龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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福島から発信するということ(1)

2011年06月18日 11時46分56秒 | 大震災の中で
もしくは「和合亮一」という「愚かさ」の使い方

3.11の大震災から100日、東電福島第一原子力発電所の事故を収束させる第一歩となる(はずの?)冷温安定化、そのための最初のアプローチとしての汚染冷却水の浄化・循環システムが動き始めたという。
なんとか継続的に稼働して、その効果を発揮してほしい。
もしこれがうまくいかなければ、連続的に大量の汚染水がうみに放出されるという新たに「あり得ないはずのこと」が起こるのだから。

さて、気がつくと、福島からも様々な形で「発信」がなされるようになった。

私は福島「から」福島以外の誰かに向かって発信しているつもりはあまりない。

「福島」という事件の現場にいるからには、そこで考え続けたことを、岩につける爪の跡のように、かき傷を残しておきたいと思うだけだ。

批評的に立場や主体をクリアにするつもりなのではなくて、この場で思考し続けたいというきわめて個人的な欲望で書いている。

けれども、100日も経てば「福島」の中からの声が「福島」以外の場所に向かって発せられ、そのリアクションが「福島」に向けて返ってくる、ということが起こる。

そして「福島」からの発信は200万通りぐらいはあるだろうし、「福島」以外からのリアクションは60億通り以上はあるのだろうから、いちいち反応するのもどうかと思う。

一方「福島」を巡って、
それを中心とした言説空間が立ち上がるのも当然といえば当然。「福島」は今ある意味で「言説世界の中心」的な話題でありつづけているのだから。

というわけで、1つだけコメントしておきたい。

和合亮一という詩人のことばについてだ。

個人的に面識のあるヒトについて個人名を挙げてブログで書くことになるとは思わなかったので、非常に話題の扱い方が難しいのだが、もちろん、人についてではなく詩人のことばについて、その詩人の「利用方法」について人格を経由しない疑問を述べておきたいのだ。

福島を主題とした和合亮一の詩は、今週のNHK9時からのニュースでも特集された「福島」から世界に発信されつづけている「Twitter=詩」である。

「福島は私たちです。私たちは福島です。」

「避難するみなさん、身を切る辛さで故郷を離れていくみなさん。必ず戻ってきて下さい。」

「福島を失っちゃいけない。東北を失っちゃいけない。」

といった、脳みそショート(短絡)系の内容で、「意味」的には

詩人の脳みそ=福島=津波=原発事故=世界

が区分を超えて、福島に在住する詩人の「身体」において繰り返し「短絡」していくのがポイントの詩である。

元来、和合亮一の名において呼ばれることばたちは、意識的に構築される論理や身体的な基礎をもつ心情に「制御」されず、むしろスーパーフラットな平面を、時には知的な上昇/降下をことばが感じ、時には心情的「多動」を担い、二次元的でありながらほとんど「光学的」に三次元的な「自由」を謳歌するものであった、という印象を持つ。

今回「福島」からの彼の名において発信された詩は、今まで「詩人」たちの間でのみ評価されてきたその「動物的」ともいえる「自由な動き」を持つ「言葉」が、大震災という決定的な現実側の「出来事」によって詩人の身体を「福島」に「固着化」させることにより、詩人の脳みその中で「ことば」において常に生起していた「ショートサーキット」が、今回は「福島」と「世界」において起こった、のではないか。
そういう意味では、和合亮一の名を持つことばだからこそ、スーパーフラットな空間を世界の果てまで「滑走」していくことができたのに違いない


さてしかし、私にはそれは、詩人としての「愚かさ」という美質の、根本的に不適切な使い方ではないか、と見えてしまう。

むろんことばの使用に間違っているも正しいもあるはずはない。

けれど、不適切な使用というものはあり得るだろう。

和合亮一の詩が「動物的」で「愚か」であることはまちがいない。それはむしろその詩のたぐいまれな嫉妬すべき美質だ。

だが、「福島において生活し続けること」はそれほど動物的でも愚かでもありえないのではないか。

「福島」と「世界」を短絡させて結んでしまう彼の名前を冠された詩は、詩のことばに「力」
がある分んだけ、そのことによって「福島」の別の側面を隠蔽する言説の「権力的効果」を同時に保有してしまう危険がある。

福島の外部にいて、その福島と世界を短絡された詩を享受するヒトにとって、「心に響く」彼の詩は、逆にいえば「心に響きにくい葛藤」に届かないまま「いやされる」ことにつながってしまいかねないだろう。

そんな「相田みつを現象」的なことが詩人の守備範囲外なのは、はじめから分かっている。

でもね。

今「福島」においてもっとも必要なのは、かつて福島には手放しで「幸せ」があったかのようなインチキな言葉をばらまくことではなく、その福島こそがもっとも原発に協力してきた加害者「でもある」苦さを見つめつつ、どれだけの放射能を浴びながらここに踏みとどまるのか、というツラい選択を日々しつづけることなのではないか(たとえばの話、ね)。

そこから見ると、和合亮一の詩のことばの「使用」は不適切だと見えてしまう、ということだ。

福島を選択しつづけることも、福島から離れることも、どちらも私たちを引き裂く。それは、大災害や原発事故だけが、福島の人々を引き裂いた、のではないだろう。

もしそうであるなら、原発事故や大震災以前は何も問題がなかったかのような、そしてそれを失ってしまった不幸を嘆くような、センチメンタルなショートサーキットは、「福島」に瞳をひらかせることではなく、瞳を閉じことに終わってしまう。

それもまた、「愚か」で「動物的」である限りにおいてまれな「美質」を持つ和合亮一の詩のことばの守備範囲ではない、というのだろうか。

しかし、和合亮一の詩の言葉では、肝心な瞳を凝らすべきさまざまな「人為」によって生じた「裂け目」それ自体が回路短絡してしまい、見えなくなってしまっている。


だからこそ、あとはことばが「愛妾換馬」の身振りのように、スーパーフラットな平面をどこまでも流通していくことになる、ということになっていないか。

原発を容認してきた福島県民の「苦み」や「痛み」、ことばになりにくい「葛藤」はすくなくてもそこにはない。
だから、原発を容認してきた福島以外の(とくに首都圏)の人々も、この詩人のことばは
受け入れやすい。

しかし、サバルタンな、声にならない従属化した声に耳を澄まし、声を挙げることこそが、まずもって詩人の役割だったのではないか。
そうであるなら、繰り返すがたぐいまれなる「愚かさ」の美徳をもっていた彼の詩のことばが、不適切な使用をされているのではないか?

繰り返しになるが、私は和合亮一の詩に、ないものねだりをしている。それは彼の詩が抱える問題だけでは、おそらくないのだろう。

同じく彼を知る友人のコメントは

「市場が福島に詩人を欲望したのだ」

ということだった。なるほどね、と思った。

ただし、そういう点でいえば誰でもよかった、ということになってしまいかねない。
そうではない、というのは詩の読めない素人の私にも分かる。

和合亮一の詩のことばの美質があるからこそ、その「福島」という事件の現場に釘付けにされた詩人の「肉体」を伴って、はじめて「福島」は「世界」と出会った、ということなのだろう。

しかし、和合亮一という詩人自身がそのことばについてエクスキューズしているように、詩人の内部においてすでに狂気と理性の「裂け目」は「処理」されており、あとは時間軸を持たない「センサー」の役割に徹してことばが紡ぎ出されてくる。

一見彼の詩の言葉において「時間」に見えるモノも、それはあまりにナイーブな「音」や「映像」において表出されるにすぎない。

その出会わせ方だけでは世界を半分で生きることになりかねないよ、という危惧が、これを書かせている。世界を半分に縮減してしまった上での中心は、楕円の中心の一つでしかないのだから。

繰り返すが、和合亮一の詩に全てを求めるのは筋違いだ。

分かっている。

今は「小判鮫」のように注釈を加えることしかできないのは、あくまで私の「能力の欠如」であって、間違っても彼の詩の瑕瑾ではない。

だからこそ、岩に爪の跡を残すように、「読まれない」文章をこうして書いている(苦笑)。

しかし、彼の詩を賞揚する受け手は、注意深い「扱い」をすべきだ。「市場」として彼のことばを消費して終わってしまうのか、来るべき、そして未だ語られていない「声」の痕跡を、この詩人の言葉の彼方に、この詩人のことばの「意図」を超えて、感じようとするのか。

散文的=精神的なことばが福島から紡ぎ出されるまでには、今少し時間が必要だ、という当たり前のことなのかもしれないが。

「私たち」でもある私は、共感求め続けるだろう。

しかし、「わたしたち」ではない私は、粘り強くもう一つの楕円の中心を探し出そうとしつづけなければなるまい。