龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
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福島から発信すると言うこと(29)

2011年08月17日 14時32分04秒 | 大震災の中で
「考えるネコ 走るイヌ」
http://plaza.rakuten.co.jp/gato814/
のことを書いた。

ブログは、自動でTwitterとFacebookにも流れるように設定してあるのだが、
Facebookの方友人からコメントがあった。

「最近ますます相反する2つのものの間で今自分が何をしたいのか、これから何をすればいいのか全く分かりません…」

と書いてあった。

福島に住むことは、引き裂かれる場所に立つことだと正直思う。

もっともっと声を出してそれをつたえていくべきじゃないかな。
裂け目を引き受けるのが福島に住むことの「権利と義務」なのだとも。

ただし。

引き裂かれ続けると、人は言葉を失い、隙間に身を閉じ込められ、その閉じこめられた状況に隷属した「サバルタン」な、自らの声を失った存在になってしまいかねない。

そうならないために大切なのは「初期衝動」だろう。

「逃げる」も「住む」も「迷う」も、各々の力能に応じた「初期衝動」に支えられた行為であるなら、自分をより高めることになり得る。

迷信にとらわれた受動的な存在として生きるのでないかぎり。

「安全だ」も「危険だ」も、それだけでは私たちに受動的な枠組みを与えて世界を半分に縮減して生きるように仕向ける「迷信のコトバ」として作用しかねない。

そのコトバがどんなところから絞り出された
「初期衝動」=「神の一滴」
なのか?

いつもそのに瞳を凝らしたい。



ちなみに、ブログの書き手とこの前飲んだとき、「サンボマスター」のボーカルが佐野元春とのトークで
「大切にしているのは初期衝動」
って言ってた、と教えてくれたのがのが印象的だった。それをふと思い出す。

「ネコとイヌ」
「考えることと走ること」
初期衝動を巡る「人間未満」の大切なことに対する視線がうかがえる。

考えてみれば人間とは違って、「人間未満」の動物こそが、「初期衝動」=「神の一滴」の匂いを見誤らないのだろう 。

「人間の言葉は存在から切り離されている」

というのが中世哲学の唯名論の「論理」だった、と昨夜読み返した八木センセの本に書いてあった。

「普遍」とは、素人には「神」の姿がちらつく「裳裾」のごとくに見える。

私たちは近世以降、資本主義というカタパルトに「普遍」を載せ、未来に放り投げた挙句、投機の対象にしてしまった。

その結果、「普遍」から「ことば」を遠ざけてしまったのではないか?
そんな思いすら抱く。

ま、もちろん「言霊(コトダマ)」とか今更言われても困るわけだけれど、私たちに残された「感染力(ミメーシス)」のある資源の確保は、「初期衝動」から切り離されていない「ことば」をどれだけ紡げるか、に依存しているのかもしれない、と、しみじみおもう。

動物には言葉がなく、人間には「初期衝動」から切り離された「唯名」しかないとしたら。

神の「裳裾」という見えないモノに瞳をこらそうとすることも、福島に住んで引き裂かれたが故の思考の混迷とだけいってすませるわけにはいかないんじゃないかな。

少なくても、声高に「震災以前」を懐かしみ、称揚して歌い上げるより、引き裂かれて病気になるぐらいが教師としてよほどまともだと思うよ(笑)

精神的な「資源」を、私たち福島の民は、しばらくここで掘り続けていこう。