龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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震災以後を生きる(11)

2011年06月15日 03時17分49秒 | 大震災の中で
あった方がいいものと、どうしても必要不可欠な「最低限度の文化的生活」を支えるインフラとは、そろそろ本気で区別しよう。

自然の恵み、というけれど、今や農業も漁業も、電力と放射能で深く結びついてしまった。
いわゆる「自然の恵み」はいよいよ「社会的インフラ」のコストにおいて明示的に語られるべき事柄に算入されてしまいました。

まことに残念ながら。
でも、現代の生活っていうのは、そういう「人為」の中で繰り広げられるものなのだろう。一見「自然」と見えるものであっても。

であるなら、原発事故を「絶好の危機」(最悪の危機でもなければ絶好のチャンスでもなく、ね)として、私達は、何が本当に不可欠なのか、何がオプションとして必要なのか、それぞれの視点から優先順位をつけつつ、各自が「状況定義」をし直していくべきところに立っている、と考えたい。

私は、水道・電気は時々止まる程度までは「あり」だと思う。
止まる日時と期間が分かっていれば、生活としてはなんとかなるんじゃないかな。

もちろんそのために支払うコストはそれなりに必要になるかもしれない。
産業によっては電気の質が悪くなると困るってことはあるらしい。

でもさ、そういのは実は中期的には対応可能だよね、どう考えても。
ピーク時の電力ダウンを避けるために原発維持っていうのは、現実に起こっている「福島」の現実の大変さを考えれば、重要度は低いなあ。

あとは安全な農水産物の安定的供給。近海物の魚と地物のお米や野菜や果物が安心して継続的に食せること。

日本の国土の安全性を質(しち)に入れてまで経済成長を図る、というのは、愛郷精神からいうと、×ですねえ。

石原幹事長の、イタリアの脱原発国民投票の結果は「集団ヒステリー」だっていうコメントは、パターナリズム的に「心情はわかる」と「理解」しているところがかなり「ダメ」だと私は感じます。

そうじゃなくて、本当に何が大切でどういう優先順位があって、だから短期的にはこう、中期的にはこれ、長期的にはここを目指す、と、政治家なら今こそ、踏みとどまってもう少し柄の大きなフィクションを立ててほしい。

それはパターナリズムとは対極の姿勢になると思うけどなあ。

ただね、今の「中央集権的政治言説」自体の制度疲労的限界もあるんだと思う。
マスコミも中央政府も、垂直統合型の近代システムが洗練された極致みたいなところがある。

事件の現場、ここでは「福島」と、中央政府や東京のマスコミとの乖離というかズレというか、北関東と東北のはざまにある「いわき」にいると、それをつくづく改めて感じます。

じゃあ、どうするか、といえば、私個人にできることは限られている。
私にとってそれは哲学を続けることだ。哲学者じゃねえけど(笑)。

誰かが昨日Twitterでリツイートしていたように思う(たぶん國分功一郎氏)けれど、

「哲学とは郷愁である。どんなところにいても、家に居るようにいたいと願う一衝動である」(ノヴァーリス)

これ、わかるなあ。
バシュラールがたしか
「家とは人間をより確固とした存在にする」
って『空間の詩学』でいってたように思うけれど、私の中ではそれがようやく繋がりつつあります。

その「家」というか「郷愁」の対象である「郷」の「福島」が今、戻ることの出来ない「新たな世界」に「転送」されちまったわけですから、生き延びるための武器は絶対に今は「経済」じゃなくて「哲学」。

そう感じています。



震災以後を生きる(10)

2011年06月15日 02時54分33秒 | 大震災の中で
近海のいわしやサンマと地物の菜っ葉とご飯があれば、なんとか生きていける、と思っていた。
高度経済成長期も、オイルショックのときも、安定成長期と呼ばれたときも、バブル期だって、あるいはバブル崩壊後も、失われた10年(20年?)と呼ばれた時期であっても、それは代わらなかった。

みんながそう考えていたとは思わない。
極めて個人的な感想だ。

コタツを「作る」ために、あるいはご飯を作るために炭で火を熾し、お風呂を焚く前に薪割りを、していた子どもの頃、冷蔵庫もガスも水洗トイレも無かった。

そのころのことを考えれば、たいていのことはどうってことはない。
ずっとそう思っていた。

しかし、海の魚が食べられない。地物の野菜が食えない。
原発事故は、福島県にそういう現実をつきつけている。

イタリアの国民投票が示した脱原発を、自民党の石原幹事長は「集団ヒステリー」と評したとか。
http://news.tbs.co.jp/20110614/newseye/tbs_newseye4751167.html

でもね。
上記の私のような考え方に立つと、

石原幹事長のように、今なお原子力発電所の電力が必要だっていうことは、この基本的な生活の基盤(いざとなったら自然の恵みで生きていけるよという安心感)を、借金の質に入れてまで現在の「豊かさ」を持続させようという方向性に見えてしまう。

もちろん、そちらを選びたいヒトが日本人の中にもいることは分かる。
「産業が衰退して、日本が貧乏になる、失業者が増える」
という危機感もあるんだろうな、とは思う。

そういう危機感を、私のような考え方から逆に「ヒステリー」と言ってしまっては、たぶん「政治」にとっては思うつぼ、なのかもしれない。

福島では、脱原発は単なるヒステリーではなく、冷静に考慮すべき現実です。

石原幹事長の発言は、悪いけれど、

 「福島」のヒトの気持ちは分かるけど現実は別。
 イタリアのヒトの気持ちは分かるけれど、現実は別。

と、「気持ち」と「現実」を一所懸命切り分けようとする欲望に支えられている言説、と見受けられる。

近海の魚と、地物の野菜が食べられなくなっちゃう危険は、日本にとっては経済的損失よりも、大きいと思うんだけどなあ。
都会の発想は違うのかしら(笑)。
いざとなったら福島の産品は買わなければ済む、ってこと?
イタリアから輸入してもいいのか?
うむ。

福島では雇用問題が深刻化しはじめています。
原発のおかげで支えられている雇用と、そのために失った雇用と、どちらが大きいと思いますか?
それも福島という例外的局所的事象、ということで丸められていくのかな……。

つまりさ、ディベートでよく使われる主張の型の一つだけれど、
「起こる可能性は低いが、一端起こったら被害は甚大だ」
ってのが、こういう原発プラント反対側立論の定番。
それが実際起こっちゃったわけですから。

広島・長崎の軍事的被害

福島の平和利用的被害

(           )

上記のカッコに入るのが、いったい何かってことですよねえ。

1,原発の早期再立ち上げと安全運用による経済復興
2,早期脱原発による、エネルギー政策の転換
3,どうでもいいからうまくやってよ
4,経済政策、エネルギー政策に止まらず、日本のあり方について考え直す

私はイワシとかサンマとかと地物の野菜や果物と共に生きたいなあ。
このまま原発事故が収束して、地表の線量逓減化が実現すれば、福島が当たり前に持っていた「豊かさ」を、いつか回復できるのではないか、と望みを持っています。
それは、既存の原発を一刻も早く立ち上げようという方向性とは明らかに異なります。

経済発展は、走り続けなければ成り立たない。
それも分かります。
いったん降りたら、もう戻れないみたいに思うのも分かります。

でも、逆にね、福島県の農水産物という自然の恵みを享受する道から、強制的に下ろされてしまったのです。一端「降りたら」、戻るのは本当に大変なのですね。経済的な「暴走特急」(3/11以後の福島から見ると、そうも見えてきます)から降りるのも勇気が必要かもしれないけれど、それは同時に、福島のような場所をさらに、未来に準備する道、でもある。

「過ちは繰り返しませぬから」

という「倫理的な要請」が、経済発展を続けるためにさえ、いな、むしろ経済発展を私達が支えていくためこそ、必要なのではないでしょうか。
ブレーキのない暴走特急には乗れないということです。
だからといって、全員ただちに特急列車から飛び降りるわけにはそりゃいかねえだろうさ。
突き落とされた福島の住民から見ても、そりゃちょっと無理っぽい。
だから、ここは、もし、持続的に経済発展とか考えるんだったら、むしろ踏みとどまって、考えた方がいいと思う。

政治と企業と官僚と学者とその中にいる労働者
に任せて、そこから下りてくる「お上の声」を、「パターナリズム」的に受け取って「いいなり」になる

のではなく、多少「国」が貧乏になっても、トータルで「豊かさ」をきちんと議論した方がいいんじゃないかな。

報道の側や学者さんの側、政治家や企業も、原発事故が大変だとか、逆に原発再稼働しないと何兆円の経済成長が損なわれるとか、その場のことだけを断片的正しさで報道するだけでなく、私達が判断し、選択できるだけの情報量とシミュレーションを提示してほしい。

平時なら、官僚のコントロールに任せて、日の丸企業の元気に頼っていれば良かったかも知れない。
でも、今は平常の時、でもなさそうだし、個人個人のさまざまな力を伸ばす、絶好の「危機」にしたいなあ。

私は、近海の魚と地物の野菜や果物が安心して食べられる生活ができるなら、「かなりの程度」貧乏になっても、その方がいいと思う。

最初から停電する時間帯さえ分かれば、計画停電だって全然オッケーだし。

そうそう、思い出したけれど、昭和30年代、私が子どもの頃は、断水と停電なんて、日常茶飯事だったんだ。