龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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風土記を読み出した。

2012年01月22日 14時33分58秒 | 大震災の中で

こういう本は読み終わらないテキストだし、研究者じゃあるまいし通読してもしょうがない。

だがこれがすこぶる面白いのである。

「常陸風土記」では、

茨城というのは、佐伯という国の権威を遮(さえぎ)る土着民がいたので、黒坂命(ショウサイフメイ)が棘(イバラ=ウバラ)を仕掛けて彼らを成敗したから「うばらぎ」というのだ

とか、

天皇がそこの郡を見晴らす高台に立って国見をした言い伝えが云々とか、そういう話が満載で、実際にその土地を散策しながら読み歩きをしたくなる。

他方「出雲風土記」は、正確な地誌的記述が特徴で、地図を開いて読みたくなる。

それが1300年も昔に書かれていたっていうのが第一ロマンチックだし、その川や里や山が、地名を含めて今ここにある、というのが凄い。

何をやるか、が自分の主題だったころには考えられなかった本読みの快楽である。

メディア日記龍の尾亭にも書きました。
よろしかったらこちらも。
http://blog.foxydog.pepper.jp/?eid=980336


単旋律の懐かしさ。

2012年01月22日 12時15分03秒 | 大震災の中で

メディア日記にエラリー・クイーン『九尾の猫』の感想を書きました。

メディア日記龍の尾亭
http://blog.foxydog.pepper.jp/?eid=980334

なぜこんなにも懐かしいのか、とおもったら、この頃の推理小説は、証拠となるモノや心理、行動はバラバラに配置されているけれど、むしろ叙述それ自体は線状性を保った一本道である事も多く、安心して読める。

例えば西村京太郎の作品のリーダビリティの高さを見てもよい。余計なところで叙述が滞留せず、こういうのは、きちんと信用できる語り手だ(笑)

語りの多層性とか、信用できない語り手というのが当たり前になっている昨今では、正直物足りなささえ感じてしまうかもしれない。

昔は、探偵と一緒に論理を追いかけて行くのがお作法で、そうでなく、犯人側の心理を描いた作品は「倒叙述モノ」なんで呼ばれていたぐらいですし。

でも、そういうこととは全く別に、信用するとかしないとか実はどうでもよくて、語りを楽しむこともできるのではないか、とも思うのだ。

古井由吉だって、エラリー・クイーンだって、今読み始めたブッカー賞&ハメット賞ダブル受賞の『昏き目の暗殺者』だって、西行だって、その叙述とゆっくりつきあうことは、懐かしいと同時にいつまでも新しい。

さて、いよいよ年寄りモードにはいってきたかなぁ(笑)