前回のレースを終えた後、それまで使っていたシューズに限界を感じていた。
クッション性、反発力、全てなしに等しい。
そりゃそうだ、そのシューズ、かれこれ5年ほど使っている。
コロナ下の3年間、使わずにいたとはいえ、かなりの摩耗もありミッドソールが見え隠れしている。
そうしたシューズで激坂の続く「高碕Cityはるな梅マラソン」を走った結果、かなりのダメージを足に負った。
何もシューズだけが悪いわけじゃない。
不足している日頃の鍛錬、筋力の衰え、きしみ始めた関節、そこに付け加えての使い古して機能を失ったシューズだ。
良い訳がない。
だが、近頃のシューズときたらやれ厚底だ、カーボンだ、そのうえで今までの何十パーセントもの値上がり価格。
消耗品に労働月収入の1割も割けないと思うのはきっと自分だけではないと思う。
しかし、シューズはどうしても外せないアイテム。
ここは清水の舞台から助走の勢いをつけ、更に数十キロの重りを背負い、頭から突っ込むような思いで新調を決めた。
と、同時に練習用のシューズも一新。
二足分となればかなり家計も圧迫する出費だ。
ただ、レース用のシューズに限って言えば、これから何レース分を走る、走れる耐久性があるのかは知らないが、ランナーとしての生涯、最後のシューズになるやもしれない。
年齢的に考えても今までのように年間十数レースを走るとはいけないような気がする。
レースで負ったダメージをよくよく考えれば、もうレース自体を走るところに無理が生じている可能性も高い。

今年に入って4レースを走った。
昨年秋からのシーズンで言えば7レースである。
毎回回復もままならないうちに次のレースと無理がたたったのかも知れない。
”もう無理だ、来シーズンはもっと減らそう”
今シーズン、思い知らされた現実だ。
だからと言って走らない訳ではない。
走れば筋肉痛や関節の違和感に悩まされることになるが、やはり爽快感はどれほど年をとっても同じである。
”生涯ランナー”
レースは走らずとも気持ちは同じ。
それでも十分に楽しめると思う。
老いるとはそこからの自覚で始まるが、老いても楽しめるものは楽しんでいこうと思う。
クッション性、反発力、全てなしに等しい。
そりゃそうだ、そのシューズ、かれこれ5年ほど使っている。
コロナ下の3年間、使わずにいたとはいえ、かなりの摩耗もありミッドソールが見え隠れしている。
そうしたシューズで激坂の続く「高碕Cityはるな梅マラソン」を走った結果、かなりのダメージを足に負った。
何もシューズだけが悪いわけじゃない。
不足している日頃の鍛錬、筋力の衰え、きしみ始めた関節、そこに付け加えての使い古して機能を失ったシューズだ。
良い訳がない。
だが、近頃のシューズときたらやれ厚底だ、カーボンだ、そのうえで今までの何十パーセントもの値上がり価格。
消耗品に労働月収入の1割も割けないと思うのはきっと自分だけではないと思う。
しかし、シューズはどうしても外せないアイテム。
ここは清水の舞台から助走の勢いをつけ、更に数十キロの重りを背負い、頭から突っ込むような思いで新調を決めた。
と、同時に練習用のシューズも一新。
二足分となればかなり家計も圧迫する出費だ。
ただ、レース用のシューズに限って言えば、これから何レース分を走る、走れる耐久性があるのかは知らないが、ランナーとしての生涯、最後のシューズになるやもしれない。
年齢的に考えても今までのように年間十数レースを走るとはいけないような気がする。
レースで負ったダメージをよくよく考えれば、もうレース自体を走るところに無理が生じている可能性も高い。

今年に入って4レースを走った。
昨年秋からのシーズンで言えば7レースである。
毎回回復もままならないうちに次のレースと無理がたたったのかも知れない。
”もう無理だ、来シーズンはもっと減らそう”
今シーズン、思い知らされた現実だ。
だからと言って走らない訳ではない。
走れば筋肉痛や関節の違和感に悩まされることになるが、やはり爽快感はどれほど年をとっても同じである。
”生涯ランナー”
レースは走らずとも気持ちは同じ。
それでも十分に楽しめると思う。
老いるとはそこからの自覚で始まるが、老いても楽しめるものは楽しんでいこうと思う。
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