あった方がいいものと、どうしても必要不可欠な「最低限度の文化的生活」を支えるインフラとは、そろそろ本気で区別しよう。
自然の恵み、というけれど、今や農業も漁業も、電力と放射能で深く結びついてしまった。
いわゆる「自然の恵み」はいよいよ「社会的インフラ」のコストにおいて明示的に語られるべき事柄に算入されてしまいました。
まことに残念ながら。
でも、現代の生活っていうのは、そういう「人為」の中で繰り広げられるものなのだろう。一見「自然」と見えるものであっても。
であるなら、原発事故を「絶好の危機」(最悪の危機でもなければ絶好のチャンスでもなく、ね)として、私達は、何が本当に不可欠なのか、何がオプションとして必要なのか、それぞれの視点から優先順位をつけつつ、各自が「状況定義」をし直していくべきところに立っている、と考えたい。
私は、水道・電気は時々止まる程度までは「あり」だと思う。
止まる日時と期間が分かっていれば、生活としてはなんとかなるんじゃないかな。
もちろんそのために支払うコストはそれなりに必要になるかもしれない。
産業によっては電気の質が悪くなると困るってことはあるらしい。
でもさ、そういのは実は中期的には対応可能だよね、どう考えても。
ピーク時の電力ダウンを避けるために原発維持っていうのは、現実に起こっている「福島」の現実の大変さを考えれば、重要度は低いなあ。
あとは安全な農水産物の安定的供給。近海物の魚と地物のお米や野菜や果物が安心して継続的に食せること。
日本の国土の安全性を質(しち)に入れてまで経済成長を図る、というのは、愛郷精神からいうと、×ですねえ。
石原幹事長の、イタリアの脱原発国民投票の結果は「集団ヒステリー」だっていうコメントは、パターナリズム的に「心情はわかる」と「理解」しているところがかなり「ダメ」だと私は感じます。
そうじゃなくて、本当に何が大切でどういう優先順位があって、だから短期的にはこう、中期的にはこれ、長期的にはここを目指す、と、政治家なら今こそ、踏みとどまってもう少し柄の大きなフィクションを立ててほしい。
それはパターナリズムとは対極の姿勢になると思うけどなあ。
ただね、今の「中央集権的政治言説」自体の制度疲労的限界もあるんだと思う。
マスコミも中央政府も、垂直統合型の近代システムが洗練された極致みたいなところがある。
事件の現場、ここでは「福島」と、中央政府や東京のマスコミとの乖離というかズレというか、北関東と東北のはざまにある「いわき」にいると、それをつくづく改めて感じます。
じゃあ、どうするか、といえば、私個人にできることは限られている。
私にとってそれは哲学を続けることだ。哲学者じゃねえけど(笑)。
誰かが昨日Twitterでリツイートしていたように思う(たぶん國分功一郎氏)けれど、
「哲学とは郷愁である。どんなところにいても、家に居るようにいたいと願う一衝動である」(ノヴァーリス)
これ、わかるなあ。
バシュラールがたしか
「家とは人間をより確固とした存在にする」
って『空間の詩学』でいってたように思うけれど、私の中ではそれがようやく繋がりつつあります。
その「家」というか「郷愁」の対象である「郷」の「福島」が今、戻ることの出来ない「新たな世界」に「転送」されちまったわけですから、生き延びるための武器は絶対に今は「経済」じゃなくて「哲学」。
そう感じています。
自然の恵み、というけれど、今や農業も漁業も、電力と放射能で深く結びついてしまった。
いわゆる「自然の恵み」はいよいよ「社会的インフラ」のコストにおいて明示的に語られるべき事柄に算入されてしまいました。
まことに残念ながら。
でも、現代の生活っていうのは、そういう「人為」の中で繰り広げられるものなのだろう。一見「自然」と見えるものであっても。
であるなら、原発事故を「絶好の危機」(最悪の危機でもなければ絶好のチャンスでもなく、ね)として、私達は、何が本当に不可欠なのか、何がオプションとして必要なのか、それぞれの視点から優先順位をつけつつ、各自が「状況定義」をし直していくべきところに立っている、と考えたい。
私は、水道・電気は時々止まる程度までは「あり」だと思う。
止まる日時と期間が分かっていれば、生活としてはなんとかなるんじゃないかな。
もちろんそのために支払うコストはそれなりに必要になるかもしれない。
産業によっては電気の質が悪くなると困るってことはあるらしい。
でもさ、そういのは実は中期的には対応可能だよね、どう考えても。
ピーク時の電力ダウンを避けるために原発維持っていうのは、現実に起こっている「福島」の現実の大変さを考えれば、重要度は低いなあ。
あとは安全な農水産物の安定的供給。近海物の魚と地物のお米や野菜や果物が安心して継続的に食せること。
日本の国土の安全性を質(しち)に入れてまで経済成長を図る、というのは、愛郷精神からいうと、×ですねえ。
石原幹事長の、イタリアの脱原発国民投票の結果は「集団ヒステリー」だっていうコメントは、パターナリズム的に「心情はわかる」と「理解」しているところがかなり「ダメ」だと私は感じます。
そうじゃなくて、本当に何が大切でどういう優先順位があって、だから短期的にはこう、中期的にはこれ、長期的にはここを目指す、と、政治家なら今こそ、踏みとどまってもう少し柄の大きなフィクションを立ててほしい。
それはパターナリズムとは対極の姿勢になると思うけどなあ。
ただね、今の「中央集権的政治言説」自体の制度疲労的限界もあるんだと思う。
マスコミも中央政府も、垂直統合型の近代システムが洗練された極致みたいなところがある。
事件の現場、ここでは「福島」と、中央政府や東京のマスコミとの乖離というかズレというか、北関東と東北のはざまにある「いわき」にいると、それをつくづく改めて感じます。
じゃあ、どうするか、といえば、私個人にできることは限られている。
私にとってそれは哲学を続けることだ。哲学者じゃねえけど(笑)。
誰かが昨日Twitterでリツイートしていたように思う(たぶん國分功一郎氏)けれど、
「哲学とは郷愁である。どんなところにいても、家に居るようにいたいと願う一衝動である」(ノヴァーリス)
これ、わかるなあ。
バシュラールがたしか
「家とは人間をより確固とした存在にする」
って『空間の詩学』でいってたように思うけれど、私の中ではそれがようやく繋がりつつあります。
その「家」というか「郷愁」の対象である「郷」の「福島」が今、戻ることの出来ない「新たな世界」に「転送」されちまったわけですから、生き延びるための武器は絶対に今は「経済」じゃなくて「哲学」。
そう感じています。