龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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震災以後を生きる(13)

2011年06月24日 01時53分24秒 | 大震災の中で
USTで千葉雅也氏の「小人群居的モナドロジー」における啓蒙の可能性の講義を観て思ったことなど。

(12)で書いたように、全てを自覚的に受け止め、日々改めてマネージメントしていかなければならないのは、本当に疲れます。

でも、正直に言ってしまうと何が一番疲れるかと言えば、どこかで震災前の「普通」を墨守しようとしている身振りの「すっとこどっこいさ」が一番しんどい。

まあしょうがないんだけどね、お役所仕事的世界観はいつになっても「平時」の法律で動くしかない。
でも、今日のTV朝日の夜のニュースショーでやっていた話はさらにやれやれだった。
東電が検討している汚染水漏洩阻止の工事に1000億以上かかるから、株主総会対策のために、その計画には緊急性はない、と対マスコミ想定問答集で答えることになっていたのだという。
そういう話を見聞きすると、あらあら、事件の第一当事者も、震災以前の「文脈」を墨守しているんだなあ、と「すっとこどっこい」仲間がここにもいることに気づかされる。

そしてうんざりする。

「平時」の通りに物事を進めるわけにはいかない。なにせ「非常時」なんだからね(苦笑)。
他方、「非常時なんだから」と妙にテンションの上がった自分にも嫌気がさす。

雑誌を見ると、
たとえば『現代思想』はなんで原発なんぞを稼働させてるんだ!的論調一色。
他方、立ち読みした「SAPIO!」?とかいう雑誌は、なんで原発止めろなんて言うんだ!的論調満載。

しかし、汚染水オーバーフローに至っていない現状でさえ、福島は半減期の長いセシウムと長いお付き合いをしていかねばならない。
これ以上の危険は可能な限り回避してほしいと思う。
これは電力消費量の問題でもなく、ライフスタイルのレベルの問題でもなく、危機管理の政治論でもない。
この世に生きていくという「存在論」のレベルの話、つまりは哲学の範疇なんじゃないかな。
少なくても私はそう考えて、自分がいつかその「哲学」にたどり着くために、取り散らかした言説ではあっても、自戒=自壊を込めてこのブログの「棚」に言葉をさらしつづけている。

さてでも、単純に「稼働/停止」のいずれかを選択すればいいってわけにもいかなそう。

どっちかっていえば無論福島の民としては「脱原発」に決まってるんですけどね。
そう単純にどちらかをカードゲームのように切り札として決定するわけにはいかない。

小泉純一郎の郵政民営化解散のように、あれってなんだったんだ?的思考停止を招来する危険だってあるわけだしねぇ。

さて、そうであってみれば、「平穏な日常」を懐かしみ、そこに回帰していこうとするのはかえってハイリスクなのではないか、と「哲学的本能」というか、はぐれ者的な嗅覚は、危険信号を発し始めている。

話はずれるが、今夜USTで千葉雅也氏が博士論文のドゥルーズ論のキモについて「講義」しているのをたまたま視聴することができた。

カントの「啓蒙について」について論じたフーコーの指摘を、ここ2週間ぐらい舌の中で転がしている。

そんな自分にとっては、よく分からないながら、千葉さんのいう「小人群居してモナドロジー」(徹底的にすっとこどっこいな他者がひしめきあう身も蓋もない分離的な状態)を前提として、なおもそこに「啓蒙」はア・ポステオリに構築できるのか、って話が、心に響く。

ドゥルーズ論のキモとしてどうなのか、なんて素人の私に分かるわけはないが、極めて興味深い。
今、ここで「社会」についてだか「存在」についてだかぐだぐだ考えて行くときに、安易に「共同体」を前提とせずに、啓蒙とか教育とか果たして考えられるのか?

というポイントは、ぎりぎりなぜ震災後の不安定な生活を綱渡りしてまで生きているのか、という「今」ここの切実な主題と強く響いている。

國分功一郎氏の提示する「スピノザ」の「説得の弱さ」にも通じる課題だと思う。

自分もまたいくつかの「すっとこどっこい」なキャラを内に抱える小人としては、現代思想であってもSAPIOであっても、パターナリズム=「父」の提示する象徴的な秩序の抑圧と向き合いつつ、それでも「裂け目」を抱えて生きる自分を日々実感している。

「裂け目」という表現は、既にして同一性を前提としている議論の補助線になってしまっているだろうか?

そうも思いつつ、しかし「人為の裂け目」ということばの感じは、「内部被曝の危険性を感じつつ生きる」今、自分の信じていた同一性が引き裂かれて、気がついたらそこに放射性物質が既にセットされてしまっている、という現状によくフィットしている、とも思うのです。

そういう意味ではやはり「聖痕」に近いものが私達の中に折りたたまれている。
それは、異和を生きるということだろう。

違和感なら「父」の名を借りて排除・抑圧すれば解消可能かも知れない。

でももはや私は、私自身との間においてさえ、「異」なるものと共に生きざるを得ないのです。

パターナリズムを決定的に受け付けないのは、そこ、かな。

説得し、秩序に回収しようとする抑圧によってではなく、「今」を、そして「現実」を照らしていくこと。

もちろん、事件の現場に立ち続けるのは、「そのつもりになってしまう」危険をはらむ、という意味で、けっこう難しいことなのかもしれないけれど、ね。