9月12日(火)雨【華綾慧春尼最終回-捨身供養】
今なお大雄山において、慧春尼信仰が強く続いているのは、慧春尼の火定(仏道の信仰者が自らの身を火に投じて涅槃に入ること)によるであろう。自らの身を燈明と化して仏に供養し、火定三昧に入って示寂されたことの神力が、今に及んでいると信じられているのである。焼身自殺と間違える人がいるが、慧春尼様の場合は捨身(焼身)供養という。
焼身供養を支える信仰は『法華経』の「薬王菩薩本地品」による。日月浄明徳仏の弟子に一切衆生喜見菩薩という弟子がいらっしゃった。この菩薩は自ら進んで苦行をし、現一切色身三昧(一切衆生の形体を自由に現すことのできる三昧)を得るのだが、これは法華経を聞いた功徳であるとして、日月浄明徳仏と法華経を供養した。その供養に旃檀の香を降らしたりあらゆる供養をするが、「我雖以神力。供養於仏。不如以身供養(われ神力を以て仏を供養したてまつれりと雖も、身を以て供養せんには如かず)」として、ついに自らの身を燈明として供養するに及んだのである。釈迦在世のおりの薬王菩薩はこの一切衆生喜見菩薩のことであるという。
二十年ほど前、韓国の友人の寺を訪ねたことがある。そこには、高僧の火定供養塔が祀られていた。また友人の姉にあたる人も尼僧であるが、指を捨身供養したという。韓国ではつい最近まで、指の捨身供養は信仰の証としてなされていたようである。その後慧春尼の火定の話を聞いたので、慧春尼様は捨身供養なさったのだと、私には抵抗無く受け入れられたのである。
なぜそれほどまでのことをなさったのであろうか。『法華経』信仰だけであろうか。周りの者が満ち足りて暮らしていたならば、それは無用の供養であったろう。身を捧げて一切衆生の成仏を願うのは、衆生が哀れであるからに他ならないのではなかろうか。一人残らず成仏できることを説く『法華経』を信じることが、とりもなおさず哀れな一切衆生を救える道なのだと、師は信じたのではなかろうか。
単に自らの信仰の深さを試すだけのことでは、身を火で焼くようなことはできないだろう。翻ってイスラム教系の人たちの自爆テロに思いを馳せるとき、単に破壊だけの意味であのようなことはできなかろうと思うのである。同朋の苦を救い、よりよい社会の実現を願ってでなくては、自らを爆弾と化して死ぬようなことはできないだろう。且つ民族の屈辱を拭うという尊厳をかけての闘いでもあるだろう。
イスラムの人たちの団結の強さと同朋愛は世界に冠たるものであろう。英米等の白人社会が、自分たちが一番であるという自負の過ちを改めない限り、この闘いは終わりがないではなかろうか。しかしイラクに於ける同朋や無垢の子どもたちを多く巻き込んでの自爆は、もはや全く違った権力闘争になってしまっている。
アメリカにおいてもイギリスにおいてもどこであろうと、無垢の人々を巻き込む自爆テロは殉教とは到底言えない。しかし同朋を思う純粋な熱い思いから、自爆という行動に走っている若者たちも多いのではなかろうか。アラーの神はそれを許されていらっしゃるのか。無垢の人々も巻き込むことを許されていらっしゃるのか。
〈原文〉
師暮年積薪於最乗三門前盤石上。以作柴棚。自秉火入定於火焔裡。及、火熾烟漲。菴來問曰。尼熱乎尼熱乎。師烈焔中抗聲曰。冷熱非生道人之所知。恬然化於火焔裡。衆収骨。塔于攝取菴。最乗堂前有火定石。今猶存矣。
〈訓読〉
師、暮年に薪を最乗三門の前盤石上に積み、以て柴棚を作り、自ら火を秉(とも)して火焔裡に入定す。火熾の烟り漲るに及んで、菴來りて問うて曰く、「尼よ熱きか、尼よ熱きか」と。師、烈焔の中、聲を抗して曰く、「冷熱は生道人の知る所に非ず。」恬然として火焔裡に化す。衆、収骨し、攝取菴に塔す。最乗堂前に火定石有り。今猶お存す。
慧春尼は老年になって、最乗寺三門前の石の上に薪を積んで、柴棚を組み、その上で自ら火を放って火焔の中で坐禅を組んだ。辺り一面煙が立ちこめるに及んで、了庵禅師も駆けつけた。「尼よ熱かろう、尼よ熱かろう」と言った。慧春尼は燃えさかる炎の中から「冷熱は未熟な僧侶なんぞには分かるまい」と逆らって言った。そして何事もないかのように平然として、炎の中に消えて逝かれたのである。大衆はお骨を集めて攝取庵に塔を造った。最乗寺の堂の前には火定石があり、今なお有る。
*最乗寺の伝承によると、慧春尼の火定は応永九年(1402)五月二十五日といわれている。火定石も慧春尼谷に今なおあり、慧春尼堂も祀られている。
*イスラムの人々も自爆する勇気があるのなら、他人を巻き込まないで、ひたすら神に同朋の幸せを願い、自分一人で捨身供養したほうがよいのではなかろうか。慧春尼の光明は、六百年以上経った今も、人々の信仰を集め、大雄山を照らし続けているのである。是非イスラムの人々の意見を聞かせてもらえれば有り難い。かつて飛行機の中で、イスラム教の若者と隣同士になって話したとき、「イスラム教は神の力」とどこかから聞こえた声を忘れられない。あの砂漠の国で力を合わせて助け合って生きるように、イスラム教は神の力を示されたのだと直感的に感じた。その時から私の偏見は消えたのだが、五年前、世界貿易センタ-が崩れていく映像が流れた時、思わず「テロだ」と叫んだショックを忘れられない。世界中の人々は、地球上の同朋である筈なのに。
今なお大雄山において、慧春尼信仰が強く続いているのは、慧春尼の火定(仏道の信仰者が自らの身を火に投じて涅槃に入ること)によるであろう。自らの身を燈明と化して仏に供養し、火定三昧に入って示寂されたことの神力が、今に及んでいると信じられているのである。焼身自殺と間違える人がいるが、慧春尼様の場合は捨身(焼身)供養という。
焼身供養を支える信仰は『法華経』の「薬王菩薩本地品」による。日月浄明徳仏の弟子に一切衆生喜見菩薩という弟子がいらっしゃった。この菩薩は自ら進んで苦行をし、現一切色身三昧(一切衆生の形体を自由に現すことのできる三昧)を得るのだが、これは法華経を聞いた功徳であるとして、日月浄明徳仏と法華経を供養した。その供養に旃檀の香を降らしたりあらゆる供養をするが、「我雖以神力。供養於仏。不如以身供養(われ神力を以て仏を供養したてまつれりと雖も、身を以て供養せんには如かず)」として、ついに自らの身を燈明として供養するに及んだのである。釈迦在世のおりの薬王菩薩はこの一切衆生喜見菩薩のことであるという。
二十年ほど前、韓国の友人の寺を訪ねたことがある。そこには、高僧の火定供養塔が祀られていた。また友人の姉にあたる人も尼僧であるが、指を捨身供養したという。韓国ではつい最近まで、指の捨身供養は信仰の証としてなされていたようである。その後慧春尼の火定の話を聞いたので、慧春尼様は捨身供養なさったのだと、私には抵抗無く受け入れられたのである。
なぜそれほどまでのことをなさったのであろうか。『法華経』信仰だけであろうか。周りの者が満ち足りて暮らしていたならば、それは無用の供養であったろう。身を捧げて一切衆生の成仏を願うのは、衆生が哀れであるからに他ならないのではなかろうか。一人残らず成仏できることを説く『法華経』を信じることが、とりもなおさず哀れな一切衆生を救える道なのだと、師は信じたのではなかろうか。
単に自らの信仰の深さを試すだけのことでは、身を火で焼くようなことはできないだろう。翻ってイスラム教系の人たちの自爆テロに思いを馳せるとき、単に破壊だけの意味であのようなことはできなかろうと思うのである。同朋の苦を救い、よりよい社会の実現を願ってでなくては、自らを爆弾と化して死ぬようなことはできないだろう。且つ民族の屈辱を拭うという尊厳をかけての闘いでもあるだろう。
イスラムの人たちの団結の強さと同朋愛は世界に冠たるものであろう。英米等の白人社会が、自分たちが一番であるという自負の過ちを改めない限り、この闘いは終わりがないではなかろうか。しかしイラクに於ける同朋や無垢の子どもたちを多く巻き込んでの自爆は、もはや全く違った権力闘争になってしまっている。
アメリカにおいてもイギリスにおいてもどこであろうと、無垢の人々を巻き込む自爆テロは殉教とは到底言えない。しかし同朋を思う純粋な熱い思いから、自爆という行動に走っている若者たちも多いのではなかろうか。アラーの神はそれを許されていらっしゃるのか。無垢の人々も巻き込むことを許されていらっしゃるのか。
〈原文〉
師暮年積薪於最乗三門前盤石上。以作柴棚。自秉火入定於火焔裡。及、火熾烟漲。菴來問曰。尼熱乎尼熱乎。師烈焔中抗聲曰。冷熱非生道人之所知。恬然化於火焔裡。衆収骨。塔于攝取菴。最乗堂前有火定石。今猶存矣。
〈訓読〉
師、暮年に薪を最乗三門の前盤石上に積み、以て柴棚を作り、自ら火を秉(とも)して火焔裡に入定す。火熾の烟り漲るに及んで、菴來りて問うて曰く、「尼よ熱きか、尼よ熱きか」と。師、烈焔の中、聲を抗して曰く、「冷熱は生道人の知る所に非ず。」恬然として火焔裡に化す。衆、収骨し、攝取菴に塔す。最乗堂前に火定石有り。今猶お存す。
慧春尼は老年になって、最乗寺三門前の石の上に薪を積んで、柴棚を組み、その上で自ら火を放って火焔の中で坐禅を組んだ。辺り一面煙が立ちこめるに及んで、了庵禅師も駆けつけた。「尼よ熱かろう、尼よ熱かろう」と言った。慧春尼は燃えさかる炎の中から「冷熱は未熟な僧侶なんぞには分かるまい」と逆らって言った。そして何事もないかのように平然として、炎の中に消えて逝かれたのである。大衆はお骨を集めて攝取庵に塔を造った。最乗寺の堂の前には火定石があり、今なお有る。
*最乗寺の伝承によると、慧春尼の火定は応永九年(1402)五月二十五日といわれている。火定石も慧春尼谷に今なおあり、慧春尼堂も祀られている。
*イスラムの人々も自爆する勇気があるのなら、他人を巻き込まないで、ひたすら神に同朋の幸せを願い、自分一人で捨身供養したほうがよいのではなかろうか。慧春尼の光明は、六百年以上経った今も、人々の信仰を集め、大雄山を照らし続けているのである。是非イスラムの人々の意見を聞かせてもらえれば有り難い。かつて飛行機の中で、イスラム教の若者と隣同士になって話したとき、「イスラム教は神の力」とどこかから聞こえた声を忘れられない。あの砂漠の国で力を合わせて助け合って生きるように、イスラム教は神の力を示されたのだと直感的に感じた。その時から私の偏見は消えたのだが、五年前、世界貿易センタ-が崩れていく映像が流れた時、思わず「テロだ」と叫んだショックを忘れられない。世界中の人々は、地球上の同朋である筈なのに。