龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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福島大学の要望書

2011年06月06日 23時51分31秒 | 大震災の中で
福島大学の准教授たちが、福島県に7項目からなる要望書を提出。
県民の常識的な願いを代弁するものだと思う。

http://fukugenken.up.seesaa.net/image/E8A681E69C9BE69BB8ver8.pdf

詳細は上記へ。
概略、前半は安全を強調するアドバイザー選定の問題点を指摘。危険性を考慮に入れるアドバイザーも参加させよ、というものです。
後半は、被曝をを1ミリシーベルト/年に近づけるよう逓減策を講じること、線量測定のきめ細かい対応です。
モニタリングポストの拡充
ホールボディカウンターの県内病院への設置
ホットスポットマップの作成
線量計配布など。










NHK ETV特集「ネットワークでつくる放射能汚染地図」続報

2011年06月06日 01時34分43秒 | 大震災の中で
6月5日午後10時からETVで
NHK ETV特集「ネットワークでつくる放射能汚染地図」
の続報が放送された。

第一原発敷地外からもプルトニウムが検出された。
避難準備地域からも30キロ圏内からも外れているいわき市内でも飯舘村と同レベルのホットスポットが観測された。

その二点が大きなポイント。
こういう活動をしてもらえること自体がありがたいし、こうして報道を続けてもらえることもありがたい、と被災地の一人としとして感謝したいです。また、いわき市民としても現状把握のためには、もっと細かく線量の測定をしていかねばならないのだ、と改めて感じました。

その時間帯の前のNHKスペシャル
「シリーズ原発危機」第1回「事故はなぜ深刻化したのか」
と併せて見ました。
こちらも検証としては重要な仕事だと感じますが、題名の問いに対する答えが十分与えられた印象はありませんでした。

だれか別の人間や別の組織だったら、もっと「深刻化」を防げたのだろうか、と考えた時、答えはかなり否定的なものにならざるを得ない。

こりゃあ、この現状ではこれ以上できたかどうか、かなり難しいなあ、という思いを持ちました。

あ、もしかして、そういうことが番組の目的だったのかな?(苦笑)

もちろろん、安易に大雑把な近代文明批判とかされてもなあ、とは思います。
そういう意味でたとえ事後的ではあっても、検証報道をぜひ継続的にお願いしたい。
あるいは、データの測定を継続的に行い、それを報告してほしい。
私たちが考える材料、はあればあるほどいい。

そうそう。

一点だけ、問題を感じたのは、危機的状況の真っただ中、官邸が情報の正確性、妥当性を選択してから出そうとした瞬間の官邸内での様子を証言していた寺田さんだったかのコメントでした。

重要な政策決定を必要とすることであればあるほど、その前提となる情報の妥当性が問われることになるのはわかります。

でも、原子炉の制御が失われつつある非常に危険な状況だ、という認識がすでに官邸の中にあった以上、住民自身が危険を判断する材料は、最大限その被害の当事者に、積極的に提供すべきでした。

決してデマでも垂れ流せ、というのではありません。
けれど、単なる情報統制は結果として避難が遅れる。
こういうときは、安全側に振った対応を明確かつ迅速に発信すべきだったのではないでしょうか。

この時点で、浪江→飯館→福島という風の流れの予測が出されていたら、被曝のリスクはずっと低くできたのではないか。その疑念がぬぐえません。

信頼性の低い情報ではあってもその程度に応じて国民は、その不確実さとリスクを判断しつつ行動できるように、速度と確度をマネージメントすることは、技術的にもう少し高いレベルでコントロール可能だったのではないでしょうか。

東電はこういう危惧を抱いている。官邸はこんな悲観的シナリオを想定している。保安院はここを心配している。原子力安全委員会はこういう提案をしている。

すべてを垂れ流すことがいいのかどうか、は議論があるだろうこともわかります。
でも、飯館村を「安全」と言い続けて、結果として被曝を十分にしてから避難になった一連の経緯をみると情報の扱い方に「人災」の匂いを感じるのは止められないように思います。

お墨付きの情報でなければ行政は動けない。

この現実は、役人の末端にいる人間としてはよーくわかります。役所は、たとえどんな緊急時だって、「わからない」うちは動けない。それも当然。

でも、情報は違う。
質のよい?お墨付きの情報だけではなく、「予測」ではあっても、提示は可能だったろうと思う。

以前ここに書いた被災生徒の転校に際する教科書再購入の補助も、隙間を埋めるには行政って、時間がどうしてもかかる。
行政ばかりではない、ドキュメントの中での東京電力の対応を見ていても、絵図面のあらかじめ描けている場合はつよいけれど、緊急時にはどうしても「最速」モードにはなれないのだ。

私たちは(超緊急時の場合ですよ)、お墨付きの情報をただ受身的に待って、その結果知らないうちに被曝していました、という事態を迎えるのであれば、むしろ、ガセ情報に流されてパニックを起こすリスクを自分たちで管理するから、確かさの程度の低い「予測」や悲観的「シナリオ」であっても、提供してほしい、と思う。

それが「知的生命体の業」(梅棹忠夫?)の「欲望」に沿ったリテラシーにも繋がるんじゃないかなあ。

1,情報の確認に手間取る
2,庶民のパニックを怖れる
3,組織として意思決定に手間取る
4,組織間の情報確認・意思疎通が機能不全に陥る

といったことを感じましたが、とにかく、無事に生き延びさせてほしい。情報統制をして市民を釘付けにして、被曝量を増やす結果となるのは、これ以上ない「最悪のシナリオ」だったと思う。

情報をもっとオープンにした結果、不都合が起こることは十分危険性としてありえる。

でも、これはとても実は「原理的」なことであって、官僚や企業や行政側だけが「不確実な情報」をたくさん握っていて、取捨選択検証をしてから市民に提示するっていう流れは、もう決定的にダメ、なんだと思うなあ。

そこはとっても難しくて、情報を丸投げして「ひとりひとり」に責任を負わせればいいってものじゃないからねえ。ま、情報なんて今は「丸投げ」もできないほど様々なデータが蠢き続けているわけだし。

情報の評価は必要だし、その評価についての評価も必要。
正しさとか正確さは、緊急時にはむしろその無限遡及に行きがちだったりして。

決断するのは不確実だから、なわけだよね。

だったら、その不確実さをいったん受け止めた上で、根拠なしっていうんじゃなくて、不確実ながらも情報を可能な限り受け止めて(分析検証はずっと後になってからしかできない!)、その上で決断を下していく必要が、大きなレベルでも小さなレベルでも必要になる。

ぎりぎりのところでは、共通の大きな闇みたいな課題と向き合いつつ、情報の共有も目指しつつ、行動を素早くやるには各自の「てんでんこ」をあてにするしかない。

そういう時、例えばの話だけれど「官邸が」「東電本社が」「本社社員が」「菅首相が」評価決定を下すだけでは足りないんじゃないかな。

そういう垂直統合型の「文明スタイル」の見直しの大きなポイントの一つが、「情報」の扱い方にも現れているのだ。

話を最初に戻すと、
NHK ETV特集「ネットワークでつくる放射能汚染地図」続報
の番組に出ていた研究者たちは、放射能汚染の「問題性」を強く認識しているからこそ、福島県内の汚染測定を継続的に行ってくれている。

それはその科学者の価値判断が加わった研究作業には違いない。

他方では、

「そんなもの測らなくたってプルトニウムなんて微量に決まってるし、ホットスポットとかいっても、もう3月中旬の飛散で決定づけられたものだから、あとは線量は増えないさ。今となっては冷却安定化が肝だ」

という「現実的」な考え方もありえるのだろう。

でも、その被曝した場所に住み続ける者は、前者の測定しつづけてくれる研究者と、後者の「現実的」考え方とを比べれば、断然前者を支持していくに違いない。私もその一人だ。

なぜって、後者は私達になんの知見も与えてはくれないから。
むろん、判断は各自がするしかない。
そう判断する人がいるのだろうな、という「情報」にはなる。

でもさ、危機的状況では瞬間的に「てんでんこ」の判断をするのが大事。

そのためには判断の前提となるデータを地道にを取ってくれる人が必要。
そしてそれには、そのデータの意義に価値を置く研究者がいてくれないと非常に困る。

さもなければ私たちは知らずに被曝しつづけるリスクを「無知」とともに背負うことになるから。

仮に全く安全でなんの問題もなければ、たしかに科学者の業績にもならない。
そういう意味では、科学者たちも、自身の業績が上がる可能性が全くないボランティアでやっている人ばかりだとは思わない。

危険がそこにあるから研究者が寄ってくるのだろう、ということは分かる。
図らずも、モルモット扱いになりかねない、ことだって分かる。
線量を測ってもらったからといって、何か現状がただちに改善されるわけでもない。
高ければいられなくなるだけだからね。むしろもっと大変になるかもしれない。

そんなことまで心配した結果(要らぬ心配をしてくれて)、政府は20ミリシーベルト/年以下までの蓄積線量は大丈夫、なんてお墨付きを与えてくれたけれども(苦笑)。


そういうことぐらい、ネット上のことではなくてもメディアリテラシーとして考えることはできるし、判断もできる。

でも、それでも、私達は可能なかぎり正確に「知りたい」のだ。

「知的生命体の業」(梅棹忠夫)

が原発を推進させてしまったように、その事故の結果についても、今はもう単なる「神様の思し召し」としてだけ済ませるわけにはいかない。

事故後に人間が生きるためには、観測データが必要なのだ。
知ってしまったからには後戻りはできない。
もはや知的に材料を踏まえてでなければ私達は行動できないのだから。

その理性的科学的なアプローチをつづけつつ、一方では根本的な「人間観」・「自然観」が問い直さねばならないこともまた確かなのだけれど。

この項目もまだまだ続く話です。