龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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安冨歩は世界の「向こう側」から発話しているのかもしれない。

2012年01月17日 21時25分15秒 | 大震災の中で
 『経済学の船出』NTT出版
 『生きる技法』青灯社
 『原発危機と「東大話法』明石書店
 と立て続けに読んだ。

安冨歩は凄い。

『経済学の船出』は専門の経済分野ということもあるのだろう、切れ味ある論旨展開で、読んでいてとても爽快だ。それが一歩も留まるところを知らず、ヘタをすると「トンデモ本」であるかのような「飛躍」(論理の、ではない。例えや切り口のワープが多彩だって感じの意味で)をしたかと思うと、意外なところで全く別の者同士が響き合ってくる。

よく制御されているけれど、演奏は奔放な音楽でも聴いているような気持ちになってくる。

対して『生きる技法』は、典型的な「自己啓発本」だ。真っ正面から「如何に生きるかによってどれだけ人生が違ってくるか」ってのを論じた本です。
しかし、この本もなんだか凄い。
自己啓発本は、トンデモ本とは違う。だから、自己啓発本というのは、読んでいると「そうなのかもしれない」と読者が思うように誘導し、「そんな気持ちにさせる」ことによってお鳥目をいただく種類の芸能本と考えていいだろう。

ところが、この安冨歩の「自己啓発本」は、何か違う。自前で書かれている文体だから、温度が熱いのだ。
そういう意味では、全く異なった種類の「一見自己啓発本」である國分功一郎『暇と退屈の倫理学』と同様の温度を感じるのだ。

それはある種の「あられもなさ」とでも言おうか、自分の経験が論理化されて、本の賭け金としてきちんと「賭けられている」印象とでも言おうか。

トンデモ本の匂いに近いのは、その「温度の高さ」にも関わっていると思う。

一般に言われる「自己啓発本」においては、書き手はちっとも熱くなっておらず、そういう商売をしてお客様を一時「前向き」にさせれば値段分の働きということになる。

逆に普通考えられているトンデモ本は、書き手は「熱く語っている」のだけれど、決め打ちの狭い読者層以外は、真面目に取り合わないということになる。

この『生きる技法』という本は、そのどちらにも似ているのに、どちらとも違う。

なんだろう、國分的語彙でいえば「本来性」に回収されない「生」の感覚といおうか、安冨的語彙でいえば、ハラスメントの呪縛に陥らない「学び続ける生」の感覚とおうか。

こんな風に書いていても、なんのことやら見えてこないもどかしい説明なのだが、これはたぶん読んで貰う方が早い。

『経済学の船出』について言えば経済学のポイントをこれほど分かりやすくクリアに説明してくれた本は、今まで読んだことがなかった。
『生きる技法』について言えば、そこまで自分のことを書かなくてもいいのに、とさえ思ってしまうほど率直な書き方だった。

つまりは、この人の文章は、あんまりにもまっすぐなのだ。
そのまっすぐな感じは、こういう言い方をしては不適切なのかもしれないが、ある種の「偏り」というか「障がい」というか、「不自由さ」を感じるまっすぐさでもある。

そして、その不自由さは「哲学的」と言い換えると、私としてはとてもすっきりする種類のものだ。
だからこそ、この人の文章は信用できる、と思う。

文章を信用できる、なんていうのはちょっとおかしい、と自分でも思う。
人間「安冨歩」のことはどんなにいい人なのか実は鬼畜なのか、全然知りません(当然ですが)。
そんなに興味もありません。

別の言い方でいうと、この言葉は「獲得」されたものだ、という印象がある。
向こう側にいる人が、「獲得」した結果、向こう側から発信された言葉なのだ。

たとえていえばドナ・ウィリアムス(『自閉症だったわたしに』新潮文庫の作者)の言葉のように。

だから信用できる。

もしかすると(ここから先は妄想だけれど)、ルソーとか、スピノザとかいった人の言葉も、向こう側からの言葉なのかもしれないと思う。

「向こう側」って何?

それは、「人為の裂け目」から顔を覗かせた「自然」ととりあえずは言っておこう。
2011年3月11日以降、ずっと私自身が見つめている場所のことだ。