風月庵だより

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前後際断について

2007-05-19 18:04:54 | Weblog
5月19日(土)曇り時々雨【前後際断について】 (昨日の茜雲の湧いたところ、今朝の雲は薄墨色)

先週、トラックに「前後断」と書かれていたことについて紹介した。しかし仏教語としては「前後断」が本来の文字であることも紹介した。そしてあまり人口に膾炙かいしゃしていない言葉ではなかろうか、と書いたのであるが、意外にもある野球選手のグローブに書かれていたりするそうである。その意味としては、前に投げた球にとらわれず、次の送球に全力を投ずる、というようなことであるそうだ。

やはり、前後を裁断するというような意味ととられているようである。果たして『大智度論』においてはどのような解釈がなされているか探してみた。『大智度論』は『摩訶般若波羅蜜多経(大品般若経だいぼんはんにゃきょう)』の注釈書である。
〈原文〉
云何菩薩摩訶薩為世間洲故發阿耨多羅三藐三菩提心。須菩提。若江河大海四邊水斷是名為洲。須菩提。色亦如是。前後際斷。受想行識前後際斷。乃至一切種智前後際斷。以是前後際斷故。一切法亦斷。須菩提。是一切法前後際斷故。即是寂滅即是妙寶。所謂空無所得。愛盡無餘離欲涅槃。須菩提。菩薩摩訶薩得阿耨多羅三藐三菩提時。以寂滅微妙法為眾生說。須菩提。是為菩薩摩訶薩為世間洲故發阿耨多羅三藐三菩提心。(『摩訶般若波羅蜜多経』巻十五「知識品第五十二」T8-332b)
〈訓読〉
云何なるを菩薩摩訶薩は、世間の洲の為の故、阿耨多羅三藐三菩提心を發おこすとなすや。須菩提よ。若し江河、大海の四邊の水を斷ずるは、是を名づけて洲と為す。須菩提よ。色も亦た是の如く、前後際が斷じ、受想行識も前後際が斷じ、乃至一切種智も前後際が斷ず。是の前後際を斷ずるを以ての故に、一切法も亦た斷ず。須菩提よ。是の一切法は前後際が斷ずるが故に、即ち是れ寂滅、即ち是れ妙寶なり。所謂いわゆる空にして所得無く、愛盡き餘無く欲を離れて涅槃す。須菩提よ、菩薩摩訶薩は、阿耨多羅三藐三菩提を得る時、寂滅微妙の法を以て衆生の為に說く。須菩提よ、是を菩薩摩訶薩は、世間の洲の為の故、阿耨多羅三藐三菩提心を發すというのである。(『摩訶般若波羅蜜多経』巻十五「知識品第五十二」T8-332b)
〈試訳〉
どのようなことを、菩薩摩訶薩は、世界の洲を見たことをきっかけとして、この上ない、正しい悟りの心をおこすというのであろうか。須菩提よ、江河、大海の四邊の水をせき止めらているのを、これを洲という。須菩提よ、色もまたこのように、前後際が断じており、受想行識も、また仏の智慧も、前後際が断じている。このように前後際が断じていることを以て、一切法もまた断じているのである。須菩提よ、この一切の法は前後際が断じているので、即ち寂滅、即ち妙宝なのである。よく言われるように、空であり、掴めるようなものではなく、執着は尽きて、煩悩は無く、欲を離れて、寂靜の境に入るのである。須菩提よ、このことを、菩薩摩訶薩は、世間の洲を見たことをきっかけとして、この上ない、正しい悟りの心をおこすというのである。

訂正「為世間洲」の訳について、フクロウ博士よりコメント欄にご意見を頂きました。〈「世間(生きとしいける者たち)のために、洲(よりどころ)となるために」と訳すほうがよいのかもしれません。〉と。また『小品般若経』の該当箇所には「為世間作洲(世間の為に洲を作す)」と鳩摩羅什(344~413)は訳していますのでよりはっきりと「洲」は「拠り所」と訳すのが妥当であるとお教え頂きました。そして洲という言葉に掛けて、さらに前後際断の説明の方便として使っていく、というということになるようです。上記の訳は間違っていますので、書き加えました。

『大智度論』の中には「前後際断」の語、それ自体についての注釈は無い。この箇所についての注釈としては、「究竟道」と「世間洲」についてあるので、その注釈のなかに前後際断について説かれているので、それをみてみたい。
〈原文〉
究竟道者所謂諸法實相畢竟空。色等法前際中無後際中亦無現在中亦無。凡夫人憶想分別業果報諸情力故有顛倒見。聖人以智慧眼觀之皆虛誑不實。如前後中亦爾。若無先後云何有中。能如是為衆生說法。則安處衆生於究竟第一道中。世間洲者如洲四邊無地。色等法亦如是。前後皆不可得。中間如究竟道中破。入前後空故。中間亦空。(『大智度論』巻七十一「釋善知識品第五十二」T25-558c))
〈訓読〉
究竟道とは、所謂、諸法實相畢竟空なり。色等の法は、前際の中にも無く、後際の中にも亦た無く、現在の中にも亦無し。凡夫の人は、業果報、諸の情力を憶想分別するが故、顛倒の見有り。聖人は、智慧の眼を以て之を觀るに、皆な虛誑きょおう不實なり。前後中の如きも亦た爾なり。若し先後無くんば云何が中有らん。能く是の如く衆生の為に法を説いて、則ち衆生を究竟第一道の中に安處す。世間洲とは、洲の如く、四邊に地無し。色等の法も亦た是の如し。前後皆な不可得なり。中間は究竟道の中に破するが如し。前後空に入るが故に、中間も亦た空なり

試訳をしても分かりずらいので(私自身にも難しいのだが)、説明を試みたい。

一切法は空であるのだから(全てのものには掴めるような自性はないのだから)、(次際に引きずって持って行くように続いていくものはなく)、前際(過去)も、後際(未来)も、中際(現在)も断滅しているのである。全てのことはそれ自体で存在しているのではなく、諸々の縁によってあるのであり(衆縁和合している)、実体がないのだから、先も後も中も断滅しているのである。

これが自分とも、これが自分のものとも掴めるようなものはないのだから、一切の執着を放ちなさい、という教えがあるのだと、「前後際断」の言葉を読み取ることになるだろう。

このことを衆生の為に説くのは、究竟第一道(この上ない最高の悟り)に安らがせたい為なのである、と『大智度論』では注釈しているわけである。

『大智度論』は現在さえも無い、と注釈しているが、過去と未来は無いが、絶対の現在はある、という受け取り方もあり、そのように解すると、「今を生きる」という解釈も出てくることになろう。このような解釈は多分に禅的解釈といえるだろう。

「前後際断」を一切を空であることを観て、執着しない生き方を学ぶか、過去や未来との対比として現在をとらえるのでなく、絶対の今の一瞬一瞬ととらえて、刻々を大事に生きるか、どちらの受け取り方もあり、であろう。

前後際断という一語にも、仏教の教えの根本が学べるのである。

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8 コメント

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難しゅうおます (閑人)
2007-05-20 19:22:58
風月はんに解説してもろうたんやけど、難しゅうて、よう分かりまへん。そこでパンチライン(最後の赤字のところ)に頼りますねんけど、ここでも二つの受け取り方(解釈?)があるんやと、言われて、わてみたいに分かってへん者は、どっちも選べへん。
片や執着せえへん、片や大事に生きる(即ち現世への執着やおまへんか)では、正反対やと聞こえますねんけど。
一切が空なら、今を自分の好きなように(執着しないではのうて、むしろ執着して、はたまた大事にではのうて、いい加減に)生きるゆうんでええんでっしゃろか。
所詮好きなように生きたかて、それもまた空。誰からも咎められるもんやおまへんな。
ところで、ブログの編集変えはったんやね。年寄りには字がちっこうてかないまへんな。前のほうがよかったんやけど。
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閑人さんへ (風月)
2007-05-20 20:00:20
確かにどちらかの解釈にしてくれと、言いたいでしょう。難しいです。

しかし仏教の根本は、一切は空だから、執着しないという、ここに決着するようです。

ここの説明(解説というほどはできませんが)を、分かりやすくできるように努力しますので、ゆっくりとお待ち下さい。

少し体裁を変えましたが、字を大きくしたいと思っています。また変えてみます。
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閑人さんへ (風月)
2007-05-21 13:59:02
私のブログは、ところどころ後から書き換えることがあります。記事が掲載されてから、2,3日は文章が変わるときもありますので、2、3日後ぐらいに読んで頂けると、推敲されたり、間違いを直したりの文になっていると思いますので、宜しくお願い致します。

これは訓読の部分と試訳の部分を直しました。
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訂正 (Dr Owl)
2007-05-21 16:46:22
文中に引用されていた経文ですが、『大般若波羅蜜多経』(玄奘訳)での対応部は、次のようになっておりました。

是爲菩薩摩訶薩欲作世間究竟道故發趣無上正等菩提。具壽善現白佛言。世尊。云何菩薩摩訶薩爲與世間作洲渚故發趣無上正等菩提。佛言。善現。譬如巨海大小河中高顯可居。周迴水斷説名洲渚。如是善現。色前後際斷。受想行識前後際斷。・・・(中略)・・・諸佛無上正等菩提前後際斷。善現。由此前際後際斷故一切法斷。善現。此一切法前後際斷即是寂滅。即是微妙。即是如實。謂空無所得道斷愛盡。無餘離染永滅涅槃。善現。菩薩摩訶薩求證無上正等菩提。欲爲有情宣説開示如是寂滅微妙之法。善現。是爲菩薩摩訶薩爲與世間作洲渚發故趣無上正等菩提。

「世界の洲を見たことをきっかけとして」と訳された部分は、玄奘訳では〈爲與世間作洲渚故〉となっております。

当該部は「世間(生きとしいける者たち)のために、洲(よりどころ)となるために」と訳すほうがよいのかもしれません。

私から言い出しておいて、申し訳ございません。


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Dr. Owlさんへ (風月)
2007-05-21 23:26:51
いつもながらお教え有り難うございます。この件に付きましてもお教えいただいても、なかなか理解しきれないので、恐縮です。

資料を持ってきましたので、もう少し考えて、至らないところは書き換えたいと思います。

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フクロウ博士へ (風月)
2007-05-23 11:01:14
追加で訂正を書き加えられました。有り難うございました。
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前後ありといへども (copermix)
2010-07-05 12:47:42
はじめまして。
お陰さまでひとつ疑問が解けました。

正法眼蔵・説心説性の巻に

被問の正当恁麼時たれかこれを遮天蓋地にあらずとせん。照古也際断なるべし照今也際断なるべし照来也際断なるべし照正当恁麼時也際断なるべし。

とあり、意味がわからず困っておりました。「前後際断」と同じ趣旨と考えてよいのですね。古をみるに前際なく、来をみるに後際なし。時に際なく、正当恁麼時は天を遮り地を蓋うと。

関連する用法を正法眼蔵の中にもう一つ見つけました。「古鏡」の巻です。

如一面古鏡の道は一面とは辺際ながく断じて内外さらにあらざるなり。
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copermix氏へ (風月)
2010-07-06 23:22:09
コメント有り難うございました。

『正法眼蔵』の参究、かなり深くなさっているので、こちらがお教え頂きます。

私は、『眼蔵』の参究は今三か、五か百です。出家前からも度々にご提唱をうかがってきましたが、なかなか分からず、実は、これからようやくスタートラインに立てるか、というところです。

今後もご教授ください。

そちらのブログにお邪魔してきました。
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