最近本屋で「アドラー心理学」関連の本が目についていた。心理学の本も今までは「フロイト」や「ユング」が主で「アドラー」は馴染みがない。心理学も時代の変化の中で考え方の方向性も変わってくるのかも知れない。そう思ってここ2ヶ月で3冊ほど入門書を買って読んでみた。当然人の心の問題であるから内容も広範囲に及んでいるが、私としてこれがポイントだろうと思える箇所をまとめてみることにする。
人は一人で生きているのではなく、〈人の間〉に生きている社会的動物である。従って人が生きていく上で重要なテーマの一つが、「仲間」を作るということである。アドラーは、人が成長の過程において「仲間」に出会うことの重要性を繰り返し述べている。しかし現実には人の悩みやストレスの多くは周囲の人達との対人関係に起因するものが多い。親と子、兄弟、夫婦、上司と部下、仕事での取引関係、友人知人、自分を取り巻く人間関係において程度の差はあれ悩みは尽きることはない。今から世に出ていく若者、今実際に人間関係の難しさに悩んでいる現役世代、我々シニアーのように人生を振り返って思い出す人間関係の葛藤、我々は人との関係を上手にこなすことができていれば、もう少し楽しく暮らせる(暮らせた)ように思うのである。
アドラー心理学ははっきりとした目標を揚げ、絶えずその目標を達成する方向で人(特に子供)にアドバイスしています。先ず行動目標として、1・自立する。2・社会と調和して暮らせるということ。そしてこれを支える心理面の目標として、1・私は能力がある。2・人々は私の仲間であるという目標を提示します。アドラー心理学では行動は信念から出てくると考えますから、自立し、社会と調和して暮らせるという適切な行動ができるためには、それを支える適切な信念が育っていなければならないのです。ここで言う信念は、自己や世界についての意味づけの相対であり、アドラー心理学ではこれを「ライフスタイル」と呼んでいます。この信念を人は比較的早い時期に形成します。(現代アドラー心理学では10歳前後と言われている)、そしてこのスタイルはあくまでもスタイル(型)であるから、他のものに置き換えることはそれほど困難なものではないと考えるのです。では今の自分が持っている「ライフスタイル」に反省があるとすれば、どんなスタイルに変えれば良いのだろうか。
アドラー心理学では、縦の人間関係は精神的な健康を損なうもっとも大きな要因である、と考え、対等な横の対人関係を築くことを提唱します。階段は狭くて2人が同時に同じ段にいることはできません。上の段に登ろうとすれば、そこにいる人を押しのけなければならないのです。ここには協力ということはなく上に登って行こう、トップになろうとする人は他の人を段から落とそうとしたりします(芥川龍之介の小説「蜘蛛の糸」のように)。アドラー心理学では人はそれぞれ自分自身の出発点、道、目標を持っており、自分で望むように、あるいはできる形で、早くあるいはゆっくり進んでいくのです。大人も子供も、教師も生徒も、役割は異なるけれども、優劣の関係ではないのです。教師と学生は「同じ」ではありませんが、人間としては「対等」なのです。人は「進化」(進むべき道筋)をめざして「前」へ進むのであって、「上」へと進むわけではないのです。狭い階段を上がるのではなく、広い道路を並んで歩いているのですから、別に誰が先に行こうと、後を歩こうとかまわないわけです。
アドラーは人を(特に子供の教育において)罰したり叱ったりすることを否定します。罰すること、説教することでは何も得るものがない、といっています。また「ほめる」こともよくないと言います。そもそもほめることができるということは、その人の対人関係が基本的に「縦関係」であることをあらわしています。ほめるということは、能力がある人が能力の無い人に、あなたは「良い」と上から下へと相手を判断し、評価する言葉であるわけですが、そのときの対人関係の構えは縦関係なのです。罰したり叱ったりすること、またほめることは、自分に能力が無い、また(叱った場合は)人々は私の仲間ではないということになり、望ましいことでないと言います。このように言えるということは言葉じりの問題ではなく、対人関係の構え(基本)の問題であると考えることができます。
たとえば親子の関係で、親は子供に「勉強しろ!勉強しろ!」と言います。勉強しない子を叱ったり、説教したり、勉強させるために褒美をあげたり、誉めそやしたりします。しかし勉強は誰の課題かと言えば子供の課題です。勉強が子供の課題であるとすれば、いきなり「勉強しなさい」と親が言うことは、子供の課題に踏み込んだことになり、子供との衝突は避けることができません。他方、子供が勉強をしないことが気になるとすれば、それは親の課題です。原則的にいえば人の課題を引き受けることはできません。イライラするからといって子供に宿題をしなさいとはいえないということです。ところが誰の課題かわからないほど課題が混同されているのが現状ですから、もつれた糸をほぐすように、これは誰の課題と言うふうにきちんと分けていかなければなりません。これを「課題の分離」といいます。頼まれもしないのにこちらが勝手に判断して、相手は助けを必要としているだろうと考えて手出しをしないということです。
課題は克服できない障害ではなく、それに立ち向かい征服するものです。たしかに忍耐も地道な努力もいるかもしれませんが、自分には課題を達成できる能力があるという自信を持つように援助することができれば、勇気づけができたということができます。ではどうすれば、どう言えば勇気づけになるかは、人によってあるいは状況によって違いますが、原則的にいえば、ほめるとか評価するのではなく、喜びを共有すること自分の気持ちを伝えることは勇気づけになります。当たり前だと思って見逃しがちな行為に対して「ありがとう」とか「うれしい」とか「助かった」とかいうような言葉をかけることから始めるようにすると良いでしょう。叱るとかほめることに対して、勇気づけは「横の関係」を前提とするものであり、横の関係のときだけ勇気づけることができる、ということができます。人と人とは対等の横の関係にあるのですから、
多くの人との対人関係が横の関係でいられるとすれば、自分をよく見せようという努力をしなくていいようになるでしょう。横の関係であれば、自分が優れていることを誇示することで、よく思われようと背伸びをすることは必要なくなります。世界は本当はシンプルであるにもかかわらず、そう思えないのはなぜか・・・・・・。それは私達が世界は複雑であるという意味づけをしているからです。そのような神経症的な意味づけを止めれば、この人生は意外と快適なものになるように思うのです。
上の内容は主に、「アドラー心理学入門」岸見一郎著から抜粋してまとめたものです。しかしここに書いたものはアドラー心理学の一部で基本的な考え方のように思えます。さらに別な本を読んでみて、私として面白いというものがあればまた書いて見たいと思います。
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