子供の頃から年賀状は好きだった。
父親や母親にはどっさりくるのに、自分には友人からの数通しか届かない。なんだか年賀状の数が、この世の中の「偉さ」の数のような気もした。
大人になってからは仕事のつきあいで年賀状ばかり何百枚も出さねばならない人を気の毒に思うようにはなったが、それでも普段なら到底手紙など出せない相手でも、賀状なら一言添えてやりとりができるこの風習は、とても素敵なものだったと思う。
ただ、最近は年下の友人たちはメールなどネットでのやりとりが主。
先輩たちとは賀状が主。どちらかだけってわけにはいかない。
時代が確実に変わりつつある、と感じている。
さてしかし、今年は我が家は喪中なので賀状を出さない。
元日届いた賀状にもとりあえず返事は不要。
すると、それだけで、とてものんびりできることに気づいた。
それでも賀状を頂戴するのははうれしいものだ。
普段疎遠にしていても、一時期は時間を共にした仕事仲間や遊び仲間からのものには、それぞれの生活の様子が垣間見える。なんとなく、離れてはいてもそれぞれに「同じ1年」を過ごしていたんだな、と思うと、一瞬だけ気持ちがふっと暖かくなるような気がするから。
実のところ、何も「喪中」なんてこだわらずに返事を出してもいい。
そして、届いた年賀状には返事を出そうかとも思ったのだが、とりあえずは受け取ったボールをそのまま掌にしまっておくような、不思議な感触を味わうことにした。
いつもより丁寧に賀状を見ている。
元日に届く年賀状という風習によって自分達が繋がっていることを確認する行為が、既にいつでもどこでもアクセス可能なSNSに置き換えられてしまった世代や階層も少なくないのかもしれない。
でも、私はたぶん賀状を止めないだろうな。だって、端的に楽しいから。図案を考えたり選んだり、その人に一言添えて物理的な手紙を出す、ってのは、メールとは違った「贅沢感」があるものね。
業務上の義理賀状はもう、この喪中をきっかけにやめようかな、とは思うけれど。
父親や母親にはどっさりくるのに、自分には友人からの数通しか届かない。なんだか年賀状の数が、この世の中の「偉さ」の数のような気もした。
大人になってからは仕事のつきあいで年賀状ばかり何百枚も出さねばならない人を気の毒に思うようにはなったが、それでも普段なら到底手紙など出せない相手でも、賀状なら一言添えてやりとりができるこの風習は、とても素敵なものだったと思う。
ただ、最近は年下の友人たちはメールなどネットでのやりとりが主。
先輩たちとは賀状が主。どちらかだけってわけにはいかない。
時代が確実に変わりつつある、と感じている。
さてしかし、今年は我が家は喪中なので賀状を出さない。
元日届いた賀状にもとりあえず返事は不要。
すると、それだけで、とてものんびりできることに気づいた。
それでも賀状を頂戴するのははうれしいものだ。
普段疎遠にしていても、一時期は時間を共にした仕事仲間や遊び仲間からのものには、それぞれの生活の様子が垣間見える。なんとなく、離れてはいてもそれぞれに「同じ1年」を過ごしていたんだな、と思うと、一瞬だけ気持ちがふっと暖かくなるような気がするから。
実のところ、何も「喪中」なんてこだわらずに返事を出してもいい。
そして、届いた年賀状には返事を出そうかとも思ったのだが、とりあえずは受け取ったボールをそのまま掌にしまっておくような、不思議な感触を味わうことにした。
いつもより丁寧に賀状を見ている。
元日に届く年賀状という風習によって自分達が繋がっていることを確認する行為が、既にいつでもどこでもアクセス可能なSNSに置き換えられてしまった世代や階層も少なくないのかもしれない。
でも、私はたぶん賀状を止めないだろうな。だって、端的に楽しいから。図案を考えたり選んだり、その人に一言添えて物理的な手紙を出す、ってのは、メールとは違った「贅沢感」があるものね。
業務上の義理賀状はもう、この喪中をきっかけにやめようかな、とは思うけれど。