイリの現状よりも高い測定限界を超えた状況。
土地も飼っていた動物たちからも離れて避難しなければならない牧場主の篠木さん、たばこの苗を雑草のように捨てざるをえない農家の方。

ホットスポットになっているにもかかわらず、高線量を知らずそこに「避難」したつもりだった赤宇木公民館の人々。

その深刻な現状は、本当に心が締め付けられる。
災害か人災か。全体の状況が掴めない中で全てを即断はできない。

だが、そのむしろ冷静な調査の取材過程で見えてくるのは、住民不在の政治と行政の現実だ。

本当に厚生労働省の上司の言うとおり木村氏が辞表を出さず指示に従っていたら、この調査はなかったわけだし、このドキュメントも存在していないわけだ。

また、文部科学省は、たとえば浪江町のホットスポットの測定をしていたにもかかわらず、測定地点の地名を「風評被害防止」のために公表せず、そのため明白に避難が遅れてしまった現実もある。浪江町長もその高線量は「知っていた」が、正式な通達・報告がなかったから、「ただネットでデータが流れていたという認識だった」とコメントしていた。

二本松市長のコメントとの落差が胸に痛い。

皆が言うのは、「こんな綺麗な自然なのに、どうして仕事もできず住むこともできなくなってしまったのか、その問いに誰か答えてほしい」ということだ。

東電の原発に事故があったから、には違いないが、それはこの問いの答えとしては不十分なものだろう。
無論このものどかしさは東電の責任をいささかも減ずるものではない。
しかし、福島に住む人間はおそらくだれも、この責任が一企業の「失敗」のみに帰せられ得るものだとは思っていまい。

番組の最後、自宅が警戒区域指定になる直前に、置いてきた犬と猫に「最後の」餌をやりに自宅に戻って世話をした後、家を出て避難所に帰ろうとするクルマを追いかけてくる飼い犬の姿が切なかった(その後トムくんといったか、その飼い犬は連れてきてもらうことができたそうです)。

福島県内の校庭の土の汚染の問題にも触れられていました。
この番組の後、その辺りは国の方でも動きが多少はあったようですが、遅い動きであることは否めません。

放射能はあっという間に福島県中に広がり、高線量被曝の場所と、比較的低い線量の場所とまだらに汚染されていきました。おそらく、高線量の放射能が飛散したのは、最初期の爆発と雨の頃だったのかもしれません。

こういう一刻を争うとき、この国の意思決定の反応は鈍く、初動は遅い。

国会では首相退陣の声が上がっているが、問題はおそらくそこじゃないと思う。

今の首相が有能だ、とは思わない。
間違いなく交換可能な政治家の一人に過ぎない、だろう。

だが、交換可能な政治家をこういう時期に「交換」することによって相対的に「まし」なものに替えられる、と信じるべき理由は、この国の政治においては見つけにくいこともまた、確実であるように思われてならない。

言葉を発すれば責任が生じるから、責任の取れる範囲が確定するまでは言質を取られないように腐心する……。そういう姿勢が行政=政治の言説には露骨すぎる。
どこの国のトップだって、思いつきで言葉を発することはできない。
だが、混沌とした世界像に対したとき、孤独な決断を要することもまた、どのような集団においても「例外状態」=危機においては求められる「態度」だろう。

私達はその態度を、どのように政治家に求め得るのか。それがまず私達が探すべきことのような気がしている。政治家にどんな言葉=知=権力を付与していくべきなのか。

個人的には、威勢良く「決断」を下すようなちゃちな「英雄」を期待することだけは勘弁してほしいですが……。

番組後半で、福島の住民の人が
「分からないなら分かるまで危険な校庭で子どもを遊ばせないようにしまようよ」
と詰め寄った言葉は、語気荒げではあったが、妥当な判断を示していたと私は考える。

基準を出せといわれて、文科省は後出しじゃんけんのように、さほど根拠無き基準を出してそれを盾に責任を逃れ、御用学者は「国民はその基準を冷静に守るべきだ」みたいな話に持って行く……

そういうプロセスがグローバルスタンダードなんだろうか?人間や役人や政治家って、国って「そんなもん」なんだろうか。

「正確な数字」「権威ある数字」「責任ある数字」
そんなものが出るまでに、被曝は進行していくという現実。
総線量が具体的に病気を「正確にもたらす」ものかどうかの判断なんぞ下すまえに、全員移住とかいった究極の選択をせずとも、安全側に振った処理はいくらでも可能ではないか。

政治だから政治的経済的コストを考慮するのはもちろん「当然」だ。
全員西日本に避難しろ的「正しい処世術」は、「裏声」で「声高」に語ればよい。

だが、無力な現場の人間を、限られた政治資産であってもそれを駆使して、最大限に守ろうとする姿勢は示されなければならない。
二本松市長の示す姿勢に共感するのはそれが理由だ。

一義的に守ろうとするのが「正確さ」や「権威」や「責任の所在の適切性」であるとすれば、最終的に人はそれを歴史の上では「保身」と呼ぶことになる。

大人なら人生の中で学んでいるはずなのにね。