![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/e2/e81aa30062d8cba017b6b8cb190f7052.jpg)
9月10日(月)曇り時々雨【翻る、五色の幡、風に】。
昨日は群馬県の安中にある桂昌寺というお寺で、晉山式(しんさんしき-お寺の新しい住職として、正式に入寺する式)という行事があって、随喜(ずいきーお手伝いのこと)してきた。お寺の真ん前には九十九曲川(つくもがわ)が流れていて、一昨日まで台風九号で増水していたそうだが、式の当日は台風一過の晴天に恵まれた。
さて、風にひるがえる五色の幡はたを見ていて、六祖慧能ろくそえのう(638~713)の風幡ふうばんの話を思い出した。慧能さんが五祖弘忍ごそこうにん(688~761)から法を嗣いでから五年ほど後に、広州の法性寺というお寺にやってきた。丁度印宗法師が涅槃経の講義しているところだったという。そのときたまたま風が吹いてきて幡がゆらいだ。
ある僧が言った、「幡が動いている。」べつの僧が言った、「あれは風が動いているのだ」と。そう言って争っているのを見て、慧能さんは言われた、「幡動き風動くに非ず、人の心自ずから動くなり(幡が動くのでも、風が動くのでもないよ、君たちの心が動いているのだよ)」と。このやりとりを耳にした印宗法師は(慧能の力量を)恐れてぞっとしたという。
『六祖壇経ろくそだんきょう』にはこのような話が収録されている。達磨さんから数えて六番目の祖師である慧能和尚は、出家する前は薪を売って生計を立てていたと書かれている。文字も読めなかった、とも書かれているが、文字通りには受け取れないようだ。涅槃経も法華経もその講義をしたことが伝えられている。ただ四書五経や諸々の書に通じている学者ではなかったということだろう。
この風幡の話では、一切の存在や現象は、ただ心の現れにすぎないのだということを慧能さんは教えたと、この話はとってよいのだろう。
また、現象を現象として認識することはよいが、それに是非の分別をつけることの過ちを指摘しているともとれようか。
身近な問題に置き換えて考えれば、例えば、辛いことがある。しかし、どこに「辛い」という実体があるのだ、それを見せてみよ、見せられないだろう、自分の心が創り出しているにすぎないのだ、と気がつけば、自ずと「辛い」を手放せるのではないか、というふうに考えることができる。いろんな感情や認識も空の雲のようだと思うこともできようか。さて今日はどんな雲が心に浮かんでいるのやら、とどこかに気楽に眺める気持ちを持ってはどうだろう。(厳密に言えば、気持ちは持てませんけれど)
辛い辛いの、正体見たり、我が心
苦しい苦しいの、正体見たり、我が心
あの人嫌だ嫌だの、正体見たり、我が心
自分をも嫌だ嫌だの、正体見れば、我が心
はてさて我が心さえ、実はどこにもありゃしない
風にゆらぐ五色の幡よ。ゆらゆらと楽しそうにゆれながら、お寺の祝い事を眺めているのかい。あ、幡が動いた、とも、風が動いたとも争う人も、その下には無い。
ただ幡の下でくりひろげられる儀式の上に翻っているだけ。おめでたい晉山式でした。
昨日は群馬県の安中にある桂昌寺というお寺で、晉山式(しんさんしき-お寺の新しい住職として、正式に入寺する式)という行事があって、随喜(ずいきーお手伝いのこと)してきた。お寺の真ん前には九十九曲川(つくもがわ)が流れていて、一昨日まで台風九号で増水していたそうだが、式の当日は台風一過の晴天に恵まれた。
さて、風にひるがえる五色の幡はたを見ていて、六祖慧能ろくそえのう(638~713)の風幡ふうばんの話を思い出した。慧能さんが五祖弘忍ごそこうにん(688~761)から法を嗣いでから五年ほど後に、広州の法性寺というお寺にやってきた。丁度印宗法師が涅槃経の講義しているところだったという。そのときたまたま風が吹いてきて幡がゆらいだ。
ある僧が言った、「幡が動いている。」べつの僧が言った、「あれは風が動いているのだ」と。そう言って争っているのを見て、慧能さんは言われた、「幡動き風動くに非ず、人の心自ずから動くなり(幡が動くのでも、風が動くのでもないよ、君たちの心が動いているのだよ)」と。このやりとりを耳にした印宗法師は(慧能の力量を)恐れてぞっとしたという。
『六祖壇経ろくそだんきょう』にはこのような話が収録されている。達磨さんから数えて六番目の祖師である慧能和尚は、出家する前は薪を売って生計を立てていたと書かれている。文字も読めなかった、とも書かれているが、文字通りには受け取れないようだ。涅槃経も法華経もその講義をしたことが伝えられている。ただ四書五経や諸々の書に通じている学者ではなかったということだろう。
この風幡の話では、一切の存在や現象は、ただ心の現れにすぎないのだということを慧能さんは教えたと、この話はとってよいのだろう。
また、現象を現象として認識することはよいが、それに是非の分別をつけることの過ちを指摘しているともとれようか。
身近な問題に置き換えて考えれば、例えば、辛いことがある。しかし、どこに「辛い」という実体があるのだ、それを見せてみよ、見せられないだろう、自分の心が創り出しているにすぎないのだ、と気がつけば、自ずと「辛い」を手放せるのではないか、というふうに考えることができる。いろんな感情や認識も空の雲のようだと思うこともできようか。さて今日はどんな雲が心に浮かんでいるのやら、とどこかに気楽に眺める気持ちを持ってはどうだろう。(厳密に言えば、気持ちは持てませんけれど)
辛い辛いの、正体見たり、我が心
苦しい苦しいの、正体見たり、我が心
あの人嫌だ嫌だの、正体見たり、我が心
自分をも嫌だ嫌だの、正体見れば、我が心
はてさて我が心さえ、実はどこにもありゃしない
風にゆらぐ五色の幡よ。ゆらゆらと楽しそうにゆれながら、お寺の祝い事を眺めているのかい。あ、幡が動いた、とも、風が動いたとも争う人も、その下には無い。
ただ幡の下でくりひろげられる儀式の上に翻っているだけ。おめでたい晉山式でした。
ところで「辛いという状態は、心が作り出したもので、実態がない。」ははっとしました。
しかしそれに気づいただけでは、「辛い」を捨てられそうにありません。気づいた次に何かのステップがあって捨てられるのだと想像しました。それでは次のステップとはなんでしょう。私には分りませんが、例えば心の持ち主の私自身を捨てるとか。それも辛いと滅私が相打ちになり、元も子もないですね。辛いから切り離された元の自分が欲しいのですから。
何かヒントがあればお聞かせ下さい。
心について、またこの後こうと思っていますので、お時間を頂きたいのですが、端的に言えば心も無い、ということになりましょう。
この私と思っている「この私」ですが、いろいろな要素、縁が集まって「今、此処に、私」と思いこんでいる集合体があるのであって、この要素によっていかようにも変化しうるし、縁が尽きれば、終わるわけでしょう。
だから、自分に執着しなさんな、という教えになっていくといえましょうか。
ヒントになったでしょうか。
ただ、九十九川という名前が聞いたことがなかったので、いまひとつ確信が持てませんでした。
せっかく近くまでお出でになったのですから、一声かけてくれればお迎えに上がりましたのに、残念です。
心の問題と言うのは難しいですね。いくら解決方法が解っていても、本人が考え方を変えない限りは解決に結びつかない。
自分を温存しておいて、「辛い」からだけ逃れられるうまい話はないかと、期待しましたが、やはり無理なようですね。
「辛い」を感じる心自体が無なのでは、私が救うべき対象がなくなります。
そもそも自分は自分のものだ、自分は自分以外のものから独立して厳然と存在すると思っていること自体が、錯覚なのですね。
そう言う自分はないけれど、自分以外との相関関係の中であれば自分がないことはない。しかしそれはこれまで私が思っている、私が望んでいる自分とは異なっているわけです。大分前に、哲学とも心理学ともつかぬ本で「この私と言う不思議」(題も少し違っているかもしれません)を読みましたが、似たようなことが書いてあったように思います。
うさじいさんが「考え方を変えなければ、解決はない」と書かれていました。
考え方を変えれば、辛いはなくなるのかもしれませんが、私もなくなるのは、これまた俗人には、辛いものがあります。
私という素材を与えられたのですから、この素材をじっくりとみつめ、この素材を動かして、また動いた自分をじっくりとみつめ、他人の解決法ではない自分の解決法を自分自身に教えられていく。
ただいろいろな悩みや辛さや苦しさは、自分の心意識がつくりだしているものだ、とその正体を見破ることは、まず一歩ではないでしょうか。それをしてみた後、次の手を考えましょう。方法ばかり聞いていても、なんの解決にもならないわけです。
本当に「辛い」も自分が作りだしていたのだ、真に納得すれば、あらかじめ次の手を知らなくとも、次の扉に自然に進めるのでは。
心は無い、ということも簡単に一言で言い得るようなことではないでしょう。私もまた努力して、先人の語をもとに、いつか書いてみます。私の言葉だけを書くのでは仏教ではなくなってしまいますので。
ところで春女さんには、そんなに辛いことがおありなのですか?
しかし晉山式はお寺にとって大変な行事ですね。
別の話ですが、外に表れる多くのことも大変ですが、人間の心の中も、なかなか大変です。一応「心」という刻々に変化し続ける概念としての「心」ですが。存在としての「心」とはいえませんが。「心」という表現を使うと別の問題が生じてきます。難しいです。御前様の提唱で育った私にとって、仏教は益々難しくなっています。
人様と比べて程度は分りませんが「辛い」の連続の毎日です。仕事上で次から次に起こるトラブル。解決のための努力が、周囲の理不尽な人のために空回り。これらは報酬との見合いと考え、それなりに耐えてきました。
しかし一方ではこれらに耐え切れるかと言う、精神的な不安があり、トラブルそのものよりその不安に押し潰されないかと、不安を増長させます。こう言う精神状態になると考えなくても良いことを考えます。何時も堂々巡り。安倍さんもこんな気持ちになったのではと思います。
そうは言ってもご心配なく。こう言う状態が長年続くと、耐性がができてきています。時々思い出したようにどんと落ち込んでも、またかと思えるようになります。丁度、繰り返し嫌な夢を見ているとき、夢の中でなんだこれは夢なのかと気づくように。
まさに「正体見たり、我が心」ですね。
お釈迦様も、人間は五蘊よりなっている、そしてその五蘊は皆空なのだ、と説かれています。五蘊とは色・受・想・行・識のことをいいますが、これを説明しますと、長くなりますので、身心と分かりやすく置き換えさせて下さい。
この体あっての心といってもよいでしょうか。心は無いという表現も長い説明を要しますが、固定的な心が無い、といったほうがよいかもしれません。
私も小さな会社ですが、経営しているときは辛いの連続でした。誰も私の願うようには動いてくれず、社員の人たちには結束して、対抗されますので、辛いことが多くありました。しかし、その原因は私の力量が無かったからだと後で分かりました。もう一度、やり直せたら今度はもう少し辛くない経営ができるような気がします。春女さんの場合は、自らの力量とは別でしょうから、解決策はまた別でしょう。安倍さんは残念でしたが、力量不足でした。哀れにさえ思えます。
春女さんは、已に「辛い」を眺めていられるようにも感じます。
まさか、ここで桂昌寺さんの晋山式の話題を耳にするとは......。
実はその日はお世話になった先輩が遺弟を務める本葬が山形であり、そちらの方へご焼香並びにお手伝いに出向いておりました。
せっかくお会いできるチャンスだったのに......。
バタバタしておりまだ余裕のない新しい生活ですが、早くペースを取り戻したいと思っております。合掌。
桂昌寺さんではお会いできず残念でした。
でも、来月あたり、ご発表をお聞かせいただけるとのこと、楽しみにしております。聞かせて貰う方には楽しく、ご発表の方には大変なことですが。
そちらは大雨は大丈夫でしたか。爽やかな秋空のもと、お彼岸の入りでしょうか。
カサブランカのように華やかさで、桔梗のように、たおやかなお方にも宜しく。