龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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安冨歩を読むということ(1)

2012年01月19日 12時35分59秒 | 大震災の中で


少し腰を落ち着けて、「安冨歩」のことばのありようを考えてみたい。

もちろん「腰を落ち着けて」とはいってもそこは「多動児」。何処へ「あくがれ出づる」かは不明。

先日、

>@foxydogfrom1999 安冨歩は
>世界の「向こう側」から発話し
>ているのかもしれない。

というブログ冒頭のTweetに、安冨歩さん本人がコメントしてくれた。

>どちらかというと、世界の「向こう側」
>で皆さんが、議論しているような気が
>するのです、私には。

なるほど。
一見すると、お互いに相手を「向こう側」っていってるみたいだけど、そうではない。

レトリックとして使った訳だけれど「向こう側」(か「こちら側」か)というのはそれ自体では雑駁な区分だ。

舌足らずでごめんなさいなのだけれど、そこは実のところ興味深いポイントでもある。

ちょっと広げて考えたい。
そのための補助線を一本。

そのやりとりにに反応してくれた
愚樵@gushouさんのコメントとfoxydogのやりとりが次。

引用開始>>>>
愚樵:
「向こう側」は、よくよく見れば「こちら側」。生はこちら側 

foxydog:
ブログ訪問ありがとうございました。
安冨さんの言葉は一直線に心に響いてきます。一度向こう側までたどり着き、それからこちら側に戻ってきた「ことば」だと感じるのです。
ハラスメントから自由になるのは、容易なことではなく、でも同時にあっけないほど簡単なのでしょう。


愚樵:
@foxydogfrom1999: 「ハラスメントから自由になるのは、容易なことではなく、でも同時にあっけないほど簡単なのでしょう。」 その通りだと思います。私はそれを「アクロバット」と呼んでいます。
引用終了>>>>>>>

この愚樵さんの言う「アクロバット」に賛成、である。私は
「安冨歩は世界の『向こう側』から発話しているのかもしれない」
と書いた。
この「アクロバット」概念を利用させてもらうなら、
「安冨歩は一見、世界の『向こう側』から発話しているかのようにみえる」
とかくべきところだった。



さて一方、愚直と見えるまでに真っ直ぐに、地べたを自分の足で踏みしめて歩むその歩みを「語る」のが、「安冨歩的話法」でもある。

母と、そして元妻との関係を「率直」に語り、そこに機能し続けていた「ハラスメント」の構造を、身を切るように読者とともに再認識していくその姿は、私たちに、安冨歩自身の息遣いを身近に感じさせる。
安冨本人も書いているが、そのあまりにも直接的な息遣いは、読者を時には息苦しくさせるほどなのだ。
そこで用いられているのは、誰にでも、いつでも通用する話法ではない。
だから、「安冨歩的話法」は、究めて直接的でありながら(おそらくその点を指して安冨歩自身は「こちら側」の発話だといったのだろう)、他方、決してそれは私たちの日常のことばではない(私はその点を考えてみたい「向こう側」と掻き出した)。
日常と非日常、此岸と彼岸。
安冨歩の語りには瞬時にそよの両極端を往還する身振りが充溢している。
愚樵さんはそのことを指差して「アクロバット」と呼んだのではないか。

さて、その「裂け目」で起きる「アクロバット」=「事件」について書きたい……のだが、これから会議が始まるので続きはまた後ほど。