もしくは『すばる』2012年2月号対談「個人と世界をつなぐもの」(宇野常寛×國分功一郎)の感想
前述のように、私は
宇野常寛『リトルピープルの時代』
が読めなかった。
村上春樹をいまどきターゲットにする意味がわからないし、サブカルチャ批評というのかどうか、仮面ライダーにもAKB48にも興味がないし詳しくないし、「拡張現実」とかいうツールも平板な感じだし、とうてい私が読み得るものでもないと思った。
とにかくつまらなかったのだ。
こんな退屈なものをおもしろいと思う人たちが増えるのなら、私はもう本当に山に隠って暮らしたい(できないんだけどね、実際は)とも思った。
もしかすると面白がれない自分にもちょっとイライラしていたのかもしれない。
そんな時、Eテレで再放送された「ニッポンのジレンマ」を観て、「おや」と思った。
70年代生まれ以降のヒトが集まって6時間(放送はその半分ぐらい)日本の格差をしゃべり倒すという番組で、これが抜群に面白かったのだが、その中での宇野常寛の「語り」が奇妙だったことが気になった。
飯田泰之という経済学者と、宇野常寛という批評家の掛け合いというか、「因縁の付けあい」「互いの主張の拾い方」が抑圧的で、そこは朝生っぽい感じのレトロ感もあったのだけれど、それに対して興味を持った。
いそいで付け加えておくと、会場での一番人気は哲学者の萱野稔人。まあ当然ですね(笑)。
不透明な現況について敢えて語ろうとするときは、その基盤について(たとえそれが非在のものであっても)参照する身振りが必要だ。この場所では萱野氏が提供する政治哲学の視点が仮の参照点として機能していたのだろうから。
私自身も、このメンバーの中では萱野氏の発話を好む。どこかで「世界」を参照したいと思って夜中の再放送を観ているわけだから、飯田泰之と宇野常寛自体(ってのも変ですが)はむしろ「変数」として受け止めることになる。
ただ、萱野氏の提出するヴィジョン自体はたいそう暗い。
成長路線がこれから先とれるならそれに越したことはないが、難しいだろうし、それだけではなく20世紀の負債を21世紀は負の再分配として背負っていかなければならないっていう方向性ですからね。
また、萱野氏は飯田泰之や宇野常寛のようなタイプのプレイヤーではないことも確か。
哲学者ですからね。だからこそ混迷の中ではとりあえずの参照点にもなる。
細かく言えば萱野氏の発話の「文体」=「スタイル」も興味深いのですが、それは別途。
さて、ここまでが補助線です。
「すばる」2012年2月号の対談「個人と世界をつなぐもの」を読んでいくうちに、前述のように、宇野常寛に対する見方が変わっていった。
それは一義的には國分功一郎を宇野常寛の近傍に置くという編集者の身振りの成果なのかもしれない。
少し前にTwitterで
「國分さんともあろうものが、なんで宇野なんか宇野ごときとと(すみません!筆者)対談するのか」
みたいなものが流れたことがあった。
私の中のある部分、つまり「本来性」を国分氏に配置したい欲望は、そんな風に感じていた。
結局「宇野」は「拡張現実」とかいって自分のいるサブカル平面に固執したまま、時代遅れの村上春樹信者に意味のない弾を撃ってるだけじゃん、みたいなね。
しかし、國分功一郎氏の次の問題提起によって、初めてわかりやすいメタ的な宇野氏の「感想」が導き出される。
問題提起(國分)
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1,『リトピー』でも、「ビッグ・ブラザー」が死んだ後の「リトル・ピープル」的権力観が必要なのに、それがわかっていない人たちが多すぎると(宇野は)強く主張。
2,「リトル・ピープル」的権力観というと、哲学だったらフーコー。権力の中心を認めずむしろ社会的関係野中に権力を見いだす考え。70年代マルクス批判としてインパクトあり。(第1段階)
3,次に社会的関係の中に権力を見ることを誤解して、大文字の権力=国家の問題がなおざりにされる。権力は上からではなく下からくる「性差別的表象」とか「植民地主義的表象」みたいな糾弾口調(第2段階)
4,僕(國分)なんかの世代はこの第2段階に対する反省が常識。いわばそれが第3段階。国家の暴力装置の問題と、下からくる権力の問題の両方を考えなければダメということ。
5,そうすると、宇野が指摘する大文字の政治だけを問題にする文化人ってのは周回遅れ(しかも3周!)。そんな日本の批評家のことはどうでもいいんじゃないか?
宇野の反応
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いや違う。僕(宇野)の仮想的はまさにその第3段階の人たちが一回りしてもう一度第1段階に会期した結果としての自分探しだ。
大震災の後なんかに「震災によって資本主義は根本から揺らいだ」みちあなことをまだ大きなメディアに書く人がいる。しかし東北が壊滅したってグローバル資本主義は揺らがない。だからこそ厄介。
つまり80年代で時間が止まっていて、マルクス主義は得気なものを相対化しつつ、まだ左翼的な権力観は維持したいってモードが生き残ってる。で、それらは実現不可能なロマンの空手形に逃げてしまって結局最悪な形で物語回帰している。それを批判している。
国家の問題を語ることに意味がないといっているのではない。近代的な擬似人格装置として国家を見ることが無理なだけ。
擬似人格ではなく、法システムとして、大きな物語としてではなく大きなゲームとして国家や社会構造を考えようと主張。
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これを読んでなるほどねって感じになった。
言っておけば、今でも宇野氏が「語り口」について言及する対談部分には違和感を抱く。語り口が重要だっていう指摘自体は納得するんだけれど、宇野氏自身の語り口が、いささか性急に「仮想敵」を想定する「立場」に依拠しすぎてやしないかっていう違和感だ。
ようやく本題にたどり着く。
この後の國分のコメント。
「なるほど彼らを批判する理由はよくわかりました。分野によって『批判』がとるべき形というのは異なるのかもしれません。ドゥルーズは『これはすごい』『ここがすごい』ってことだけを書くっていっていて、僕もそれに倣っているんだけど、そういうことが許される業界と宇野さんがいる批評の業界は違うのかもしれないね」
これが良かったのだ。
批判する理由は「わかるよ」
というのと
「違うね」っていうことを併置すること。
公開対談の社交的な結論づけ、と見ることもできるが、國分の言説は共感性を示しつつ、同時に違いを際だたせ、勇気づけていく。
そしてさらに分からない(AKB48)もそこに加えて提示していく身振りは、これを「教育的」といわずしてなんと言おうか(笑)。
社交的であると同時に教育的でもある。
共感と差異と無=理解をきちんと提示してそれらを同時にクリアにしていく「語り口」にもう一つ加えるとしたら、生物的=唯物的=直接性を手放さないこと、になるのだけれど、それはまた別のところで。
一つ付け加えれば3.11を「第二の敗戦」ではなく「第二の戦後」ととらえようという國分氏の提案、賛成に100票。
「戦後責任」の視点ですね。
これはアーレントと絡めて再度考えたいな。
とにかく、この対談は、私にとっては面白いものでした。
そしてもう一つ付け加えていえば、雑誌「文学界」に掲載された國分功一郎の『一般意志2.0』に対する書評にも全く同じ「国分効果」が見られる点も指摘しておきたい。
他者の言説の傍らに立つことによって、自らがもつ本来性に還元せず、差異を豊かさとして味わうというきわめて具体的な実践が生じていると思うのです。
まあ、9割削った、という「本来の?」國分功一郎による東浩紀論を早くみたい、というのがファンとしての感想ですけど。