龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
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國分功一郎・萱野稔人対談「スピノザの哲学」(3)

2011年06月30日 21時19分27秒 | 大震災の中で
朝日カルチャーセンター6/18のメモ(3)を
下記「メディア日記」にアップしました。
http://blog.foxydog.pepper.jp/?eid=980306

なぜ、何時の間にスピノザに惹かれるようになったのだろう。よく覚えていない。
デカルト的な無限遡及の懐疑ロジックっていうのは、割と「ぐるぐる大魔神」的には親しいものだった。
むろんデカルトは「懐疑のための懐疑」を肯定するためにそれを論じたわけではあるまい。自分の中の懐疑的ロジックを折伏(しゃくぶく)しようと格闘したように思う。
そうだとすれば、デカルトにとってこの説得すべき「他者」は、限りなく「懐疑的」ではあるけれど話の通じるリミットとしての他者、に他ならない。
半分自分の領域の、ね。

スピノザの書簡集を読んでいると、丁寧に一つ一つ相手に対応しているけれど、むしろスピノザはガチ「他者」と向き合ってるような気がしてくる。
そう、『エチカ』を買ったはいいけれど、どうにもならず途方に暮れているときに読んだ書簡集がヒットだったのです。
今思い出した。
國分氏の言でいえば
「説得しないスピノザ」
の魅力、だろう。


原因を遡及してその限りでの「正しさ」にたどり着くだけでは決定的に足りないのだ。
その場所に立ったとき、スピノザの言葉がようやく響きはじめる。
人生の後半を面白くしてくれた哲学者に感謝。

よろしかったら覗いてみてください。



福島から発信するということ(10)

2011年06月30日 15時01分12秒 | 大震災の中で
駒場で公共哲学のシンポジウムを聴いた日曜日の夕方た、散会したあと直ぐにキリスト教教会関係の方と、フランスの人に呼び止められた。
フランスの人といっても、フランスの大学の准教授をしている「日本人」の方とそのパートナーの「フランス人」の方だ。

むろん国籍は知りませんが。

そこで繰り出される「質問」が新鮮だったので、ここにメモしておく。

まず
「福島の人はなぜ逃げないのか?」
である。

福島の人を代表するつもりはないし、そんなことはしても意味はない。
意味もなく、頼まれもしないのに代表してしまうのは詩人だけでいいよね。

だから、つい口ごもる。

「放射能が危険だといわれても困るし、安全だ、と言われても腹が立つ。そ『間』にいて身動きとれない面があるのじゃないか」

なんて答えにならない答えを返すと

次の質問。

「じゃあ、あなたはどうして逃げないの?」

「いや、息子は一時期逃がしたんですけどね」

「今は?」

「今は家にいます」

「なぜ?」

「いや、線量は比較的低い場所ですから」

「なぜなかなあ。」

うむむ。けっこう困る。

「サバルタン」=奴隷的な心性に陥っているということですかねえ」

「ふむふむ、するとそれはそれは権力に抑圧されているということ?」
「うーん、権力といってもですね、誰かが強圧的に移住を阻止しているというわけではなくてね」

我ながらもうなんとも歯切れが悪い。
実際私は、なぜ福島にとどまっているのだろうか。

「職場が福島にありますから」
「アナタは教師の資格を持っているわけだから、場所を移動しても仕事にはつけるわよね?」
「ええ、まあ(そんなに簡単ではないと思うけどねえ。収入も減るし)。でも、80近い年寄りを二人抱えていますし」
「そうか」

「まあ、若いお子さんをお持ちの方はとにかく避難した方がいいと思うんですよ」

我ながら実にグダグダの、情けないやりとりだ。

「年寄りがいるから」
「若い人は逃げればいいのに」
およそ「本質的」な議論による理由の提示とはほど遠い、他人事によるなし崩しの福島「居留」ではないか?

自分が福島県内にとどまっているのは、この問答の文脈だけでいえば、論理性を欠いたぐだぐだ野郎そのものだなあ、と今こうやって再現していても思う。

逆に言えばおそらく、ここで「なぜ逃げないのか」と外部から提示された質問に答える形では、私の福島「居留」の理由は自分の中から出てこないのだ、とも言えるかもしれない。

駒場のキャンパスから反対側の駅前マックまでの道すがら、私は会話しつつずっとそのことを考えていた。



福島から発信するということ(9)

2011年06月30日 14時02分24秒 | 大震災の中で

開沼博『フクシマ」論(青土社)を読もう。
今朝の朝日新聞に高橋源一郎の
論壇時評が、掲載されていた。
労働者が横の連帯を失って個別化され、改めて垂直統合型の組織に編制されなおされていく戦後の流れが、原発事故によって改めて光を当てられている。
こういう時に頼りになるのは小説家だ。
平時には「普通の人」ちとっては変なモノを書く人、でしかない高橋源一郎さんだけれど。

そこで取り上げられていたのがこの本。

開沼博『フクシマ」論(青土社)

福島出身で、東大社会学の博士課程の人、と腰巻にある。
福島からの発信として、必読の本だ。
ぜひとも読んでみてほしい。

ポストコロニアルスタディーズの視点から、「地域」の抱える課題の困難さについて、フクシマ原発を対象として考察する、というもの。

地域のなかでは反対と賛成は容易に反転してしまう、ということ。
地域のため、という立場は、「麻薬的に」中央からの補助金ドーピングで身動きとれなくなる、ということ。
その結果、私たちは地方と中央という二元論では見えないところにたどりついてしまった、ということ。
見えないところからは、声を発することもできなくなる、ということ。

いわば植民地と宗主国の関係のように、地域は自前の言葉を持たない二流の市民であることて、都会=「宗主国」にあこがれ続けるようになる、ということ、などなど。

スピヴァクのいう「サバルタン」なありようが、丁寧に分析されている。
こういう発信が福島からなされ、おそらく日本の、日本人の地域問題の基盤となるテキストの一つになっていくことを、私たちは、現実の不幸と同時に、あえて祝福すべきだ、と考える。

社会学はもはや「信憑」の問題ではなく「現実」になっちまったんだな、と、上野千鶴子の腰巻惹句を読みながらしばし、感慨にふけってしまった。

文章は、そんなにグイグイ文体で読ませるようなタイプではありません。むしろ、じっくりつきあうタイプの文章です。

でもやっぱり今の時点での必読書じゃないかな。

圧倒的にお勧めです。