風月庵だより

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名残の四十九日

2006-09-07 23:59:35 | Weblog
9月7日(木)曇り【名残の四十九日】

父親が亡くなった二人の少年達と四十九日を勤めた。少年達の親族の都合もあって、三七日の時に納骨と七七日忌もして欲しいと云われて、一応四十九日は済んでいることになっていた。しかし二人の少年だけを遺して、突然に亡くなってしまったような場合、どうしても本当の四十九日をしなくてはならない、と私は思っていた。まして少年達の母親は十年ほど前に既に亡くなっているので、二人は両親を失ってしまったのである。

そんな二人を遺して死んで逝かなくてはならない人の、四十九日の見送りは、その人の為にも、子供たちの為にもしっかりとしなくてはならないだろう。そう思ったのでもう四十九日としてお布施は頂いたのであるし、お布施の心配は要らないから四十九日をしましょう、とお願いしたのである。

正直なことを言えば、少し遠い家であるし、体がきついのでやはりそんなお節介はやめようかと、思う気持ちもあった。しかし四十九日信仰の強い私としては、特にこのような場合、四十九日を勤めないということはやはりできない。人は死んでから四十九日の間は中有にあると言われる。それから輪廻転生するという説もあるし、いや死んでからすぐに輪廻転生するという説と輪廻転生など無いという説などがある。

道元禅師は『正法眼蔵』「道心」巻で次のように言われいる。

いまだのちの生にうまれざらんそのあいだ、中有といふことあり。そのいのち七日なるそのあいだも、つねにこえもやまず三宝をとなえたてまつらんとおもふべし。七日をへぬれば、中有にて死して、また中有の身をうけて、七日あり。いかにひさしといへども、七日をばすぎず。このときなにごとをみ、きくも、さわりなきこと天眼のごとし。かからんとき、心をはげまして三宝をとなえたてまつり、南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧
と、となへたてまつらんことわすれず、ひまなくとなへたてまつるべし。


道元禅師も中有を説いていらっしゃる。しかしこの巻は道元禅師の作ではない、という説もある。他にも中有について書かれた経典はあるが、本当に信じている人は少ないかもしれない。私の場合はその間は、死者の声を心に聞くようなこともあるので信じている。四十九日までは、一周忌や三回忌などの法事とは全く違うと感じている。

(その後の輪廻転生については以前書いたので、ここでは触れないでおきますが興味のある方はお読み下さい。末尾に前の記事を記しました。)

とにかく四十九日は家の者だけでもよいから、きちんと勤めた方がよいであろう。後生を助けるのに四十九日の間の勤めほど大事な勤めはなかろうと思うのである。かなり前のことになるが友人のお父さんが亡くなられたとき、故人がお好きだったという軽井沢の満天の星のもとで、四十九日を勤めたことがあった。故人を招き、家族や親しい友人たちと楽しい宴を開いて、最後に星空にお見送りをしたのだった。

このたびの二人にとっては、二人を今まで男手一つで育ててくれたことへの感謝。これしかないだろう。誦経の後で、子供たちに「お父さんに何か話してあげて」と頼んだ。突然のすすめであったが、二人ともきちんと、お父さんへの感謝と二人で力を合わせて頑張るから安心して下さい、と言ってくれた。下の子は少し小さな声であったが、きちんと声に出して話しかけてくれた。これこそが故人にとってなによりの供養であろう。私はこれを旅立つ人に届けたかったのだ。列席した伯父さんと伯母さんも、期せずして「二人を守っていくから安心して下さい」と声に出して話しかけてくれた。故人がどんなにか軽くなったことだろうか。

実際に死後がどのようであるかは分からない。しかしまことを尽くして見送ることが大事であろう。お葬式の導師をつとめさせてもらった僧として、これで責任を一つ果たしたような気がした。二人とも受験勉強頑張ってね。

(皆さんも四十九日はどうぞ特に大事なご供養の日々ですし、七七日忌は家族だけでもよいですからきちんとお勤めして下さい。)
***人はどのように輪廻転生するのか】中有にあり】【若くして逝きし人

華綾慧春尼その1ー出家の決意

2006-09-06 23:59:13 | Weblog
9月6日(水)朝のうち雨激しく降る【華綾慧春尼その1ー出家の決意】

今日は皇室に親王様がお生まれになった。世界中の子供たちがこのように望まれて生まれてこられることを願って。

小田原から少し北に入ったところに大雄山最乗寺という名刹がある。通幻寂霊禅師(1322~1391)の法嗣(はっす)、了菴慧明禅師(1337~1411)が開山様である。この禅師の妹と云われているが、華綾慧春(かりょうえしゅん)という尼僧がいた。この尼僧の開いた三ヵ寺の一つ、正寿庵という寺に「子宝地蔵尊」が祀られている。今日の日に因んで松寿庵を開かれた華綾慧春尼についてご紹介したい。

『重続日域洞上諸祖伝』(蔵山良機著。享保2年刊〈1717〉)に慧春尼は記載されている。室町の時代に生きた一人の尼僧の姿を追ってみたい。
(原文)
攝取菴慧春道人傳。師名慧春。生糟谷氏。相陽人。最乗了菴禪師之妹也。姿色絶人。而無意於處俗。年過三十。就兄了菴菴求度。菴卻之曰。夫出家者大丈夫事也。兒女輩難立易流。容易度女人。汚辱法門者多矣。師黙然而退。就火爐焼鐵箸。烙面上縦横。叉進求度。菴不獲(原文この字のママ)已而剃度。

(訓読)
攝取菴慧春道人傳。師名慧春。糟谷氏に生まる。相陽の人なり。最乗了菴禪師の妹なり。姿色人に絶すれども、而も俗に處する意無し。年三十を過ぎ、兄了菴に就いて度を求む。菴之を卻けて曰く、「夫れ出家は大丈夫の事なり。兒女の輩、立ち難く、流れ易し。容易に女人を度せば、法門を汚辱する者多し」と。師、黙然として退く。火爐に就いて鐵箸を焼き、面上に烙くこと縦横。叉進んで度を求む。菴已むを獲ずして剃度す。

訓読して頂けば、敢えて訳を添えなくてもよいと思うが、慧春尼は相模の糟谷氏の生まれである。最乗寺の開山了菴禅師の妹といわれている。非常に美しい人であったそうだが、世俗のことには興味がなかったようである。三十歳を過ぎてから、兄に得度していただきたいとお願いしたのだが、禅師はこれをお許しにならなかった。

「出家は男のすることであって、女子供には出家は難しいことで、途中で止めるようなことになるだろう。もし簡単に出家を許したなら、法門を汚してしまう者が多いであろう。」と云われた。慧春尼はこれを聞くと黙って退いた。そして火鉢のほうに行き、鉄の火箸を焼き、それで顔を縦横に焼いたのである。そして再び禅師の元に行って、得度してほしいと頼んだのである。禅師はやむを得ず、慧春尼の髪を剃ったのである。慧春尼は勇ましく参禅したのである。

とこのような出家の時の顛末が残されている。しかし史伝に残る数少ない尼僧の伝記に、焼き火箸の話は他にも読んだ記憶があるが、今すぐには見つけられない。どうも尼僧に対して、何時の時代の男性も偏見を持っているようである。美しい顔に焼き火箸をあてるとは随分と強烈な事までしなくては、得度の許しを得られなかったというのは、情けないが、慧春尼の場合は禅師にとって妹であれば、特に不憫に思えたのであろうか。真意は分かりかねる。とにかくも慧春尼様は出家の本懐を遂げられたのである。今日はこれまでといたします。

くも膜下出血

2006-09-05 22:48:26 | Weblog

9月5日(火)晴れ残暑【くも膜下出血】
姉がめまいがひどく救急車で入院したという。長兄がくも膜下出血で亡くなっているので心配したが、姪からの電話ではたいしたことはないようだ、というので安心した。しかし顔を見るまでは心配であった。病院に行ったところ、ベッドの上に坐っている姉を見たので本当に一安心であった。

この暑いのに、畑の草取りを夢中でしたからではないかと姉は言った。しかし油断は禁物である。めまいで起きれなかったというし、血圧が上は180近くあったという。兄弟がくも膜下出血という場合、他の兄弟にも脳動脈瘤がある可能性がある、と新聞で読んだことがある。よく検査をして貰った方がよい、と姉に頼んで病院から帰ってきた。

長兄がくも膜下出血で倒れたとき、あまりにいろいろと不運が重なってしまい、残念であるので、お読みになる方の参考になるかもしれないので、兄のくも膜下出血の顛末について書いてみたい。兄が倒れたのは三月のまだ寒いときであった。関越自動車道を運転中に半身が動かなくなった。今ほど携帯電話が普及していなかったのは残念だが、三芳のドライブインまで何とか運転して行き、公衆電話で家に電話を入れたのだという。ところが義姉が生憎の留守で、電話を受けた者が義姉が帰ってくるのを待ってから、三芳の兄を迎えに向かったのだという。

これが第一と第二の不運である。救急車でなく家に電話したことの第一の不運。発作を起こしている兄を迎えに来るまでに2時間以上が経過した不運。そして三芳から家の近くの病院まで義姉と友人で運んだのだという。これが第三の不運。すぐ近くに大きな大学病院があるというのにまた一時間かけて近くの病院まで連れて行ったとは。

ようやく病院についたとき、車椅子に自力で兄は乗れたのだという。そして内科のかかりつけの医者に「先生、助けてください」と話すことができたのだという。すぐに脳の写真を撮ったその医者は、「軽い出血ですから、リハビリのことを考えて、專門の病院に行って貰いましょう」と、すぐに2時間以上もかかる脳外科の専門病院に向けて救急車で搬送させたのだという。これが第四の最たる不運で、それも医者という専門家が下した最悪のミスであった。兄は搬送の途中で脳死状態になってしまった。

実はこの前にも残念であった不運があった。これが第一の不運と言うべきかもしれない。亡くなる三ヶ月ほど前に兄に会ったのだが、(これが最後の別れとなってしまった)あまりに顔色が悪いので、お医者さんに診て貰った方がよいと勧めた。この頃考え事をすると頭痛がひどいとも言っていたそうだ。そして知人の脳外科医に診察を頼んだところ、学会があるのでそれが終わるまで待ってくれ、と言われてしまったのである。これが不運でなくて何であろう。診察を予約していたその前の日に発作が起きてしまったのだ。

知人になど頼って数ヶ月を待つ余裕など、脳の病気にはない。すぐに脳外科のあるどこでもよいから病院に行き、検査を受けていれば、脳動脈瘤の小さな出血を発見できたであろう。脳の病について知識のある筈の医者が、兄のケースの場合、取り返しの付かない判断ミスをしているのである。脳の不調は絶対に甘く見てはならないのである。

読者の方も頭が変な時は、即、救急車で病院に連れて行って貰ってください。また大きな発作が起きる前、何でもないような不調が前触れとしてある場合もあるので、これは変だ、と思ったら、即、病院に行ってください。くも膜下出血でも、すぐ病院に行って手術をしたので、今はなんともありません、という人ともその後何人にも会った。ちょっと片方の目がよく見えない程度で、ほかにはどこにも後遺症は残っていないという人にも最近あった。

慢性病も恐いですが、突発性の病は本当に恐いので、お互いに注意して、一日でも長くこの世を味わいましょう。残暑が厳しいですから、皆さんお体ご自愛ください。

くも膜下、要注意の症状:
突然の頭痛/ もうろうとする/ 吐き気/ 日常の頭痛/ 手足の麻痺/ ろれつがおかしくなる/
首筋がこわばる。

ちょっと一言ー秋田の事件

2006-09-04 23:56:19 | Weblog

9月4日(月)晴れ【ちょっと一言-秋田の事件】

そろそろ稲刈りも始まろうというこの頃、日本中で後から後から事件が起きてしまっている。周南市の中沢歩さんの事件も、本当になぜこんなことが起きてしまったのか、というような事件である。またホリエモンが太っていようが痩せていようが、そんなことはどうでもいいことなのだが、今日は朝からそんなことを追いかけているようである。あまりにいろいろと事件が起きるので、秋田の豪憲君の事件のことはいったいどうなってしまっただろうか、と思っていた。

丁度そう思っていたら、テレビの声が豪憲君の名を言っていたので、隣室にテレビを観に行った。(母は少し耳が遠いので、テレビの音はいつも大きい。)秋田県警の杵淵本部長が初動調査のミスを認める発言をしていた。本当に彩香ちゃんのときにきちんと事件として扱っていたら、第二の豪憲君の事件は防げたのではなかろうか。

「難しい事件だったことを理解していただきたい」と本部長は言い訳をしていたが、どうして素直に過ちを認められないのだろうか。メンツや警察内部のしがらみが強いのだと推察するが、本部長としての責任逃れもあるのだろうか。たとえ自分のしたことではないとはいえ、責任をとるのを管理職というのではなかろうか。また責任をとらせるお役でもあろう。この事件に関わった人々とともに、「申し訳なかった」と豪憲君の遺影の前で、せめて手を合わせることはできないのだろうか。

今日はたまたま『永平清規』について勉強した。清規というのは禅門における修行者の規則のことである。修行者はちょっとした間違いでもしてしまったときは、「懺謝(さんじゃ)」といって各寮にお詫びに回らねばならないことになっている。謝り謝りして謙虚な心を養い、自らを清浄にしていく意味もあるだろう。一ヵ寺の住職でも平生の行いの上でなにか失錯があればやはり罰せられるということがある。

本部長はキャリア組が多いので、あまり謝らずに上に上がってきてしまったのかもしれない。過ちは過ちとして認められる粋な責任者であってほしいものである。優秀であり、我を折られた経験のないエリートが、かえって日本を駄目にする。豪憲君があなたのお孫さんだったらどうするのだろうか。


ちょっと一言の風月庵だよりです。


母の長寿健康法

2006-09-03 17:22:48 | Weblog
9月3日(日)晴れ、秋の風さやか【母の長寿健康法】

二度咲きの白と紫の桔梗や淡紅色の秋海棠やら、結構鉢植えの花も目を楽しませてくれる。「病床に秋海棠を描きけり」と正岡子規は詠んだようである。花は人間に天が与えてくれたものであろうか。いや花はただ花であるのだろう。咲くのも散るのも実相、花の実相というより、天地の実相であろう。私たちが生まれ死ぬのも天地の実相であるように。

今日は法事が無いので一日家で過ごすことができた。母と今お好み焼きを拵えて食べた。母はお陰様で先月満九十歳になった。今のところ元気に過ごしてくれているので有り難い。今日はあらためて母の健康法をちょっと覗いてみたい。食べるものは基本的に玄米食である。肉はほとんど食べないが、魚は頂く。お肉も食べたいと思えば食べるが、あまり欲しないので結局は食べない。あまり禁止をしないで食べたいものを食べる方が、精神衛生的にもよいだろう。ただこれだけは申し上げたいのだが、決して電子レンジは使わない。

睡眠時間は5,6時間ぐらいのようである。夜中に起きてテレビを観たりしているときもある。それはほとんど、みのもんた氏の「おもいっきりテレビ」のビデオである。みのさんがこれがよいと言えばそれを試し、あれがよいと言えばそれも試し、実行できる体操などは時々しているようだ。この番組は月曜から金曜まであるので、一つのことに飽きても次のことがあり、何かしらを実践していることになる。

母を見ていると、みのさんは老人にとって日本で一番頼りになる人のように思う。一週間に一、二度外出するときがあるが、そのようなときはビデオを予約していく。外出も一人で出かけてくれるので、心配はしているものの、私も勤めがあるのでお付き合いしかねるのでお任せするしかない。バスや電車を二、三回乗り継いでいくようだが、いかにしてエスカレーターを使える経路で目的地に着けるか工夫しているようだ。

外出の目的は編み物教室に通うことと、知り合いにお弁当を作って届けることなどである。お弁当作りは揚げ物だけは手伝うのだが、いつも三人分作っていくお弁当はほとんど自分で作っていく。私が大学院に通っていた五年間、留学生の人にもほとんど毎日お弁当を作ってくれていた。とても私には真似ができない。

こんなことを書いても読者の皆さんには面白くないかもしれないので、このぐらいにしておきますが、自分のお小遣いのやりくりをしたり、お友達とどうしてうまく付き合っていくか努力している樣子を見ていると、このような生き方も認知症を防ぐ方法かもしれないと思う。しかし認知症に関しては、本人の努力だけでは追いつかない問題もあるので軽々に言うことはできないのだろう。(以前『サザエさん』という漫画でお母さんを大事にしすぎたので、お母さんが認知症になってしまった、という四こま漫画を印象的に覚えている。これを私は親不孝の言い訳に利用しているのだが。)

とにかく母も花のように散るまでは生き続けてくれるだろう。願わくば、私の方が一日でも長く、たとえ枯れてはいても散りませんように。
さて昨日のブログをお読み下さった方にとって、今日は明るい話題だったでしょうか。

*追記:母はコウケントー(光線研究所ー黒田一明博士所長ーホームページは見つかりませんが、多くの人が記事を書いているようですので検索なさって下さい)の光線治療を毎日しています。
*追記:朝夕手足の毛管運動(西式健康法の一つ、よく振ること)をしています。

子供の身心を蝕む

2006-09-02 23:23:12 | Weblog
9月2日(土)晴れ【子供の身心を蝕む】

*(いつものテレビゲーム反対論ですので、またかと思う方はさっと読み飛ばして下さい。ちょっとくどいかもしれません。)

今朝テレビを観ていたら、北海道稚内で起きた高校一年生による、友人への母親の殺害依頼の事件について、有識者の方々が意見を述べていた。少年犯罪というと必ずといってよいほど顔を出す尾木氏は「思春期の子供のプライドを大事にしなくては駄目だ」というようなことや「家族がカプセルのようになってしまっていて外の世界にはけ口がない」というようなことを述べていた。

或る心理学者の先生は「14から16歳ぐらいの子供でも、今の子供たちは年齢よりも幼くて、判断力がないのだ」というような意見を述べていた。猪瀬直樹氏は「テレビゲームのようなゲームの影響があるんじゃないですかね」というようなことをおっしゃったと思うが、残念ながら肝腎なところで母に話しかけられたので、正確には聞き取れなかったのだが、テレビゲームの害について確かに意見を言われたと思う。

尾木氏の意見も、心理学者の方の意見も尤もなことではあると思う。しかし昔は親は子供のプライドなど気にせずに怒っていたし、判断力が子供だからといって親を殺す子供はいなかった。心の中で思う子はいたかもしれないが、実際にそんな恐ろしいことは実行しなかった。

心理的なことはプライドやら判断力の無さなどともいえようが、殺人を実行させてしまう力は何なのか。テレビゲームは非常に影響があるのではなかろうか。なぜマスコミはこのことをもっと追求しないのか。猪瀬氏の意見の後それをもっと深く追求しないのか。それはテレビゲームを売る会社がテレビ局のスポンサーだからなのではないか、と私はうがった憶測をしてしまう。とにかくマスコミの言うとおりには何事も受け取れないことが多い。

また『バトル・ロワイヤル』のような映画も本当に悪い。私はたまたま予告編を見てしまい、その映像の残酷さに目を疑うほどであったし、このような映画が作り出されることが理解できなかった。予告編だけでも観たので、あの映画は本当に悪いということが言えるのである。深作欣二監督はやくざ映画で、大人を対象とした映画を作っていればよかったのに、『仁義なき戦い』などはそれなりに評価された映画ではないのか。それなのに中学生達を対象とした学園ドラマとしてこのような映画を作り、社会に害毒を残して死んでいってしまった。このような映画を世に残したことを今頃悔やんでいられるのではあるまいか。

佐世保の御手洗怜美ちゃんをカッタ-ナイフで殺してしまった少女は、この映画に熱中していたという。映画自体はR-15(レイティングシステム-15は15歳未満入場禁止)とされたが、DVDまで取り締まることはできない。この事件の為に『バトル・ロワイヤル特別編』のDVD発売は2004年にはされなかったが、結局翌年には発売している。このような映画を制作し、多額の利益をあげている映画会社も一連の人々も大変な罪を犯していることを自覚すべきであろう。また前日にテレビでカッターナイフの殺人事件のドラマを観ていたという。映像をお茶の間に送る人々は子どもが観ているということを常に考えて作る責任があろう。

とにかく幼い子供たちの身心の形成に、あまりに悪影響を与えるテレビゲームや『バトルロワイヤル』のようなものは規制すべきだ。いや今更あちこちに出回っているDVDを回収することさえ困難なことであるが、今からでもできることはするべきであろう。最近NHKも或る番組で残酷なシーンは撮り直して放映されたことが報道されていたが、当然な事だと思う。大人なのだから。子供たちに対してもっと配慮しなくてはなるまい。

さて普通は心身のように心そして身と考えるかもしれないが、敢えて身心と書いた。身と心は切り離せないのだし、心、心というが身が有って心があるのである。身が無ければ心は無い。テレビゲームによってダメージを受けるのは幼い子供たちの脳ではないだろうか。テレビゲームによって身がやられているのだという認識を改めて持ちたい。(勿論テレビゲームだけが原因ではないのだが、一因であることは認めざるを得ないことだろう。)

とかく身より心を世の中の人は先行して考えるようだが、身のことを疎かにしては取り返しの付かないことになってしまうだろうし、根本的に人間という生物を考えたとき間違いを犯してしまうだろう。身をしっかりと保つことは心を保つことでもある。私はいつも食が大事と言うのだが、食育ということに社会が気が付いたことは救いがある。道元禅師の「身心脱落」について「つらつら日暮らし」のtenjin和尚さんが解説して下さっている。【反無宗教論ver14.0】をご参照下さい。

幾ら書いても何の役にも立たないことだろうが、罪を犯してしまう子供たちが哀れでたまらないのだ。拝金主義の犠牲になっている不幸な時代の子供たち。せっかく地球の生物として生を受けたのだから、命を全うして貰いたい。親を殺そうなどという恐ろしいことをしでかさないように、と願わずにはおれない。くどくどと役にも立たない一言の風月庵だより。きっとお読み下さる方はもっと明るい話題を、と思われるでしょうが。明日は明るい話題に致しましょう。

ちょっと一言:雨からテレビゲームまで

2006-09-01 11:21:42 | Weblog
9月1日(金)雨【ちょっと一言:雨からテレビゲームまで】

今日は久しぶりに雨が降っている。朝の出勤途中で、傘がなくて雨に濡れている人の姿も見かけた。「気の毒なるは雨の中の傘無し」『たけくらべ』の中の一文が浮かんだ。信如と美登利の淡い恋の物語であるが、明治のころの吉原界隈にまで思いが馳せた。かつて吉原の松葉屋という元遊郭を訪れたことも思い出した。そういえば東大の近くに、美登利が住んだ大黒屋はこんなだったろうかという感じの木造の家屋があったような気がするが、それは今から40年も前の話しである。

いかにも樋口一葉が住んでいた頃の家のようね、と話しをした友人のことにまで思いが馳せた。久々の雨から頭の中で次々に思いが連鎖反応を起こして、朝の出勤時を楽しんだ。中学生の頃、高校生の頃、熱心な国語の先生に恵まれて、多くの名作を暗記をさせられた。『奥の細道』『方丈記』『徒然草』『枕草子』等々。全文暗記をさせられて、その頃は大変な気がしたが、今になって思えば有り難いの一言である。

この頃あまりに短絡的な事件が多く、人の命が軽視されているというだけでなく、なぜ母を、なぜ友を、殺すことができるのか理解に苦しむ事件が多すぎる。一筋縄にその原因を述べることは困難であるが、テレビゲームの影響は大きいのではなかろうか。安直な殺人ゲームや戦闘ゲームは販売に規制をかけるべきであろう。

そしてせめて名作の暗記ゲームでも考えたらどうなのか。前頭葉の発達に役立つゲームを考え出してほしい。いや、ゲーム自体前頭葉の発達には役立たない代物かもしれない。殺人ゲームを生み出し、多額の利益を手に入れている人々は世俗的には恵まれているように見えるだろうが、実は大いに徳を損じた行為をしていることを自覚して頂きたい。久々の雨からこんな事にまで思いが至った朝であった。ちょっと一言の風月庵だより。