道元の言行を書き留めた弟子の懐弉が書き留めたとされる本、『正法眼蔵随聞記』を
読み始めた。これは読み終わることのない本だろうが、色々興味深い。
例えば、
岩波文庫版P31「たとひ、発病して死すべくとも、なほただこれを修くべし病ひ無ふして修せずらこの身をいたはり用ひてなんの用ぞ。病ひして死せば本意なり」
とかいう過激さはとてもついていけないしやりたいとも思わないが、ある種の「清々しさ」すら覚える。
あるいは、師匠は弟子が座禅で寝ていたらぶん殴って拳が折れるほど戒める、それを自分の権力行使の為でなく行うことをよくよく思慮せよ、といったところもビビビびっくりだし、それが「私的な権力行使」にならない保証がどこにあるんだよー、と突っ込みどころ満載なのだが、にもかかわらず、そうか、道元さん、道とはそう言うものか、と納得する。
さらに、訴訟のために一筆書き書いてもらいたい、という人がいたら、厭わずに書いてやることだ、、というのもちょっとビックリだった。世捨て人はそーゆーことに関わらないのかと普通思うところだが、あくまで優しく接してやれ、とのこと。ただ、無理難題を依頼者が言っているときは、その以降を汲んだ上でなお「適切に処理されたい」と書くことも忘れずに、と付け加える。
この厳しさと慈悲の振れ幅が、読んでいてちょっと愉しくなってくるのだ。
修行僧への師匠の鉄拳制裁は、ある種の極端な事例(何せ弟子も支障も世を捨てて修行してる身の上ですからね)であって、なんちゃらヨットスクールとかどこぞの社長さんとか、能力開発講座とかにそのままこの精神を流用されちゃあかなわない。
修行における外化された他者の有り様を、どう描くか、というのは常に大きな課題だろうし、「只管打坐」的禅宗では、修行においてはこーゆーことにもなるって話なのでもあろう。
とてもベタでは読めないが、ネタとしてはいろいろ興味は尽きない。
子猫を奪い合う者に対して師匠が猫を一刀両断するって法話もメチャクチャだし、猫好きはこれだけで禅宗嫌いになるかもしれないけれど、その故事についての道元の答えもふるっている。
一刀両断ではなく、一刀一段であるべきで、猫をぶった切った高僧は、いくら仏法の教えとはいえやっぱり罪を背負ってるよね、と道元は解説している。
「変な理屈捏ねてんじゃねえぞ!座禅だ座禅だおらおらー」
というばかりではなく、夜の講話でこういうことも話してくれるお坊さんはいいな。
ある意味、論語とかプラトンのソクラテス系の話とかと似ている対話編だよね。
厳しくて、「ナンジャコリャ?」とも思うけれど、興味深くもある。
まだ第一(第六まである)しか読了していないけど、十分に面白い。
自分は絶対禅の修行僧になろうと思わないけれど、このテキストを読むのは、あり。
興味深いです。
ただ、木田元かな、解説で書いてある、道元が徹底して拒否した「方便」を駆使している側の宗派のテキストも(もしあるなら)読んでみたい。ただ、そっち系はテキストそのものが「方便of方便」になりかねず、タイトかつソリッドに書いてはくれなそうで、「はてな??」になってしまいかねないかも、だね。
何に膝を屈するのか、何を絶対的な精神の柱とするのか、そんなことを考えてしまう。
そこで、道元が言う「行履」の重要性を思う。
師匠が弟子をただ殴ったら暴行だ。今の世の中なら単なる犯罪にすぎない。
ただ、「先達の行履(あんり=禅僧の日常一切の起居動作)」を重視しつつ修行に励む、という方向性に、理屈だけではない「コモンセンスセンサー」のようなモノを感じもするのだ。
どのみち一筋縄ではいかない道元だし、随聞記は随聞に過ぎないともいえよう。家中で曹洞宗を抜けて無宗門になった我が家としては、いまや無関係でもあるし、厳しい修行などチャンチャラおかしい、とも思う。
でも、そのストイックな姿勢は何か傍らに一度立ってみて、
P25「コモンセンス傍ら事を云ふやうにしてこしら」えてみる異議はあるかも。
関心のある方にはオススメです。でも、こういうのを座右の銘にされて部下に語るような人にはよんでほしくないけどね。
ストイシズムは所詮自らに課する(戯れのもしくは演技の)強制でなければならない。