上野千鶴子が退官記念講演に代えて行った震災支援特別講演が「週刊読書人」に採録されていた。
その冒頭、上野は原発事故以前と以後で意見を変えなかった人だけを信用する、という意味のことを言っていた。
その部分を読んだとき、少なからぬ違和感があった。
変わらないのは「神さま」だけだ、と瞬間的に思ったからだ。
それに続いて高木仁三郎という最後まで原発の危険性について警鐘を鳴らし続けた人の話に触れているので、文脈としては一応分かる。
最初からちゃんと主張していた人はえらかった、ってことだよね。
だが「正しいこと」はほぼ事後的にしか分からない。これは「所詮」とかいう諦めではなく、人間が「正しさ」を扱う時の「戒め」でさえある。
上野千鶴子の言葉はどちらかといえば、確信犯的に、いつも当事者の立っている場所から、「敢えて」遡及的にであっても「正しさ」を求めようとする身振りを持つから、特段驚きはしないが、やはり違和感は大きかった。
ただし、その後で上野が指摘している「実は事故が起こる前から薄々その危険の大きさは分かっていたはずなのに、原発事故を止められなかった」という「無力感」と「苦い思い」は、私自身もまた極めて強く感じていることである。
たとえば、菅首相が最後っ屁のように福島にやってきて、放射性廃棄物の中間貯蔵場所を福島県に設置したいといったとき、佐藤福島県知事は何度も何度もその「唐突な提案」に「驚いて」見せた。
だがもちろん、そこにはなんの「驚き」もない。これだけ高濃度の汚染が明らかになった以上、その除去物や汚染瓦礫を、福島県以外に運び出す選択肢など、初めから考えることさえできなかったのではないか?
県知事が驚いて見せるのは、駆け引きのうち、なのだろう。でも、現実には、私たち福島県は、この高濃度の放射性物質にまみれた状況を、ここに住む限り引き受けていくしかない。それはあの水蒸気爆発と、それに伴う避難が始まったときから、「うすうす」分かっていたことなのではないか。
この「うすうす」分かっていることと、現実に悲惨な事態が起こってから初めてそれと向き合うこととの関係は、実に「嫌な感じ」である。誰に対してでもない、なによりもまず自分自身に対して。
上野千鶴子の言葉を、私自身はかなり頼りにして生きてきた部分がある。「正しさ」のいささかならず「強引」な使い方も含めて。
しかし、そういうことも踏まえた上で、いよいよ自前でものごとと向き合い、考えてぬいていかねばならない、という思いが、今はとても強くなっている。
正確な表現は忘れてしまったけれど、中野重治も敗戦後のアメリカ占領下における日本の民主主義化を、他人頼みの寸詰まりのものだ、と自己批評していた記憶がある。
60年以上たっても、そう簡単に人間は進歩などしないということか。
垂直統合型の、どこかの「お上」が集約的に「安全」や「成長」を宣言して、避難範囲を決定して、汚染限度を決めれば済む、ってことじゃなくなったのだろう。
ただ一方、デジタルな格子空間における「自由」、経済活動のグローバル化によるヒトの過剰流動化は、私たちをいっそう「追いつめて」もいくだろう。
上野千鶴子の、原発事故以前から警鐘を鳴らし続けていた「態度を変えない人」しか信用しないといいつつ、自らは「うすうす感じて」いながらそうはできなかった「反省」を抱えているというスタンス(その「ミゾ」がこの講演の肝、なんですが)は、単なる個人的な「弱さ」の問題でないことだけは確かだ。
橋頭堡が必要だと思う。
反原発のカリスマが持つ「正しさ」でもなく、原子力ムラの擬似制度的な「共同体」でもなく、「お上」と地方との従属関係でもなく、当事者がその場で生きていくために必要な「地面」=基盤とネットワーク。
それを支える中間的な公共システム。
それによって支えられる自由と超越性。
上野千鶴子は、「女性」というキーワードでその地平をあるいは敢えて過度に「近代的」に切り開いてきた、のだろう。
私たちは決して彼女の「先」に立っているわけではない。
たまたま、見えない「焼け野原」のようにセシウムにあまねく覆われた負の「聖域」の脇っちょである「いわき市」というどちら側からも中途半端な「周縁」に立つものとして、さまざまなことをこの場所で一から考え直す機会に恵まれている、ということにすぎない。
福島の人たちは、小名浜に水揚げされたカツオを食べ、福島から出荷された桃を食べつつ、その放射性廃棄物の「中間貯蔵場所にもなっていくであろう「負の聖域」の存在を身近に感じながら、それでもなお、そこに生きることを徹底的に考えていくのだ。
いささかヤケクソ気味に聞こえるかもしれないけれどそうではない。
「地産地消」や、自分たちの郷土に住むことが「異常事態」になっていること自体が異常なのだと思う。
ただ、事故から5ヶ月を経て、私たちは「避難を検討すべき濃度」とか「除染」のコストとか「避難」→「移住」のコストとか、共同体の選択」とか、仕事の選択とか、自分の人生について根本的な思考を求められ、大きな「選択」を迫られつづけている。
50年以上生きてきて、こんなことに出会ったのは初めてだ。
どうみても簡単には答えがでない。「どうすればいいのか」という対症療法的、
状況適合的な発想では立ち行かなくなっている。
じっくり腰を据えて残りの時間を「考え」つつ生きる課題が与えられてと言う意味では、与えられた「負」の「聖痕」は、逆説的かもしれないけれど
「新たなる生へのうながし」
と見て取れないこともない。
そういう意味で、大震災以後間違いなく私にとっての風景は大きく「変わった」。
上野講演の持つ「自負」と「反省」とは別の軸に「神様」と「人為」そして「自然」を設定しながら、私は私で考え抜いていこうと思う。
大きな学問の恩義は感じつつも。
その冒頭、上野は原発事故以前と以後で意見を変えなかった人だけを信用する、という意味のことを言っていた。
その部分を読んだとき、少なからぬ違和感があった。
変わらないのは「神さま」だけだ、と瞬間的に思ったからだ。
それに続いて高木仁三郎という最後まで原発の危険性について警鐘を鳴らし続けた人の話に触れているので、文脈としては一応分かる。
最初からちゃんと主張していた人はえらかった、ってことだよね。
だが「正しいこと」はほぼ事後的にしか分からない。これは「所詮」とかいう諦めではなく、人間が「正しさ」を扱う時の「戒め」でさえある。
上野千鶴子の言葉はどちらかといえば、確信犯的に、いつも当事者の立っている場所から、「敢えて」遡及的にであっても「正しさ」を求めようとする身振りを持つから、特段驚きはしないが、やはり違和感は大きかった。
ただし、その後で上野が指摘している「実は事故が起こる前から薄々その危険の大きさは分かっていたはずなのに、原発事故を止められなかった」という「無力感」と「苦い思い」は、私自身もまた極めて強く感じていることである。
たとえば、菅首相が最後っ屁のように福島にやってきて、放射性廃棄物の中間貯蔵場所を福島県に設置したいといったとき、佐藤福島県知事は何度も何度もその「唐突な提案」に「驚いて」見せた。
だがもちろん、そこにはなんの「驚き」もない。これだけ高濃度の汚染が明らかになった以上、その除去物や汚染瓦礫を、福島県以外に運び出す選択肢など、初めから考えることさえできなかったのではないか?
県知事が驚いて見せるのは、駆け引きのうち、なのだろう。でも、現実には、私たち福島県は、この高濃度の放射性物質にまみれた状況を、ここに住む限り引き受けていくしかない。それはあの水蒸気爆発と、それに伴う避難が始まったときから、「うすうす」分かっていたことなのではないか。
この「うすうす」分かっていることと、現実に悲惨な事態が起こってから初めてそれと向き合うこととの関係は、実に「嫌な感じ」である。誰に対してでもない、なによりもまず自分自身に対して。
上野千鶴子の言葉を、私自身はかなり頼りにして生きてきた部分がある。「正しさ」のいささかならず「強引」な使い方も含めて。
しかし、そういうことも踏まえた上で、いよいよ自前でものごとと向き合い、考えてぬいていかねばならない、という思いが、今はとても強くなっている。
正確な表現は忘れてしまったけれど、中野重治も敗戦後のアメリカ占領下における日本の民主主義化を、他人頼みの寸詰まりのものだ、と自己批評していた記憶がある。
60年以上たっても、そう簡単に人間は進歩などしないということか。
垂直統合型の、どこかの「お上」が集約的に「安全」や「成長」を宣言して、避難範囲を決定して、汚染限度を決めれば済む、ってことじゃなくなったのだろう。
ただ一方、デジタルな格子空間における「自由」、経済活動のグローバル化によるヒトの過剰流動化は、私たちをいっそう「追いつめて」もいくだろう。
上野千鶴子の、原発事故以前から警鐘を鳴らし続けていた「態度を変えない人」しか信用しないといいつつ、自らは「うすうす感じて」いながらそうはできなかった「反省」を抱えているというスタンス(その「ミゾ」がこの講演の肝、なんですが)は、単なる個人的な「弱さ」の問題でないことだけは確かだ。
橋頭堡が必要だと思う。
反原発のカリスマが持つ「正しさ」でもなく、原子力ムラの擬似制度的な「共同体」でもなく、「お上」と地方との従属関係でもなく、当事者がその場で生きていくために必要な「地面」=基盤とネットワーク。
それを支える中間的な公共システム。
それによって支えられる自由と超越性。
上野千鶴子は、「女性」というキーワードでその地平をあるいは敢えて過度に「近代的」に切り開いてきた、のだろう。
私たちは決して彼女の「先」に立っているわけではない。
たまたま、見えない「焼け野原」のようにセシウムにあまねく覆われた負の「聖域」の脇っちょである「いわき市」というどちら側からも中途半端な「周縁」に立つものとして、さまざまなことをこの場所で一から考え直す機会に恵まれている、ということにすぎない。
福島の人たちは、小名浜に水揚げされたカツオを食べ、福島から出荷された桃を食べつつ、その放射性廃棄物の「中間貯蔵場所にもなっていくであろう「負の聖域」の存在を身近に感じながら、それでもなお、そこに生きることを徹底的に考えていくのだ。
いささかヤケクソ気味に聞こえるかもしれないけれどそうではない。
「地産地消」や、自分たちの郷土に住むことが「異常事態」になっていること自体が異常なのだと思う。
ただ、事故から5ヶ月を経て、私たちは「避難を検討すべき濃度」とか「除染」のコストとか「避難」→「移住」のコストとか、共同体の選択」とか、仕事の選択とか、自分の人生について根本的な思考を求められ、大きな「選択」を迫られつづけている。
50年以上生きてきて、こんなことに出会ったのは初めてだ。
どうみても簡単には答えがでない。「どうすればいいのか」という対症療法的、
状況適合的な発想では立ち行かなくなっている。
じっくり腰を据えて残りの時間を「考え」つつ生きる課題が与えられてと言う意味では、与えられた「負」の「聖痕」は、逆説的かもしれないけれど
「新たなる生へのうながし」
と見て取れないこともない。
そういう意味で、大震災以後間違いなく私にとっての風景は大きく「変わった」。
上野講演の持つ「自負」と「反省」とは別の軸に「神様」と「人為」そして「自然」を設定しながら、私は私で考え抜いていこうと思う。
大きな学問の恩義は感じつつも。