こんな風に考えるのは、入院先で寝たきりになった父親が、どんどん見当識を失って行くのを、大震災と同時進行で目の当たりにしたことが大きいのかもしれない。
彼は最後まで「家に帰りたい」と言い続けていた。
無論病人はふつう誰でもそういうものなのかもしれない。私は別荘気分で結構楽しかった記憶があるが、それはあくまで帰る場所があったから、なのだろう。
ともあれ、彼はもはやもとても帰宅できる状態ではなかった。そのとき帰りたいと語り出される「家」は、彼の、失われていく記憶の海原の中に時折現れる幽霊船のようなものにすぎない。
かれが人生の最後の何週間か参照していたのは、もはや彼の未来にとっては存在しない、しかし過去の記憶の中でもっとも大切な「家」である。
震災以前に存在していて震災後には決定的に失われたものの「記憶」を考えるとき、私にとって、この父親の最後を看取るときの体験と震災とが、強くシンクロし続けている。
それは、失われたモノは戻らないという喪失体験を隠蔽し、回復可能な傷であるかのように捉えなおして適応しようとする心の中の「勢力」と、忠犬ハチ公的に失われたモノをいじらしくも待ち続ける身体の中の「姿勢」と、二つの身振りを同時に拒否しようとする強い反発の核にもなっているようである。
死を迎えようとする病人にとっては、病院は二度と生きて出ることのできない最終的な収容の施設だ。
症状が進行してしまっている以上、家にはもう帰れない。
しかし、震災後に、病院閉鎖の危機が迫ったとき(結果としては最後まで医師に看取ってもらうことができて幸運だったのだが)、
「今、物資が全く届いていません。看護士さんの通勤のガソリンも確保できません。もし万一病院が閉鎖になったら、お父さまの今の状態では避難することもむずかしいでしょう。退院するということになれば、後はご自宅で、ということになりますが、そうなれば最後を看取ることはできなくなってしまいます」
というアナウンスを受けたとき、
「ああ、そうなんだ、彼は病院でなんとか生かされているんだな。そして私たちも」
と改めてしみじみ感じたのだ。
父がたまたま最期の時を、被災した病院の中で迎えた、というだけのことかもしれない。
そして私はたまたま彼を病室で看護しながらあの3/11を迎えただけのこと、なのかもしれない。
偶然と言えば偶然にすぎない。
しかし、私はそのときそこに、神さまなき身の上ではあるけれども、死と向き合う父親と、大きな崩壊をもたらす大震災と、その後に起こった原発事故との三つの出来事によって、まちがいなく「生かされている」という感覚、いわば聖なる痛みの刻印を受けたのだと思う。
その「場所」から見ると、「災害復興」を早く行うこと、というだけの方向性は、まるで原発をもう一度作ろうとでもしているかのような違和感を抱くのだ。
津波の被災地である海沿いの集落をまた敢えてそこに作るかどうか、あるいは放射能汚染を受けて避難した地域の人々は、一刻も早くそこにもどるべきものなのかどうか。
もちろん答えは簡単には出ない。
人為の側だけの地図を参照しただけでは、簡単には答えのでない種類のことだと気づかされてしまったのだ。
それは過去の津波を参照しろ、というレベルの科学的な話ではなくてね。
もちろん回復したい思いは痛いほど分かる。
欲しいのは特別なことではない。きっと、何の落ち度もなく暮らしていたあの日常をもう一度戻してほしいだけなのだ。
しかし、それはいくら正当なものであり、心情的には共鳴できるものではあっても、失われた過去の記憶に向けられた見終わらない夢であることもたしかなのではないか。
私は、あるいは穏当を欠いたことを書いているのかもしれない。
しかし、たとえ原発から20キロ圏の立ち入り禁止が解除され生活が再開されたとして、それが農業と漁業の旧態を回復することになるとは到底思えない。
長期的には分からないけれど、帰る場所が予め失われた「避難」、と考えるのが妥当だろう。
「もう一度」
と言う前に、収容施設に過ぎない避難所をなんとかしてほしい。帰る場所を失ったヒトを支え得る「生きる基盤」とは、どういうことなのか、どうかみんな知恵を絞って考えてください。
避難所、あれは一週間か二週間が限度です。
待って1カ月。
私たちが憲法で保障された健康で文化的な最低限度の生活以下だ、ということを、真剣に考えてほしい。
復興予算の捻出問題とか、法案成立とかいうレベルじゃないとおもいます。
失われた記憶なんぞにお金をかけるのは、実は復興とか言いながら、金を回せる奴らの発想だし、政治の発想に過ぎない、と、私は感じる。
失われたモノを慕う忠犬ハチ公的心情につけ込んで、復興を旗印に仕事をしようとする人たちと、新たな生への促しを支援することは、切り分けるべきではないか。
難しいのは分かる。
援助するがわはその区別はなかなかつかないかもしれない。
そして、短期的には援助の徹底が必要だ。現場の「難」を逃れた人を手当しないでどうする、ってことだ。
でも、それだけではいずれ立ち行かなくなる。
でも、持続的な支援は、経済的にも、環境的にも、文化的にも「回し続けられるもの」でなければならない。
では一体被災者は、これから何を参照しつつ「新たな生」を立ち上げていけばよいのか。
どう考えても「前と同じ」のはずはない。
また、関西まで逃げればよいと言われてもできない。受け入れるよ、と言われれば、ありがたいけどやっぱり無理だと思う。
繰り返しの再現前ではない、この土地における、差異を孕んだ反復。
生物的反応でもなく、動物的学習と反復でもなく、人間が作り上げた時間と空間の認識上に展開されてきた「人為」的世界像の再生・修復でもなく、できることを(場合によってはその場しのぎにみえるようなことであっても)、この場所で考え続け、行動し続けて生くにはどうすればいいのか。
相変わらず答えは風の中、か。
彼は最後まで「家に帰りたい」と言い続けていた。
無論病人はふつう誰でもそういうものなのかもしれない。私は別荘気分で結構楽しかった記憶があるが、それはあくまで帰る場所があったから、なのだろう。
ともあれ、彼はもはやもとても帰宅できる状態ではなかった。そのとき帰りたいと語り出される「家」は、彼の、失われていく記憶の海原の中に時折現れる幽霊船のようなものにすぎない。
かれが人生の最後の何週間か参照していたのは、もはや彼の未来にとっては存在しない、しかし過去の記憶の中でもっとも大切な「家」である。
震災以前に存在していて震災後には決定的に失われたものの「記憶」を考えるとき、私にとって、この父親の最後を看取るときの体験と震災とが、強くシンクロし続けている。
それは、失われたモノは戻らないという喪失体験を隠蔽し、回復可能な傷であるかのように捉えなおして適応しようとする心の中の「勢力」と、忠犬ハチ公的に失われたモノをいじらしくも待ち続ける身体の中の「姿勢」と、二つの身振りを同時に拒否しようとする強い反発の核にもなっているようである。
死を迎えようとする病人にとっては、病院は二度と生きて出ることのできない最終的な収容の施設だ。
症状が進行してしまっている以上、家にはもう帰れない。
しかし、震災後に、病院閉鎖の危機が迫ったとき(結果としては最後まで医師に看取ってもらうことができて幸運だったのだが)、
「今、物資が全く届いていません。看護士さんの通勤のガソリンも確保できません。もし万一病院が閉鎖になったら、お父さまの今の状態では避難することもむずかしいでしょう。退院するということになれば、後はご自宅で、ということになりますが、そうなれば最後を看取ることはできなくなってしまいます」
というアナウンスを受けたとき、
「ああ、そうなんだ、彼は病院でなんとか生かされているんだな。そして私たちも」
と改めてしみじみ感じたのだ。
父がたまたま最期の時を、被災した病院の中で迎えた、というだけのことかもしれない。
そして私はたまたま彼を病室で看護しながらあの3/11を迎えただけのこと、なのかもしれない。
偶然と言えば偶然にすぎない。
しかし、私はそのときそこに、神さまなき身の上ではあるけれども、死と向き合う父親と、大きな崩壊をもたらす大震災と、その後に起こった原発事故との三つの出来事によって、まちがいなく「生かされている」という感覚、いわば聖なる痛みの刻印を受けたのだと思う。
その「場所」から見ると、「災害復興」を早く行うこと、というだけの方向性は、まるで原発をもう一度作ろうとでもしているかのような違和感を抱くのだ。
津波の被災地である海沿いの集落をまた敢えてそこに作るかどうか、あるいは放射能汚染を受けて避難した地域の人々は、一刻も早くそこにもどるべきものなのかどうか。
もちろん答えは簡単には出ない。
人為の側だけの地図を参照しただけでは、簡単には答えのでない種類のことだと気づかされてしまったのだ。
それは過去の津波を参照しろ、というレベルの科学的な話ではなくてね。
もちろん回復したい思いは痛いほど分かる。
欲しいのは特別なことではない。きっと、何の落ち度もなく暮らしていたあの日常をもう一度戻してほしいだけなのだ。
しかし、それはいくら正当なものであり、心情的には共鳴できるものではあっても、失われた過去の記憶に向けられた見終わらない夢であることもたしかなのではないか。
私は、あるいは穏当を欠いたことを書いているのかもしれない。
しかし、たとえ原発から20キロ圏の立ち入り禁止が解除され生活が再開されたとして、それが農業と漁業の旧態を回復することになるとは到底思えない。
長期的には分からないけれど、帰る場所が予め失われた「避難」、と考えるのが妥当だろう。
「もう一度」
と言う前に、収容施設に過ぎない避難所をなんとかしてほしい。帰る場所を失ったヒトを支え得る「生きる基盤」とは、どういうことなのか、どうかみんな知恵を絞って考えてください。
避難所、あれは一週間か二週間が限度です。
待って1カ月。
私たちが憲法で保障された健康で文化的な最低限度の生活以下だ、ということを、真剣に考えてほしい。
復興予算の捻出問題とか、法案成立とかいうレベルじゃないとおもいます。
失われた記憶なんぞにお金をかけるのは、実は復興とか言いながら、金を回せる奴らの発想だし、政治の発想に過ぎない、と、私は感じる。
失われたモノを慕う忠犬ハチ公的心情につけ込んで、復興を旗印に仕事をしようとする人たちと、新たな生への促しを支援することは、切り分けるべきではないか。
難しいのは分かる。
援助するがわはその区別はなかなかつかないかもしれない。
そして、短期的には援助の徹底が必要だ。現場の「難」を逃れた人を手当しないでどうする、ってことだ。
でも、それだけではいずれ立ち行かなくなる。
でも、持続的な支援は、経済的にも、環境的にも、文化的にも「回し続けられるもの」でなければならない。
では一体被災者は、これから何を参照しつつ「新たな生」を立ち上げていけばよいのか。
どう考えても「前と同じ」のはずはない。
また、関西まで逃げればよいと言われてもできない。受け入れるよ、と言われれば、ありがたいけどやっぱり無理だと思う。
繰り返しの再現前ではない、この土地における、差異を孕んだ反復。
生物的反応でもなく、動物的学習と反復でもなく、人間が作り上げた時間と空間の認識上に展開されてきた「人為」的世界像の再生・修復でもなく、できることを(場合によってはその場しのぎにみえるようなことであっても)、この場所で考え続け、行動し続けて生くにはどうすればいいのか。
相変わらず答えは風の中、か。