龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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大震災以後を生きる(28)

2011年08月10日 14時00分19秒 | 大震災の中で
青森のねぶた、弘前のねぷた、五所川原の立佞武多の三つの祭りを見てきた。
それぞれに面白かった。福島から出て生活したことのない私にとって、同じ東北でも十分に異文化体験である。

だいたい東北地方と一口にいっても、南北の長さは半端ではない。福島の南端いわきから青森までざっと500キロあるのだから。

50歳を過ぎてから、
「老後をあてにせず今を楽しむ」
方針に舵を切って、全国をクルマで移動することを始めた。
観光旅行、といえばそうなのだが、特に定まった目的は必ずしも必要ない。土地の空気を吸い込んで風景を見て、そこの野菜や果物、そして少量の肉とお菓子を食べればそれでよい。

今回はとりあえず青森の和風エレクトリカルパレードを見ようという初期衝動で動いた。
同僚には
「観るだけの祭りは飽きますよ。やっぱり山車はぶつからないと」
てなことをいわれて正直いささか弱気になったが、ねぶた=ねぷた=立佞武多をみて、こりゃ「けんかねぷた」をしてちゃ勿体無い、と思った。
(戦前は投石などもあってかなり警察も手を焼いたらしい)

弘前ねぷたの歴史
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Sumire/8849/neputa_his/ne-rekisi.htm


確かにあの「御柱」に乗って死ぬ?!典型的な神に向けられた「タナトス」的衝動はここにはない。
戦争の代わりにエナジーを蕩尽しつくすけんか山車のような激しさも(少なくても今は)ない。
変わりに、囃子と踊りとエネルギッシュな掛け声、それに華やかな山車の美しさがある。

青森ねぶたでは、先導役の女性が、笛一つで巨大なねぶたを自在に操る姿に惚れ惚れした。観客ギリギリで回転しながら、見得を切っている表情のねぶたたちがあたかもそこで動いているかのように迫ってくる。

巨大な祭りそれ自体をコントロールするノウハウもすごい。ただし、それと引き換えに、人数が多すぎて踊りに制限があるっぽいのが残念。
十年以上前だったか、跳ね人(踊り手)の無秩序な飛び入りとか、泥酔、乱行などが問題になっていたと記憶している。祭りにめちゃめちゃなエナジーがなかったらやる意味がなくなる。
他方、そのヒトを魅了し、結集させる力は必然的に一大観光産業を生み出すわけで、「ジェットコースター的安全」も求められてしまうのだから難しい。
そんな中での「解」を探りつつ、大きな祭りという「生物」を地域で飼い続けていくのは大変だなだ、なんてことまで考えてしまった。

弘前のねぷたは、青森のような「全国区」を自覚的に演じる」のではなく、手作り感のある小型の山車を地元の人が出す、地元民のソウルを感じる。青森のねぶたは大きい分それだけ大きな企業スポンサー資本が不可欠。
こちらはそういう大きな資本力ではなく地元勢の熱気がある。

青森県は好きな県だ。
中でも弘前は、阿蘇と並んでお気に入りに入っている。どこかに出かけようか、と思うと、500キロ飛ばしでここにくるのだ。何がいいのか、ときかれてもにわかには答えにくいのだが。

岩木山がいいのかな。

そうそう、五所川原の立ちねぷたは平成に入ってから、とかで、意外に歴史は新しいらしい。
明治期に行われていたと言われる20メートル以上の巨大ねぷたはその後長く廃れていて、ごく最近復活したのだそうだ。全国をあっと言わせる、みたいなことが紹介に書いてあったが、確かに圧倒的存在感。
明らかに運行経路の電線配下埋設でもしたんでしょうね。何せ高い。道路脇で見上げると遠近感が失調し、逆に吸い込まれそうな感じさえある。

一方踊り手は青森ねぶたに比べてたいそう「緩く」て、子供を抱えながらヤンママが踊っていたり、親子で楽しそうにしていたり。
運行経路以外の道は人っ子ひとりいない「祭りの裏路地の寂しさ」
もあってしみじみ。
祭りは、その灯りを目指して歩いていって、お囃子や灯り、屋台の匂いを背にしつつ帰るのが田舎の基本。
忘れていたそういうことを思い出した。

それにしても、ねぶた=ねぷたのように目に見えるオブジェを介した祭りという共有財を持つ地域は羨ましい。

自分が子どもの頃は福島の「お稲荷さん」の祭りが大きな祭りだったが、御神輿や争いの神事もなく、お詣りしたら屋台を流してべっこう飴なんぞを買って帰るだけだった。
一度ぐらいお化け屋敷に入ったことがあったかなかったか。
後年、福島は冬のわらじ奉納祭を夏に移して夏祭りを「創った」が、今しばらく時間が必要だ。お祭りはつくづく伝統の力である。

そういえば教え子に、「飯坂太鼓」の奏者がいる。高校生のとき進路指導の面談をしたら

「将来は飯坂に戻って飯坂太鼓をやる気のが目標です」

と宣言したのにはたまげた。
今、彼は一浪して早稲田の二年生。福島に戻って飯坂の祭りを支えるその気持ちは変わっていないそうだ。

今回の大震災がなかったら、
「祭りも太鼓もそりゃいいけれど、田舎の祭りで人生食ってはいけないんじゃないの?」

という思いは消えなかっただろう。我が不明を恥じる。胸に響いてくる太鼓の鼓動や笛の音、山車がぶつかるスリル、お腹が暑くなるような祭りの熱狂……そういうものなしに、他県からの物流支援だけでは、人は生きられないのだ。

ねぷた=ねぶたも、祭りの為に冬からお囃子方は練習し、何ヶ月間もまえからねぶた=ねぷたを作る。

お祭り騒ぎがそのときだけという印象を持つのは、実はハレを切り取って流通させはじめてから「後」の感覚なのかもしれない。

幾重にもうらやましく思いながら帰ってきた。
祭りとか、歌や音楽、踊りとかが、土地とその歴史に根ざした伝統に支えられていることの意義を改めて感じつつ。

たぶん、超面倒臭いんだけどね、そういう伝統とか(苦笑)。

太宰の小説『津軽』を思い出した。