龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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福島から発信するということ(8)

2011年06月28日 20時38分07秒 | 大震災の中で
「ポスト3.11の公共哲学」の話(続)

少し付け加えておきたいことがある。
それぞれのパネラーは専門の分野のお話としては分かりやすくポイントを示してくれていた。

しかし、シンポジウムを聞きながら、この東大駒場で語られた言葉たちに私が「福島」的なるものを想定して声をかけるとすれば、

「この原発問題は実は国内における「植民地主義」の問題なのではないか」

になるな、とシンポジウムを聞きながらしだいに考えが収斂していったことを、正直に書いておくべきだろうと思う。

ことばにしたとたん、「サバルタンなんてかたかな使うな」と間髪を入れずニコ生からツッコミが入ったのには思わず笑ってしまったが。

最初は、NIMBY問題として語れるのかな、と思っていた。
ところが、議論は原発推進派の登壇がないまま、概ね「反原発」のムーブメントの方に流れていこうとする。

たしかに、ここで展開されている「知」の言説は、綺麗に整理することは卓越しているし、「不正義」であることを回避することには極めて敏感であり、そういう「良心」の担い手が知的に優れていることは私達にとってとても頼りになることではある。

でも、その二項対立は、沖縄の問題も解決できはしなかった。

このままではたぶん、福島の問題も「知的」に処理されてしまうのかな、と思うと、ちょっと「語ってみたくなった」わけである。

つまりは、福島が東京の「植民地」として存在する福島の原発地域に住む者たちは、「サバルタン」(サーバント的なるもの、ですね。とりあえずは従属的な立場にあって、みずからの言葉を持ち得ない場所に立つものを指し示すことばなんですけれど、概念としては単純に弱者だから声を上げられない、抑圧を解けば自由に語れる不幸な者、ということではありません。詳しくはスピヴァクを直接当たってくださいまし)と呼ばれる者と重ねて考えられるのではないか、という疑問が起こってきた、ということです。

語るべき言葉を幾重にも奪われている者は、「植民地」を支配する東京から発せられる言葉において(たとえそれが「正義」の言葉であっても「不正義」の言葉であっても)、逆にその立つべき場所を奪われてしまうのではないか、という危惧が高まってくるのを止められなかったのだ。

ニコ生で流れていたように「東大ヲワタ」とは思わない(当然です)。
しかし、その言葉たちが「正義」として語られている限り、届かない事象平面があって、それが「福島の今」なんじゃないかな、ということなのです。

私の主題の一つが逆に明らかになってきた瞬間でした。
頭の良い人たちの話を聞くと、その輪郭がクリアな分だけ、こちらの薄ぼんやりとした思考もまた輪郭を持って立ち上がってくるような気がします。
バカとばかり話しているとバカが感染ますからね(苦笑)。
バカを他人に感染(うつ)して満足するようなバカにだけはなりたくないです。
賢い頭脳を挑発するバカにはなりたいけれど。