龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

読み始めた『なめらかな世界と、その敵』伴名練

2020年01月21日 20時47分37秒 | メディア日記
本を読み始めるのは簡単だ。最初のページを開けばよい。
しかし読み終えるのは容易ではない(笑)
まあ、最後までページをめくったからと言って読み終えたことにならない本もあるけれど。
というわけで、読み差しの本がたくさんあるのに、あまりにも面白そうで借りてきてしまった
『なめらかな世界と、その敵』
これから読みます。
なんだか、数ページ読んだだけで頭の関節が外されそう……。これは評判通りの手応え、かな?

読み始めた『ひらがな日本美術史』はまずもって日本の宗教の話

2020年01月20日 20時32分29秒 | メディア日記




読み始めた
橋本治『ひらがな日本美術史』
は、まずもって日本の宗教(仏教美術)からの話だった。今日はなんと宗教づいている日なのだろうか。

縄文土器には神様というか宗教的なものがあるけど、埴輪にはそーゆーものはなくて、子どものように平和だって指摘にはちょっとびっくり。
弥生では政治は誰かがやってくれるから、庶民は平和になったんだね、ってのはさすが橋本治っぽい。つい加藤周一を並べて考えちゃう。日本文化は「此岸的」だ、という加藤の指摘と、この、弥生の埴輪分析とは、橋本ひねりがくわわっているけれど、どこかで関連しているように思う。

この先神道の話や源氏物語の話と、先を読んでいかないとまだわからないけれど。

しずれにしても一筋縄ではいきませんね、橋本治ワールドは。


今日は読み出すばかりで読み終わらないが

2020年01月20日 16時45分50秒 | メディア日記
繋がってしまうのだからしかたがない。本日
『〈日本哲学〉入門講座 西田幾多郎と和辻哲郎』
にまで手をかけてしまった。

取りあえず図書館から借りていて読まねばならないのは
『浄土系思想論』鈴木大拙
『宗教的経験の諸相』W.ジェイムズ
二冊なのだが、どうしても読書は同時展開になりがちだ。
1/24(木)までに取りあえずこの二冊にメドをつけねば……。

『浄土系思想論』鈴木大拙を読み出す。

2020年01月20日 16時20分59秒 | 大震災の中で
『正法眼蔵随聞記』と平行して、
鈴木大拙『浄土系思想論』
を読み出した。『正法~』が自力系禅の教えとすればだとすれば、こっちは明らかに他力的「大乗系」の教えになる(のだろう)高校で教わった範囲だけど。あれ、でもどっちかっていうと、浄土宗というより、浄土真宗なのかな?絶対他力は後者だとならったような。
でも、実は法然さんと親鸞さんの違いをはっきり分かってない。

まあ、いいや(笑)おいおい見えてくるでしょう。

最初に読みだしたところでは、彼岸と此岸の「一如」がポイントになりそうだ。極楽と娑婆は1つではない。2つでもない。
「一如」なのだそうだ。
道元と違って脱力系なのかと、いっしゅん思うが、これはこれで、分別を越えて「霊性」を発揮しなければならないというのだから簡単に分かるというわけには行かないのだろう。というか「分かる/分からない」ではない次元に行く、という意味では道元さんと似ている面もあるのかしら(仏教だから当然?いやいやまだよくわからない)。

そこのところの「ジャンプ」をする前の此岸的準備運動の道具立てが違っていそうだが。

こうなると日蓮系も覗いてみたいが、こちらはいろいろありすぎてとりあえずお正月明けのぼんやりした頭ではまかない切れなさそうだ。
今年前半の課題ホッブズ『リヴァイアサン』に取り組む前の準備運動の一環かな。


『一時間でわかる西洋美術史』宮下規久朗の使い方

2020年01月20日 15時52分21秒 | メディア日記
年末に読んだ『絵を見る技術』秋田早麻子はとても面白かった。

だが、今本棚を整理していて出てきたこの本、
『一時間でわかる西洋美術史』宮下規久朗(宝島新書)
も極めて便利だ。約15 分で通読できた。それはつまり、どこかで断片的にきいたことのある時代区分、絵画のカテゴリーや技法、作者などの知識をキレイに流し込んでくれる本だからだ。

一枚一枚の絵と向き合うには
『絵を見る技術』
が役に立つ、というか必須アイテムだ。
他方!今まで見聞きしてきた体験の整理には
『一時間でわかる西洋美術史』
が圧倒的に便利である。
どちらも間違いなく素人の役に立つと思います。

『正法眼蔵随聞記』を読み出す。

2020年01月20日 14時26分17秒 | メディア日記
道元の言行を書き留めた弟子の懐弉が書き留めたとされる本、『正法眼蔵随聞記』を読み始めた。
これは読み終わることのない本だろうが、色々興味深い。

例えば、

岩波文庫版P31「たとひ、発病して死すべくとも、なほただこれを修くべし病ひ無ふして修せずらこの身をいたはり用ひてなんの用ぞ。病ひして死せば本意なり」

とかいう過激さはとてもついていけないしやりたいとも思わないが、ある種の「清々しさ」すら覚える。

あるいは、師匠は弟子が座禅で寝ていたらぶん殴って拳が折れるほど戒める、それを自分の権力行使の為でなく行うことをよくよく思慮せよ、といったところもビビビびっくりだし、それが「私的な権力行使」にならない保証がどこにあるんだよー、と突っ込みどころ満載なのだが、にもかかわらず、そうか、道元さん、道とはそう言うものか、と納得する。

さらに、訴訟のために一筆書き書いてもらいたい、という人がいたら、厭わずに書いてやることだ、、というのもちょっとビックリだった。世捨て人はそーゆーことに関わらないのかと普通思うところだが、あくまで優しく接してやれ、とのこと。ただ、無理難題を依頼者が言っているときは、その以降を汲んだ上でなお「適切に処理されたい」と書くことも忘れずに、と付け加える。

この厳しさと慈悲の振れ幅が、読んでいてちょっと愉しくなってくるのだ。
修行僧への師匠の鉄拳制裁は、ある種の極端な事例(何せ弟子も支障も世を捨てて修行してる身の上ですからね)であって、なんちゃらヨットスクールとかどこぞの社長さんとか、能力開発講座とかにそのままこの精神を流用されちゃあかなわない。

修行における外化された他者の有り様を、どう描くか、というのは常に大きな課題だろうし、「只管打坐」的禅宗では、修行においてはこーゆーことにもなるって話なのでもあろう。
とてもベタでは読めないが、ネタとしてはいろいろ興味は尽きない。

子猫を奪い合う者に対して師匠が猫を一刀両断するって法話もメチャクチャだし、猫好きはこれだけで禅宗嫌いになるかもしれないけれど、その故事についての道元の答えもふるっている。
一刀両断ではなく、一刀一段であるべきで、猫をぶった切った高僧は、いくら仏法の教えとはいえやっぱり罪を背負ってるよね、と道元は解説している。

「変な理屈捏ねてんじゃねえぞ!座禅だ座禅だおらおらー」

というばかりではなく、夜の講話でこういうことも話してくれるお坊さんはいいな。

ある意味、論語とかプラトンのソクラテス系の話とかと似ている対話編だよね。
厳しくて、「ナンジャコリャ?」とも思うけれど、興味深くもある。
まだ第一(第六まである)しか読了していないけど、十分に面白い。
自分は絶対禅の修行僧になろうと思わないけれど、このテキストを読むのは、あり。
興味深いです。

ただ、木田元かな、解説で書いてある、道元が徹底して拒否した「方便」を駆使している側の宗派のテキストも(もしあるなら)読んでみたい。ただ、そっち系はテキストそのものが「方便of方便」になりかねず、タイトかつソリッドに書いてはくれなそうで、「はてな??」になってしまいかねないかも、だね。

何に膝を屈するのか、何を絶対的な精神の柱とするのか、そんなことを考えてしまう。
そこで、道元が言う「行履」の重要性を思う。
師匠が弟子をただ殴ったら暴行だ。今の世の中なら単なる犯罪にすぎない。
ただ、「先達の行履(あんり=禅僧の日常一切の起居動作)」を重視しつつ修行に励む、という方向性に、理屈だけではない「コモンセンスセンサー」のようなモノを感じもするのだ。

どのみち一筋縄ではいかない道元だし、随聞記は随聞に過ぎないともいえよう。家中で曹洞宗を抜けて無宗門になった我が家としては、いまや無関係でもあるし、厳しい修行などチャンチャラおかしい、とも思う。

でも、そのストイックな姿勢は何か傍らに一度立ってみて、
P25「コモンセンス傍ら事を云ふやうにしてこしら」えてみる異議はあるかも。

関心のある方にはオススメです。でも、こういうのを座右の銘にされて部下に語るような人にはよんでほしくないけどね。

ストイシズムは所詮自らに課する(戯れのもしくは演技の)強制でなければならない。


個人的な橋本治追悼として『ひらがな日本美術史』を読み出す。

2020年01月19日 22時12分42秒 | 大震災の中で
個人的には
『花咲く乙女のキンピラゴボウ』
(こんな題名だったと思うが)
から始まって、『蓮と刀「どうして男は"男"をこわがるのか」』、桃尻語訳、窯変、そして『小林秀雄の恵み』まで、様々な形で恩恵を被ってきた。

天才的でもあるが、ヘンな人でもある。
そしてとにかく、こういう仕事を素人相手にきちんとやってくれる人を、私は他に加藤周一と松岡正剛ぐらいしか知らない。あとは学問か美学しちゃう人が多くて。、あ、國分功一郎さんの名前も挙げておきたい気もするな。迷惑かもしれないけれど、文章を読んでいるだけで、その論理の力だけで惰夫を立たせてくれる。中沢新一さんは、まはや芸の術に近いのかも?
それはさておき、橋本治追悼、である。

七巻本セットで購入して寝かせておいたが、無職の徒と化した今、心して味わいたい(笑)


「しらみずアーツキャンプ 2019」に参加してきた。

2020年01月19日 20時24分55秒 | 大震災の中で
「しらみずアーツキャンプ 2019」
とは、福島県いわき市内郷白水町というところで開催される芸術祭のこと。
かつて炭鉱で栄えた白水の文化や歴史を学ぶイベントがここ3年開催されている。

2019と題名にあるとおり、本来は2019年10月に開催される予定だったが、10月に起こった大規模災害(台風に伴う水害)によって開催ができず、形を変えて今日(2019/01/19)ようやく一部の企画を実行することができた、という。

私は白水の知人から教えてもらい、ちょうど日曜日が空いていたので、ふらりと参加してみた。
私が参加したのは以下の三つのプログラムだった。

1,「講座 やっちき学概論」 9:00~10:15 講師 江尻 浩二郎 於:旧白水小学校

2,選べるフィールドワーク② 公認ガイドといく 石炭(スミ)の道

3,いわき・浦項(ポハン)潮目文化交流 

どれも面白かったのだが、抜群に興味を引かれたのは1、江尻さんの「講座 やっちき学概論」だった。
いわきには「やっちき」という踊りがあったらしい。しかしそれがよく分からない、というところから始まり、いわきに古くから伝わる念仏踊りの「じゃんがら」について、またいわきの盆踊りについて、昭和56年に創作されたいわき踊り、常磐ハワイアンセンターのキャンペーンで取り上げられた「古代やっちき」、従来の盆踊りを壊すようなはちゃめちゃな踊りがそう呼ばれていた?など、よく分からない「ヤッチキ」というものについて、レジュメ17枚に及ぶ丁寧な資料と、ビデオを駆使して「ヤッチキ」とは何か、に迫っていく。
私は実際のところ、寝坊による遅刻で最初の30分を聞き逃してしまったのだが、これは人生最大級の悔恨だった。

いわきといえば「じゃんがら念仏踊り」であり、盆踊りはだいたい日本全国似たようなもの……といったきわめてぼんやりした認識しかなかった私は、大きな衝撃を受けた。


仮説として提示されたものは5つ……というところからしか聞いていないので、全体像は江尻さんにお問い合わせを。

(1)崩して踊ること、お道化て踊ること、やんちゃに踊ること、激しく踊ること、それらを広く「ヤッチキ」と呼んでいたのではないか?少なくてもそういう語幹だったのではないか。

(2)であるならば、「ヤッチキ」が指し示すものは以下の5つに分けなければならないのではないか。
①文句
②節
③振り
④囃子言葉
⑤立場/昨日

(3)そしてこれまで「ヤッチキ」と一括していたものには以下の5つがあるのではないか。
①いわゆる「上三坂のヤッチキ踊り(≒塙町のとびっこ踊り、浅川町の踊り、磯原花園神社の踊り)
②北好間、内郷のあたりで盛んだった、通常の盆踊りの内側で踊る別な踊り
③通常の盆踊りが早間になって早く踊る早踊り(古殿、小名浜など)
④安達郡岩代町のヤッチキ系(一人で別な踊りを踊って輪を壊す)
⑤白水の念仏ヤッチキ

ここら辺りからのお話を理解した限りでは、白水の念仏ヤッチキというものは、戦後すぐ、炭鉱に働く人たちの間で短期間だけおこなわれた、じゃんがら念仏踊りとは異なる、しかし盆踊りやじゃんがら念仏踊りなどとも共通する側面を持つような猥雑で熱狂的な踊りだった……かもしれない、というように受け止めた(繰り返しますが、正確には江尻さんに確かめてくださいね!アーツキャンプ事務局に問い合わせるとなんとかつながる、かもしれません)。

いや、このお話だけでもわくわくした。
北海道や九州の炭鉱の踊りとの関連、福島県から茨城県にかけての盆踊りの関連、じゃんがら念仏おどりとの関連、常磐ハワイアンセンターが仕掛けた地域興しとの関連などなど、地元の「踊り」一つをとっても、幾重にも折り重ねられた織物の残欠からその着物の全体を想像するような楽しさがかんじられる。

第一、江尻さんの発表には、フィールドワークや文献渉猟がとっても楽しい営みだという波動が満ちている。
もちろん、地元の古老の踊りのビデオ撮影、聞き取り調査、全国に渡る踊りの文献検索など、楽しいだけで済むはずのないご苦労がこの資料やビデオからも十分察せられる。
しかしなお、愉しみながら「問い」を重ねていく「知の営み」の豊かさが、確かにここには感じられた。


2の選べるフィールドワーク②は、みろく沢という場所の炭鉱跡地を巡るものだったが、これは個人的には本当に貴重な体験になった。福島県いわき市がかつて炭鉱の町として栄えたことは知っている。そして石炭の需要の低下とともに産業としての炭鉱は衰微していったことも。
しかし、具体的に江戸末期から明治・大正・昭和にかけてどのように炭鉱産業が栄えていき、ぐたいてきにこの内郷の白水のどんな場所でそれが行われていったのか、現地を歩きながら体験するフィールドワークというのは、めちゃめちゃ楽しくかつためになった。
いわき市湯本には「石炭化石館」という展示館があって、炭鉱の歴史や様子が分かりやすく理解できる学習施設になっているのだが、具体的な現場でその土地の風を体に受けながら感じたのは、空調の効いた展示館でボタンを押すと解説がきける環境とは全く異なった意味/意義がある、という(当たり前といえば当たり前の)事実の重さだ。

午後から行われた3の浦項の方々との交流イベントは、残念ながら途中退席してしまったので、まとまった感想を書けないのだが、一つ印象に残ったことをメモしておく。

浦項では地震の被害を受けてから、その町と人々の心と、共同体を回復しようとする営みがいくつかあって、その中に、他の災害や事故で傷ついた人々を繋いでいこうという試みがF5というチーム(今回きてくれた人々にも含まれている)の仕事が紹介されていた。
韓国の他の地域、他の災害、他の被害を受けた人々とつながり、あるいは外国の、たとえば福島県の人々とつながり、対話をひろげ深めることによって精神の復興の試みとしてくという発想は、私にとって新鮮だった。

休憩時、韓国からきた方の一人に
「浦項の地震の被害は、福島の被害と比べることはできません(被害の程度は軽い、という意味で)。その点をいわきの方がどう感じられるか心配です。いかがですか」
と尋ねられた。

実は、その問いは、私自身、この5年間エチカ福島というワークショップに携わってきて感じていた疑問でもあったから、逆に「ああ、つながっているんだな」と意を強くした。

福島県でも、「福島のことをわかりもしないでしゃべるな」と言わぬばかりの態度を取る人もいる。
それほど攻撃的ではなくても、「福島にはもう大きな問題はないのです。十分復興していけるのです。」と発信したい人もいるし、「他方いろいろな立場があって口ごもるのもわかる」とも言えるし、「福島は未曾有の原発事故のまっただ中にいって、大きな傷を背負ったままではないか」と強く抗議する方がいるのも分かる。

私は口ごもりつつ、それでもなお「表現」と「出会い」のきっかけを模索したいという辺りをうろうろしている。うろうろしつつも、「声の複数性」は担保したいと思う。
経済や政治や既存の壊れかけた共同体の網の目に隠れてしまって聞こえない声に耳を澄ませ続けたいと思う。

そのためにはこういう文化=アートの事業が絶対に必要だ、と改めて思う。

いわきにはたくさんの活動があって、ありがたい。

文化庁の助成は今年限りで、来年以降はこの形では続かないとの噂も聞いた。

田人地区の芸術祭もそうだけれど、地域を具体的にフィールドワークしつつ感じ、考えることを、こういうイベントをきっかけに自分のものにしていかねば。そう改めて考えた。
 



読み差しになっていた『宗教的経験の諸相』上下を再開!

2020年01月18日 18時19分59秒 | メディア日記
年末年始、とりまぎれて途中になっていたW.ジェイムズの『宗教的経験の諸相』上下巻を、夕方から読み出す。

『プラグマティズム』
が主著なのかもしないし、「心理学」のフィールドの人なのかもしれないが、手に取ったこちらの本(講義録)が手になじんだのでまずはこれから。
多分手になじんだのは、特別に新しい知見がほしかったからではなく、むしろ今自分の求めているものが「常識」に近いものであり、この人の書き込みぶりが「常識」に近く心安く読めそうな気がしたからだろうと思う。とは言え「宗教的経験」である。興味はあるが信仰を持たない自分にどれだけ読めるのか。

あり得べき「常識」を読み解く、というほどのスタンスで再度挑戦。
宗教的経験を今常識の範囲内で考えることは、(少なくても私個人にとって)とても重要なことだ。

読了『千畝の記憶』

2020年01月18日 17時19分21秒 | メディア日記
エチカ福島に参加してくださっている方が杉原千畝と同僚だったことがある、と教えてもらい、エピソードをいろいろ伺っていた。
今度!その知人のインタビューを含む本が出版されたというので早速取り寄せて読んだ。

杉原千畝の生い立ちから仕事ぶり、ビザ発給のドラマチックな業績、地元の顕彰などが書かれていて興味深かった。

個人的にはその中でも、戦後の不遇な時期の杉原千畝の様子に胸が打たれた。

ある種の「善」あるいは「正義」は、必ずしもその実現を私たちに知らされないままになることがあり、そしてそれを為した人もまた、そのことを知られないままに生き、死んでいく、ということ。
心に染みる。

また、最終章、現代の難民の記述は、新聞社のお仕事としてありがたく読ませてもらった。

この本のメッセージを受け取って、さてどうするか?

『十二国記』の新作四冊、読了!

2020年01月18日 17時04分23秒 | メディア日記
『十二国記』の新作『白銀の墟 玄の月』四巻本を読了。
年末年始の仕事を終えた気分だ。
昨日夜中に読み終わったため、なかなか寝付けずに参った。

中身について言うと無論文句なしに面白いのだが、解説子も指摘していたとおり、十二国記の世界観そのものの物語、というに近い。
失われた「王」の探索にしては長すぎる。道を見失った「偽王」の物語というには物足りない。

むしろ失われた「王」とその「道」および「失道」をめぐる庶民、兵士、将校、宗教者、官僚etc.様々な国の人々の想いに焦点が当てられ、丁寧に描かれている。

だかや今回は王の物語、というより「麒麟と王」というシステムの物語、という感じもする。
麒麟のシステムに馴染んでいる十二国記ファンには泣ける話です。
初心者は、これを、読む前にぜひシリーズを読破してほしいと思うなあ。

ここに描かれているもっとも特徴的なことの一つは、限りある「天命」のただ中で懸命に生きる者たちを時には愛おしく時には冷酷に描く小野不由美の筆致。それが主題の一つなんだろうという印象。
よくもまあ20年近い時を経て続編を書いてくれたものだ。
作者に感謝すると同時に、オレの人生が終わるまでには完結しないんだろうな、とも思うと、ちと切ない(笑)




十二国記『白銀の墟 玄の月』3巻目に入る!

2020年01月15日 16時26分07秒 | メディア日記
2巻目の後半まできて、今までの作品とは物語の性質が大きく異なっているのに漸く気づかされる。
単に、謀反によって傷つき落ちぶれ身を隠ている王のことを家臣が探す話というばかりではなく(それが物語の主要エンジンてあることはたしかなのだが)、それがもっと大きな物語の「伽藍」の一部に過ぎない(のかもしれない)、と知らされていく面白さを、いま味わっている。
これから伏線の回収にかかる後半、となるのだろうが、語られるのは単なる貴種=王の流離の話でもなければ、隠れた王=聖杯を探す話でもない。
話の主人公は、国か摂理か。
そこに絡む麒麟というものの設定がこれほどおもしろい話に広がるとは正直思ってもみなかった。
20年かけて(時を隔てつつ)これを書く小野不由美の脳みその中を一度観てみたいと思う。
さて、後半を読み進めねば!

いよいよ読み出す『白銀の墟 玄の月』小野不由美

2020年01月13日 17時04分54秒 | メディア日記
年末から読もう読もうと思っていた『十二国記』の新刊
『白銀の墟 玄の月』(全4冊)
にようやく手を着けた。
読み始めるための準備に1ヶ月余りかかった勘定になる。

だが、小野不由美の代表作であり、日本のファンタジーの代表作の一つでもある『十二国記』のシリーズは、短編を含めても16年以上前から新刊が出ていない。
だからシリーズ最新刊がでたからといって直ぐには読み始めることが出来ない。

個別のエピソードを描いた短編なら別だが、シリーズ本編、さかも最大の四冊ボリューム、となれば、この新刊を読むためにはまず既刊本10冊以上を復習しなければならない、ということになる。
これは古くからの『十二国記』ファンの多くが肯いてくれるはずだ。実際周りにいる多くの読者は本棚の奥を探しあるいは図書館に行き(あろうことか図書館では友人のひとりと鉢合わせまでした)、旧作の読み直しを「強いられた」のだ(笑)

私自身は20年も前に妻に渡したきりだったので、違う家に住む今となっては改めて調達するしかない。退職後の身にとって一度読んだ本を買うのはしんどい。図書館を探し回ってようゆく一セット発見し、読み始めた。
一旦巻を開けばグイグイ読者を引き込む力はスゴい。
前日譚の『魔性の子』を含めて1日1.5冊ぐらいのペースでシリーズ本編の長編は読み終えたのだが、不思議なことに残りの短編集二冊にたどり着いて、パタリと読む手が止まってしまった。
その理由はまだわからない。ただ既刊をコンプリートしてから次にいきたいと思うが故に、身動きがとれないまま年末年始を過ごしてしまった。
年の始めから別の本を数冊読んでいるうちにようやく「短編集2冊(『華胥の夢』と『丕緒の鳥』)は後回しでもいいか、と思い直し、今日の午後から読み出した。
今度は夜寝られるのかどうかが心配になる。

人騒がせだかうれしい限りの新刊四冊。ここまで来たからには読者である私の寿命が尽きぬうちになんとかシリーズ完結編まで読みたいものだが……。
というわけで、読みます!
万が一小野不由美の『十二国記』シリーズ未読の方がいらっしゃいましたら、とにかくぜひ、とオススメしておきます。
『空色勾玉』の荻原規子、『獣の奏者』の上橋菜穂子と並んで、お勧めできる日本のファンタジー作家です。
『稲荷山戦記』のたつみや章も大好きですけどね。

あとはやっぱり日本のファンタジーといえば『光車よ、まわれ!』天沢退二郎ですかねえ。


長尾龍一『リヴァイアサン』を読む

2020年01月13日 13時03分04秒 | メディア日記
25年前出版された講談社学術文庫の
『リヴァイアサン』長尾龍一
を読んだ。とても面白かった。20世紀前半のドイツにおける
ヨハン・ケルゼン
カール・シュミット
の2人についてその法律論および国家論を、それぞれのホッブズ受容を比較検討しながら考察していく一冊。
今年読む予定の
ホッブズ『リヴァイアサン』
に取り掛かる準備運動としては好適な文庫本だった。

マルキシズムとナチズムを眼前に踏まえつつ、アナーキズムとカトリシズムを縦軸に置き、「自然状態」、「自然法」、「擬制的」な国家・神の人格、などなど、基本的なものの見方に触れつつ説明を展開してくれている本で、非常に勉強になった。レオ・シュトラウスとの距離、ルソーの「取り上げ方」、スピノザの「ダメさ」の扱い、また、ケルゼンとシュミットの二人に限らずホッブズが歴史的にどう受容されてきたか、などなどの整理もあって、国家論に興味がある素人にとってはとても得るものが多かった。

勝手なことをいわせてもらえば、最終的な著者の主張は正直チャンチヤラおかしいという感じはする。だが、そんなことは大した問題ではない。
この本を読んでみると学問って、その人の主張が問題じゃないんだということが少しだけ分かってきた感じだ。
もう一度國分さんの『近代政治哲学』をおさらいしてからホッブズにチャレンジしてみようかな。

今年三冊目『シーオグの祈り』ジェイムズ・ヘネガン

2020年01月07日 16時59分08秒 | メディア日記
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大傑作というわけではないけど、村や街の匂いのするステキなお話。
タイムスリップは、少年が人々に出会うための方策(ジャンル)と見ればいいでしょう。

むしろこの作品の面白さの大きなウェイトを占めているのは、孤児の主人公がリヴァプールで繰り広げる里親や社会福祉事務所とのやりとりと、タイムスリップした先で出会う100年前のアイルランドでの「家族」との対比を読む楽しさ、だろう。
そのことさえ受け入れられれば、かなり「読める」んじゃないかな。
結末が二種類あるらしいけれど、私はこの初版形で全然問題なし、だと思う。だってYA(ヤングアダルト)は物語であって、「こういうお話だよ」ってことを共有できることが必要なんだもの。これは仕掛けとして十分共有できると思うな。
読むモノに迷って、YA本が嫌いじゃなければ手にとっていい一冊。