|
|
|
|
|
1980年に米国でソリッドゴールド(Solid Gold )という音楽カウントダウン番組が始まった。司会はディオンヌ・ワーウィック Dionne Warwick が務め毎週土曜日にその週のトップ10ヒット曲を歌手を集めて口パクあり生演奏ありで披露させる番組だった。歌に合わせてセクシイに踊りまくるソリッドゴールド・ダンサーが視聴率にかなり貢献していた。わたしは高校時代からカウントダウンが好きなので毎週楽しみにして見たものである。1982年に司会が5thディメンションのマリリン・マクーとビージーズのギブ兄弟の末っ子アンディ・ギブのコンビになった。アンディの初ヒットI Just Wanna Be Your Everything を歌うふたりは爽やかでとても清新だった。
しかし、しばらくするとアンディは司会を降りどうしているのか、と思うと1988年3月10日30歳になって5日後に心臓疾患で死亡したというニュースが流れた。ドラッグとアルコールの過剰摂取という噂だった。これからというときにあっけなく消えてしまったのである。しばらくすればビージーズのメンバーとして迎えられる予定だったのに惜しかった。米国の音楽番組で思い出すのはまずソリッドゴールドなのでいつもアンディの司会する姿を思い出してしまう。かれは洋楽界のソリッドゴールドになるひとりだったのにそれを証明するにはあまりに早く逝きすぎた。合掌…。
fumio
| Trackback ( 0 )
|
|
|
ある日、クラブで楽器と機材のセッティングを終えて弾き語りの仕事を始めようとしていると、お客さんが入ってきて「きみがいつも羅府新報の将棋大会の成績の記事に名前が載る山下さんだね」という。「はい、そうですが」と答えると「やっぱりそうか、それじゃ、おれとめくら将棋をやろう。おれも将棋強いんだぜ」という。「めくら将棋」とは将棋盤を使わないで符号だけを言って指す将棋で現在では「めくら」ということばが目の不自由な方の蔑称なので使用されなくなり「目隠し将棋」や「脳内将棋」と呼び変えている。
わたしは仕事中だけど挑戦を受けた。その客が「おれが先手、▲7六歩」という。あたりを見るとホステスたちがすこしずつ出勤してきてオーナーがカウンターで酒やグラスを整理したりしてこちらをチラチラと見る。わたしは9時をまわったことだしもう音楽を演奏しなければいけないのでギターを弾きだした。ただの手癖でなんとはないメロデイを弾く。後手で符号をいうのは盤面を頭の中でひっくりかえさなけばいけないのでむづかしかったけれど「△3四歩」といった。。客は喜んでわたしにビールをおごってくれる。「▲2六歩」「△8四歩」と手は進む。両者の頭の中で駒はぶつかり戦いが始まる。ミュージシャンがギターを奏でホステスたちやママやオーナーがこれからやってくる客を待って待機する一見普通のクラブの風景だった。しかし残念なことに戦いが佳境に入った頃に客はたて込んできたのである。それで結局、「指し掛け」にしてやめたけれど決着がつかなくて良かったような気もする。
fumio
| Trackback ( 0 )
|
|
|
わたしは米国での弾き語り時代、 GARY PUCKETT and the UNION GAPの"WOMAN, WOMAN をレパートリーの一曲にしていた。グレン・キャンベルもカバーしていたがわたしはゲイリー・パッケットのハードな歌い方が好きで発声をそっくりコピーして歌っていた。そのクラブの女性バーテンダーが昼間、LAPD(ロス市警)の職員をやっていたので夜仲間の職員たちを店に呼んでわたしの歌を聴かせた。わたしがバーテンダーにリクエストされた「ウーマン・ウーマン」を歌うとそれから女性職員たちがよく連れだってやってきて「ウーマン・ウーマン」をリクエストするようになった。かの女たちは「おんなよ、自分の心を偽っていないか?」という内容に自分を重ねて身につまされるようだった。
LAPD(ロス市警)の警官は夜中の巡回が大変である。毎夜、目をつけた麻薬デイラーの家の前で窓に向けてヘッドライトを当てる。危険地帯のドーナッツ・ショップでドーナッツを食べ顔見知りの家に立ち寄り一休みする。海岸のあたりに駐車している車の中のカップルは恋愛なのか事件なのか見極めがむづかしい。午前2時にバーが終わって出てくる客はほとんどが飲酒運転だけど蛇行がひどい以外みんなつかまえるわけにはゆかない。わたしが夜中、巡回地点になっているという友達の家でギターを弾いているとパトロールがやってきたことがあった、ひとしきり歌を聴いて拍手して「もう遅いからあまりうるさくないように」と言い残して次の場所へ出ていった。
fumio
| Trackback ( 0 )
|
|
|
サイケデリックムーヴメント華やかなりし頃The First EditionのJust Dropped In という精神の変容を表す変わった曲が全米1位に輝いたことがあった。それから何年かしてカントリーソングに陽が当たりケニー・ロジャース(Kenny Rogers)の歌が次々にヒットチャートを賑わすようになった。そしてその時初めてJust Dropped Inでリードヴォーカルをとっていたのが 若き日のケニー・ロジャースであったことを知った。またEve Of Destruction という人類絶滅前夜の歌が一位になった時、その歌手、バリー・マクガイア(Barry McGuire )が以前ニュー・クリステイ・ミンストレルズのリード・シンガーとしてフォークの名曲グリ-ン・グリーン を歌っていたとは知らなかった。才能のある人は色々な形で世に出てくるものだ、と感心する。
| Trackback ( 0 )
|
|
|
昔、グレン・キャンベル(Glen Campbell)の歌う恋はフェニックス という歌がヒットしたことがあった。恋人の元から鉄道でだんだん離れて行く男の揺れる心を描いて大好きだった。それはのちの堺正章の「さらば恋人」の下敷きになったような曲だった。そのころかれグレン・キャンベルは12弦ギターの名手という噂だったが渡米してテレビを見ているとカントリーミュージックの番組にかれが出演して Wichita Linemanなど数曲を披露してバンジョーの名手と早弾きバトルを繰り広げた。噂通りの見事な演奏だった。歌は上手いしギターはうまいし素晴らしいミュージシャンだと感心したものだった。
fumio
| Trackback ( 0 )
|
|
|
「BS世界のドキュメンタリー」のソウル音楽史「ソウル・ディープ」シリーズを見て思うことは奴隷としてアフリカから理由(いわれ)なく米国に連れて来られた黒人達が過酷な労働、迫害、差別に耐えて歌ったゴスペル、ブルースが時代とともに発展して白人の音楽と融合してロカビリー、ロックンロールとなりファンク、ロック、ヒップホップへと姿を変えて世界を席巻してきたということである。この奴隷としてやってきたアフリカ系アメリカ人たちの辛い哀しみの音楽がなかったらポップ音楽界はどうなっていたことだろうか。最近のプロモーションヴィデオ を見ているとまるで先祖帰りのような踊りをフィーチュアーしたものが多いのは血がなせる業なのだろう。
fumio
| Trackback ( 0 )
|
|
|
「BS世界のドキュメンタリー」の「ソウル・ディープ」シリーズの第3回はモータウン・レコード の話しだった。黒人ファンだけでなく白人層にも受けるポップ路線に成功してデトロイトの自動車工場さながらにヒット曲を大量生産したオーナーのベリー・ゴーディ・ジュニア(Berry Gordy, Jr.)は独裁的で社会的な内容の歌はリリースさせなかったという。しかし時代の変化に抗しきれずモータウンの中心ガールグループ、スプリームスもLove child という歌で全米ナンバーワンに輝いた。その頃、高校を卒業していたわたしは「Love child」というのは「子供を愛しなさい」ということだと思っていた。しかしそれは当時米国に蔓延して問題になっていた「私生児」の意味だったのだ。スプリームスのメンバーは恋愛や甘い綿菓子のような夢ばかりを追う歌を卒業して社会的に深い内容の歌を歌ってヒットしたことに誇りを感じていた。わたしはそんなことに気付かずただそのサウンドのカッコ良さだけを聴いていたのである。
fumio
| Trackback ( 0 )
|
|
|
「BS世界のドキュメンタリー」の「ソウル・ディープ」シリーズの第2回はサム・クック を特集していた。番組は当時、カシアス・クレイと呼ばれていたボクサーが世界ヘビー級チャンピオン、ソニー・リストンを倒した時、盟友サム・クックをリングに呼んでともに喜びを分かち合うシーンから始まった。かれはのちにモハメッド・アリと改名して人種差別撤廃やベトナム戦争反対のために闘うことになる。サム・クックもこの頃から人種差別主義者達に標的と見なされるようになったと思われる。
サム・クックを射殺したハシエンダモーテル( Hacienda Motel)管理人バーサ・フランクリン(Bertha Franklin)に対する審問場面があった。ハシエンダモーテルの所在地はロサンジェルスのサウスセントラルと呼ばれる治安の悪い地区で信号待ちの間に窓ガラスを割られて強盗に遭うという噂があって高級車は近付くのを避ける地区である。普通そんなところに有名歌手サムクックが目立つ愛車フェラーリで行くとは考えられない。審問に臨んだバーサ・フランクリンは意外なことに黒人女性だった。白人女性が黒人の酔っぱらい青年に怯えて射殺したというわけではなかったのである。かの女は表情を隠すためか、濃いサングラスをかけて審問に臨んでいた。その模様を以下に記しておく。
***************
審問者
"How far was Mr.Cooke away from you when you started shooting?"
「あなたが撃ち始めた時、クック氏はどれほど離れていましたか」
フランクリン
"Not too far, the close range."「あまり離れていません。近距離よ」
審問者
"How many times did you fire with the pistol? "
「何度ピストルで撃ちましたか」
フランクリン
"Tree times."「三度」
審問者
"Did you know Mr. Cooke struck?"
「クック氏にあたったとあなたはわかりましたか」
フランクリン
"Yes, so, he said, Lady you shot me."
「はい、それでかれは、奥さん、あなたはぼくを撃った、と言いましたから」
*************************
こんな会話のあとバーサ・フランクリンは正当防衛が認められたのであった。それはわたしの目には、人権運動のリ-ダーとして台頭しつつある、サム・クックを他の場所で殺害した実行犯達が初めから正当防衛にする約束でバーサ・フランクリンを脅し金をつかませて行った狂言のような審問に見えた。この証言をしたバーサ・フランクリンが差別を受けてきた黒人女性のひとりであったことは残念だった。サム・クックに限らず黒人初の米国大統領オバマ大統領誕生までには多くの尊い犠牲の血が流れ闇に隠されたのだろう。
fumio
| Trackback ( 0 )
|
|
|
近頃、NHK教育テレビの「ハングル講座」を見ていると「トロット・ナイト・キング」というグループがスキットドラマに出演している。トロット とはなんのことかと思うとそれは韓国の伝統歌謡だそうである。そして昨日、BSの「アジア・クロスロード」でトロットの特集をやっていた。韓国でトロットが復活してきたというのだ。カセットとCDが6対4の割合で売れているそうである。現代的な若い歌手もどんどん台頭してきて活況を呈しているというレポートだった。
わたしが米国で弾き語りをしている時、韓国人ホステスがLana Et Rospo の『愛しています(サランヘ)』と離別 をよく歌うので伴奏したものだった。どちらもいい曲だと思った。その二曲は50年代にジャズがやりたくて密航船で、日本へ密航したキルオギュン、日本名吉屋潤(よしや じゅん)が作詞作曲したものであった。その『離別』が、北朝鮮の金正日(ジョンイル)総書記の十八番(おはこ)というのは面白いというか、意外なことである。
fumio
| Trackback ( 0 )
|
|
|
「ブロークン・ウインドウ・セオリー」という言葉がある。きれいに揃った窓ガラスを初めて割るのは怖いが学校やビルの窓ガラスが一枚割れていると人は他のガラスも割っても良いように錯覚してしまう。そして気がつくとみんな割られてしまう。それを防ぐには常に美しい状態を保っておかねばならない。それに気付き実践したのがニューヨークのジュリアーニ市長だった。
当時、世界最悪の犯罪率だったニューヨークはジュリアーニ市長(Rudolph William Louis "Rudy" Giuliani III )が地下鉄の落書きを消すことを提唱したことから電車内や壁の落書きの徹底消去が行われ、市民の意識が変化していった。街も美しくなってゆき人々の心にはびこっていた何をやってもいいんだという意識がうすれてすこしずつ、犯罪さえも発生させない市に生まれ変わった。
新聞によると、ニューヨークで昨年初から12月27日までに発生した殺人事件は461件で、一昨年1年間の516件に比べ、50件以上も減少して1963年に統計を取り始めて以来最も少なかったということである。またFBIは、ニューヨークが今年最も治安の良い大都市になったとしているという。わたしたちの精神も「ブロークン・ウインドウ・セオリー」によって常に美しい状態を保つようにつとめればみんながより良く生きられるのかも…。
fumio
| Trackback ( 0 )
|
|
|
この間、BS世界のドキュメンタリーを見ているとカーリー・サイモンとベースのクラウス・ヴォーアマン(Klaus Voormann)がセッションしてYou're so vain を演奏しだした。この曲が流行った頃わたしはこのイントロのベースの格好良さに驚いたものだった。かれはハンブルグ時代のビートルズの友達でアルバム「リヴォルヴァー」のジャッケットの絵を描いたアーティストということで有名である。マンフレッドマンに参加して「マイティ・クイーン」で全米1位に輝いたりジョン・レノンのプラスティック・オノバンドに参加したりずいぶん多才な人であった。かれがあの世界の音楽ファンをうならせたベースを弾いていたとは知らなかった。番組の中でクラウスは芸術家肌で思索的で遠慮深かった。本人はどう感じているかわからないがかれは絵にも音楽にも秀でた理想的なアーティストの人生を歩んだ幸せな人であった。
fumio
| Trackback ( 0 )
|
|
|
今年平成22年、元旦朝六時に天御中主より始まりわたしに連なるご先祖様方に新年の御挨拶をしたあと、亡くなった上田好久(ヨシさん) がわたしの意識の中に若い頃の姿で現れた。なつかしかった。かれは毎年元旦にニュージャージーから挨拶の電話をくれていたが癌による入院以来途切れたので今年は意識として挨拶に来てくれたのだろう。かれは米国滞在中一番の友であった。宇宙の始源から文明の黎明繁栄荒廃絶滅、地球再生を描いたSFのアルバム「プロセス」が好きでカセットテープがすり切れたというので新しいテープを渡したことがあった。わたしが全てプリントしてニュージャージーに送った「炎で書いた物語」の愛読者でもあった。かれは物質的、肉体的満足から精神的、霊的向上を目指すひとりだった。肉体から脱してもともに働くのだろう。
fumio
| Trackback ( 0 )
|
|
|
|
|
|
|