6月11日(土)渋谷文化総合センター大和田伝承ホールで開催された
朗読劇「物語シアター」第六回公演(代表 堀井真吾)
を聴いてきた。
メチャメチャ面白かった。
肉声を生で聴くこと。それも、単なるおしゃべりや一方的な「説得」を旨とする講演などではなく、「対話」において耳を澄ますこと。
そういうことを、震災後の身体が求めていたのだと分かった。
年若い友人がチケットをおくってくれたのだ。
この友人は、18年前私が無呼吸症候群で入院したときも、椎名誠の旅本を持ってきてくれたのだった。
18年ぶりに危機を迎えたとき、さりげなく、きっと偶然に違いないけれど、最高の贈り物を与えてくれる。
そういう「出会いの偶然」は、文句なく心を豊かにしてくれる。
この朗読劇との出会い自体もまた衝撃だったなあ。
語り物の力を再認識しました。なにせ世界というフィクションを、声で支えるっていうのは、なんと素朴といえば素朴なことではありませんか。
でも、それが最高に洗練された日本語のプロによって語られていくのです。
悪いけれど、凡百の役者さんの「ことば」と「身振り」が霞んでいきます。
これに匹敵する「声」というか「語り」を現出させることのできる「役者」さんは極めて限られている。
感想はこちらに書きましたのでよろしければ。
メディア日記
http://blog.foxydog.pepper.jp/?PHPSESSID=4bdd9b017e6bb2c6148b813986adbb9b
1月に観た柿食う客のわざとらしさ満載の語り口で演じられる『愉快犯』とはおよそ対極的で、でも、声が出てくる場所を徹底的に見つめようとする瞳の凝らし方は、そんなに遠いわけでもないのかもしれない、と思ったりもします。
虚構を構成する「生身」の場所。
権力(状況定義力)のせめぎ合う第一の場所は自分自身の身体である、というその「そこ」は、とても視線を固定して目を凝らし続けることがむずかしい場所なのかもしれません。
耳を澄ませたり、身体を極限まで緊張させたり、飛んだり跳ねたり立ち止まったり、深呼吸したりしながら、それでもその辺りに近づいていきたい。
日常の忘却装置が、原発の冷却装置と共に壊れてしまった「現在」を生きるには、身体を伴った状況定義装置としてのフィクションが、どうしても必要不可欠です。
それは絶対に、震災前のシステムの使い回しであってはならない。
そのほかのことはほとんど何も震災前のシステムについて実感を伴った参照すべき記憶は失われてしまったけれど(柄谷行人が指摘してましたねそんなことを)、そこだけは譲れません。
水を入れ続ければ冷却可能、といいながら、汚染水をまき散らすような「忘却装置」に、私達は依存してはいられないでしょう。
いや、依存からの離脱はあらたな依存を招くだけだとすれば、そんなに早く代替表象を求めることはないのかもしれません。殊に、何も慌てて下手な旧来のシステム=政治の嘘で「福島」の裂け目を修復してもらう必要はないんじゃないかな。
長い黄昏を生きながら、酒でも酌み交わしつつ、ゆっくり瞳を凝らしていけばいい。
目を閉じて老後を生きようとは思わないから。
どんなシステムが立ち上がるのか、むしろ福島の人間は、わくわくしながら現場に立ち続けることができる、とも言えるかもしれません。黄昏をむやみに怖れることはない、のだと思います。
だって、原発事故がもし全然なかったとしても、瓦一つ手に入らない現状を考えても、「復興」とか煽るヒトたち、電力不足を必要以上に声高に危惧する人たちは、今すぐ福島県民退去すべき、みたいな人たちと同様、空絵事の絵図面が好きなのかもしれません。
大切なのは、顔が見える範囲の肉声から始めること。遠い目標を見失わず、目の前のことを少しずつ動かし、それを慌てずに、多少黄昏れても新しい発見があればそれを支持しつづけていくこと。
大きな国家規模の忘却装置が作動するスイッチオンの振動を見逃さないこと。
そういうことじゃないかな。
空絵事だから悪いといっているんじゃありません。
性急な強制はちょっと、と福島の住民の背中の唐獅子ボタンならぬ聖痕が痛むのです。
最初から国家レベルでの風呂敷を広げられると、排除と強制の論理が原発推進でも原発反対でも「説得と強制」として発動しちゃうんですよね。つまりは過度の状況定義力が発生しちまう。
過度の状況定義力すなわち権力は、それはもう、放射能だけで沢山なのです。
むしろ、小さな内部被曝も注意深く避けるように、小さいことから変化を歓迎し、大切に育てていく、ってことが重要なのかもしれません。放射能という絶対的な状況定義に対して、私達ができることはいったい何なのか。
政治的に同心円状に警戒区域を地図上に描くことではなかった、ということは分かりました。
科学的に放射能汚染地図を丁寧に科学的に計測して構成していくことは重要だけれど、それは「福島」とか名付けるべきものでもないことも分かってきました。
それは単なる汚染地域。
人間の営みは、線量の単純な関数として定義はできないですからね……。
福島県が受け続けている放射能汚染によって福島の住民が負った「裂け目」を、どうやったら人間の営みに生かし、その聖痕のバトンを誰にどうやって手渡していけるのか。
これからはそこいら辺をまた考えて行かねばなりません。
朗読劇「物語シアター」第六回公演(代表 堀井真吾)
を聴いてきた。
メチャメチャ面白かった。
肉声を生で聴くこと。それも、単なるおしゃべりや一方的な「説得」を旨とする講演などではなく、「対話」において耳を澄ますこと。
そういうことを、震災後の身体が求めていたのだと分かった。
年若い友人がチケットをおくってくれたのだ。
この友人は、18年前私が無呼吸症候群で入院したときも、椎名誠の旅本を持ってきてくれたのだった。
18年ぶりに危機を迎えたとき、さりげなく、きっと偶然に違いないけれど、最高の贈り物を与えてくれる。
そういう「出会いの偶然」は、文句なく心を豊かにしてくれる。
この朗読劇との出会い自体もまた衝撃だったなあ。
語り物の力を再認識しました。なにせ世界というフィクションを、声で支えるっていうのは、なんと素朴といえば素朴なことではありませんか。
でも、それが最高に洗練された日本語のプロによって語られていくのです。
悪いけれど、凡百の役者さんの「ことば」と「身振り」が霞んでいきます。
これに匹敵する「声」というか「語り」を現出させることのできる「役者」さんは極めて限られている。
感想はこちらに書きましたのでよろしければ。
メディア日記
http://blog.foxydog.pepper.jp/?PHPSESSID=4bdd9b017e6bb2c6148b813986adbb9b
1月に観た柿食う客のわざとらしさ満載の語り口で演じられる『愉快犯』とはおよそ対極的で、でも、声が出てくる場所を徹底的に見つめようとする瞳の凝らし方は、そんなに遠いわけでもないのかもしれない、と思ったりもします。
虚構を構成する「生身」の場所。
権力(状況定義力)のせめぎ合う第一の場所は自分自身の身体である、というその「そこ」は、とても視線を固定して目を凝らし続けることがむずかしい場所なのかもしれません。
耳を澄ませたり、身体を極限まで緊張させたり、飛んだり跳ねたり立ち止まったり、深呼吸したりしながら、それでもその辺りに近づいていきたい。
日常の忘却装置が、原発の冷却装置と共に壊れてしまった「現在」を生きるには、身体を伴った状況定義装置としてのフィクションが、どうしても必要不可欠です。
それは絶対に、震災前のシステムの使い回しであってはならない。
そのほかのことはほとんど何も震災前のシステムについて実感を伴った参照すべき記憶は失われてしまったけれど(柄谷行人が指摘してましたねそんなことを)、そこだけは譲れません。
水を入れ続ければ冷却可能、といいながら、汚染水をまき散らすような「忘却装置」に、私達は依存してはいられないでしょう。
いや、依存からの離脱はあらたな依存を招くだけだとすれば、そんなに早く代替表象を求めることはないのかもしれません。殊に、何も慌てて下手な旧来のシステム=政治の嘘で「福島」の裂け目を修復してもらう必要はないんじゃないかな。
長い黄昏を生きながら、酒でも酌み交わしつつ、ゆっくり瞳を凝らしていけばいい。
目を閉じて老後を生きようとは思わないから。
どんなシステムが立ち上がるのか、むしろ福島の人間は、わくわくしながら現場に立ち続けることができる、とも言えるかもしれません。黄昏をむやみに怖れることはない、のだと思います。
だって、原発事故がもし全然なかったとしても、瓦一つ手に入らない現状を考えても、「復興」とか煽るヒトたち、電力不足を必要以上に声高に危惧する人たちは、今すぐ福島県民退去すべき、みたいな人たちと同様、空絵事の絵図面が好きなのかもしれません。
大切なのは、顔が見える範囲の肉声から始めること。遠い目標を見失わず、目の前のことを少しずつ動かし、それを慌てずに、多少黄昏れても新しい発見があればそれを支持しつづけていくこと。
大きな国家規模の忘却装置が作動するスイッチオンの振動を見逃さないこと。
そういうことじゃないかな。
空絵事だから悪いといっているんじゃありません。
性急な強制はちょっと、と福島の住民の背中の唐獅子ボタンならぬ聖痕が痛むのです。
最初から国家レベルでの風呂敷を広げられると、排除と強制の論理が原発推進でも原発反対でも「説得と強制」として発動しちゃうんですよね。つまりは過度の状況定義力が発生しちまう。
過度の状況定義力すなわち権力は、それはもう、放射能だけで沢山なのです。
むしろ、小さな内部被曝も注意深く避けるように、小さいことから変化を歓迎し、大切に育てていく、ってことが重要なのかもしれません。放射能という絶対的な状況定義に対して、私達ができることはいったい何なのか。
政治的に同心円状に警戒区域を地図上に描くことではなかった、ということは分かりました。
科学的に放射能汚染地図を丁寧に科学的に計測して構成していくことは重要だけれど、それは「福島」とか名付けるべきものでもないことも分かってきました。
それは単なる汚染地域。
人間の営みは、線量の単純な関数として定義はできないですからね……。
福島県が受け続けている放射能汚染によって福島の住民が負った「裂け目」を、どうやったら人間の営みに生かし、その聖痕のバトンを誰にどうやって手渡していけるのか。
これからはそこいら辺をまた考えて行かねばなりません。