60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

定年後

2009年11月06日 09時47分40秒 | Weblog
                   新潟を散歩する88歳の父

以前勤めていた会社の同僚が、来年1月の60歳誕生日で定年を迎える。
今年の1月に逢った時、「あと1年、とうとうカウントダウンが始まったよ。この1年は1日1日を
大事にし残り少ないサラリーマン人生を噛みしめて過ごして行きたい」そんな風に語っていた。
そんな彼と先週末、池袋で飲んだ。「どお、あと3ヶ月、覚悟はできた?」と聞いてみる。
「う~ん、仕事は今までの流れでそれなりにやれるが、気力が失せてしまい力が入らない。
自分がウツ症状になったかと思うほど、憂鬱な日々が続いているんだ」そんな風に言う。
「自分は気力も体力も残っていて、まだ50代前半という意識がある。今からもまだ働けると
思うのに、リタイヤしなければいけない。そんな自分が愛おしく、無念で仕方がない」とも言う。

彼は私より6歳後輩で、ある時期私の部下であったこともあり、これが縁で今は友人である。
鹿児島出身、大学を出て会社に入り、転籍はあるものの、このグループで勤め上げてきた。
仕事は前向きでそれが表に出るタイプ、部下を叱咤激励する意味で叱ることも多かった。
定年後は嘱託で残る可能性もあるものの、この不況下で、今はどうなるか未定である。
残れば今の部下の配下になる可能性もあり、地位逆転で、このあたりが辛いところである。

彼の2人の子供はすでに就職している。退職金で住宅ローンを完済させ、年金支給までに
必要なお金も確保してあり、老後の生活設計は万端怠りなくやっているようである。
あとは「退職後何をするか?」である。彼は老後対策として、3年前から向こうが丘遊園
にある日本民家園という施設へ隔週の土曜日にボランティアとして通っている。
何十棟と立つ古民家の来歴や特徴など訪れる人への説明役である。そしてそれに加え、
最近はろうあ者への説明に役立てばと、夫婦で手話の教室に通っているという。
そんな準備をしていても、やはり働く場を失い、大きく環境が変わることへの不安は日増しに
大きくなって、彼を息苦しくさせているようである。
人により定年のとらえ方は様々であるが、このことはサラリーマンには最大の試練であろう。

すでに退職した友人が言っていた。自分の予定をカレンダーや手帳に書き込んでも、
せいぜい埋まって月に2、3日だけ、後はどうあがいても予定がない。そのわびしさ、虚しさは
経験した者でなければ解らないという。時間は有り余るほどある。しかしやることがない。
毎日をどう過ごしていくか、目標が定まっていれば活き活きとして楽しい人生になるだろう。
しかしそれが見いだせなければ、ただただお迎えを待つだけのさびしい人生になってしまう。
定年前までの「働く」という目標はなくなり、あとは各々に自由に生きていって良いわけで、
そこに決まった形はない。それが飼いならされてきたサラリーマンにとっては厄介なのである。


私の父は国鉄を退職したあと国鉄の外郭団体へ天下った。その団体に7年勤めてから
後輩に後を譲り、完全に仕事からリタイヤした。当時両親は下関に住み、離れていたため、
父の様子はよくはわからなかったが、そばにいる母がときどき電話で父のことを話してくれた。
「走るために生まれてきたサラブレッドは走れなくなればその血が騒ぐ。あの人は働くために
生きて来たように思う。今はまだ働きたいという血が騒ぐのだろうね、その血が収まるまで
時間がかかりそうだよ」。朝ごはんを食べ、新聞にじっくりと目を通し、持ち株会社の株価を
ノートに記入し終わると、散歩に出かけて行く。どこをどう歩くのかはわからないが、2時間も
3時間も戻ってこない。帰ってきて植木を手入れし、読書をし、毎日の買い物に行ってくれる。
少しはのんびりしていれば良いと思うのだが、ちっともじっとしていないんだよ。と話していた。

父は典型的なサラリーマンである。毎朝定時に家を出て職場に通う。お酒は飲めなかったので
大体は定時に帰る。帰ってから一家団欒で過すことを大切にしていた。人事異動、単身赴任、
昇級試験、職場での人間関係、仕事での葛藤、挫折や栄誉もあっただろう、そんな数々の
試練を経験しながら40年以上を国鉄で勤め上げてきた。意志が強く、我慢強い性格で、
職場での不満を家族は聞いたことが無かった。そんな40年間で体にしみ込んだ習性を、
定年をきっかけにモデルチェンジせねばならない。それは並大抵でない努力がいるであろう。
父は自分が決めた日課を、飽きることなく諦めることなく、直向きに過ごしていたように思う。

両親はその後下関を離れ、3番目の息子(私の弟)と2世帯住宅での同居で新潟へ移った。
(3人の兄弟の連れ合いで弟の女房が同郷でもあり、両親とは相性が良かったからであろう)
探究心の強い父は、新天地ではあちらこちらと歩きまわり下関にいる時よりは活発になった。
しかし歳とともに足が悪くなり、行動半径は狭まって行く。やがて家からの散歩程度になる。
母が亡くなって父一人になるとゴミ捨てと近所の買い物など以外はほとんど外に出なくなった。
歴史の勉強や読書などを欠かしたことのなかった父も次第にその意欲を失って行ったようで、
テレビを見て過ごす時間が多くなり、やがて生活の中心がテレビになってしまった。
しかし93歳で亡くなるまで食事洗濯一切を子供たちに頼らず、自立した生活をしていた。

さあ、そろそろ自分の順番がやってくる。私は父ほどの意志の強さはなく、勉強家でもない。
父は私にとって最高の目標である。しかし真似は出来ないだろう。又友達がやろうとしている
ボランティアも私には不向きなように思う。やはり自分人生、自分仕様の日課を作るしかない。
今、自分は何に興味があり、何ができるか?何を目標にするか?そんなことを考えてみる。

父の時代と違って今はインターネットで世界と繋がる。歳の割にはパソコンは苦にならない、
デジカメも扱える、文章を書くことは楽しいし、父のように散歩も好きである。映画も好きだし、
読書も好きだ。人と接することも苦にならないし、どちらかと言えば友人も多い方であろう。
今はそんなことを生かし、老後の目標を作って行きたいと思っている。
一つは日経の「私の履歴書」のような「自分史」を書いて、死ぬ前に3人の子供に渡すこと、
二つ目は小品でよいから小説を書いてみたい。そしてお世話になった人にメールで配りたい。
三つ目は鉛筆画か色鉛筆を使って、簡単な絵を描けるようになりたい。これは夢である。
四つ目は健康管理を兼ねて、何時までも散歩は続けて行きたい。   等々、
今思う具体的な目標は何個かあるが、それは歳とともに状況により変わって行くのであろう。

しかし最後まで変わらないであろう目標は自分が死に向かい合った時、それをすんなりと
受け入れられる精神構造を作っておきたいということである。
すこし抽象的であるが、そう思うようになったのは父の死に立ちあい看取った時からである。
今まで元気だった父が、呼吸困難を訴えて入院してから亡くなるまで、わずか3週間であった。
病名は急性の肺がん、日に日に肺の機能が衰え、呼吸困難を起こして最後は窒息死である。
父は入院しても一言の恨みごとも泣き言も言わず、最後の最後まで耐え抜き息を引き取った。
私にそれができるのか?それ以来、私の最大のテーマになった。
退職後、たぶん有り余る時間があるであろう。その時間を使って自分の精神的な強さを作る。
そのための手段として思いつくことをなんでも迷わず、前向きにやって行きたいと思っている。

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1 コメント

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つつい、ひきこまれてしまいました (じゅん)
2009-11-09 18:04:25
69歳の男です。あなたのブロブ、ずーと読まさせていただきました。共感しながら読みました。あなたのお父さんと同じく、あなたもとても自制心の強い方なんですね。
これからも、楽しみにしています。
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