朝日カルチャーセンター6/18のメモ(3)を
下記「メディア日記」にアップしました。
http://blog.foxydog.pepper.jp/?eid=980306
なぜ、何時の間にスピノザに惹かれるようになったのだろう。よく覚えていない。
デカルト的な無限遡及の懐疑ロジックっていうのは、割と「ぐるぐる大魔神」的には親しいものだった。
むろんデカルトは「懐疑のための懐疑」を肯定するためにそれを論じたわけではあるまい。自分の中の懐疑的ロジックを折伏(しゃくぶく)しようと格闘したように思う。
そうだとすれば、デカルトにとってこの説得すべき「他者」は、限りなく「懐疑的」ではあるけれど話の通じるリミットとしての他者、に他ならない。
半分自分の領域の、ね。
スピノザの書簡集を読んでいると、丁寧に一つ一つ相手に対応しているけれど、むしろスピノザはガチ「他者」と向き合ってるような気がしてくる。
そう、『エチカ』を買ったはいいけれど、どうにもならず途方に暮れているときに読んだ書簡集がヒットだったのです。
今思い出した。
國分氏の言でいえば
「説得しないスピノザ」
の魅力、だろう。
原因を遡及してその限りでの「正しさ」にたどり着くだけでは決定的に足りないのだ。
その場所に立ったとき、スピノザの言葉がようやく響きはじめる。
人生の後半を面白くしてくれた哲学者に感謝。
よろしかったら覗いてみてください。
下記「メディア日記」にアップしました。
http://blog.foxydog.pepper.jp/?eid=980306
なぜ、何時の間にスピノザに惹かれるようになったのだろう。よく覚えていない。
デカルト的な無限遡及の懐疑ロジックっていうのは、割と「ぐるぐる大魔神」的には親しいものだった。
むろんデカルトは「懐疑のための懐疑」を肯定するためにそれを論じたわけではあるまい。自分の中の懐疑的ロジックを折伏(しゃくぶく)しようと格闘したように思う。
そうだとすれば、デカルトにとってこの説得すべき「他者」は、限りなく「懐疑的」ではあるけれど話の通じるリミットとしての他者、に他ならない。
半分自分の領域の、ね。
スピノザの書簡集を読んでいると、丁寧に一つ一つ相手に対応しているけれど、むしろスピノザはガチ「他者」と向き合ってるような気がしてくる。
そう、『エチカ』を買ったはいいけれど、どうにもならず途方に暮れているときに読んだ書簡集がヒットだったのです。
今思い出した。
國分氏の言でいえば
「説得しないスピノザ」
の魅力、だろう。
原因を遡及してその限りでの「正しさ」にたどり着くだけでは決定的に足りないのだ。
その場所に立ったとき、スピノザの言葉がようやく響きはじめる。
人生の後半を面白くしてくれた哲学者に感謝。
よろしかったら覗いてみてください。