前回コースの続きを歩きました。この京都一周トレルの中でも一番地味な区間だと思います。
平家物語に語られる文治二年(1186年)後白河法皇が出家した建礼門院を寂光院に訪れるため、大原に御幸されたとき、京から静原を通り江文峠を越えたとされる古道です。
その後白河に建礼門院徳子は、自らの人生を振り返り仏教の世界観である六道になぞらえて「六道語り」を話しました。平家物語のハイライトと言えるでしょう。(脚注参照)
バス停「戸寺」下車。ここに地元の野菜や農産物加工品を販売している「志野」があり、草餅と豆餅を昼食のために買いました。
日陰には少しだけまだ雪が残っていました。
「小松均画伯」大原で自給自足生活をなしながら院展に出展を続けた画家の美術館は休館を継続していました。
立派なカラーのハイキング案内板があります。
大原村の鎮守さん「江文神社」。ここからロッククライミングの金比羅山への登山道が延びています。
神社から少しだけ戻って、峠に向かって登りになりました。以前はこの水の流れによってぬかるみ道であったところ、地元の人々の努力で水路と歩道がスッキリ切り分けられて歩きやすくなったそうです。
それほど汗をかくこともなく峠の空の明るさが見えてきました。
野生動物が里の畑に降りてこないように、あるいは植林した杉檜の苗を食べないように、あみで囲っている場所が増えています。
峠では車道と少しの間合流しました。金比羅大権現社、ご神体は後背の山です。
道標が朽ちかけています。
山の中に珍しい歩行者トンネル。これを抜けると静原の集落です。
~~引用(Wikipedia ”大原御幸”抜粋)~~
六道語り
後白河が「天人五衰の悲しみは人間の世界にもあったのですね。ここにはどなたかお見えになりますか」と尋ねると、徳子は「誰も訪ねては来ません。妹の隆房の北の方や信隆の北の方から時々使いが来ることはあります。今は一門と先帝の成仏を祈っています」と答えた。後白河が「人間の世界に転変があるのは今更驚くものではないが、これほど変わり果てた姿を見ると悲しみでやり切れない思いがします」と憐れんだのに対して、徳子は自らの人生を振り返り仏教の世界観である六道になぞらえて語り出した。
天上道
「私は平清盛の娘として生まれ、天皇の母となり全てが思いのままでした。明けても暮れても何の不自由もない贅沢な生活を過ごしていた様子は、天上界もこのようなものかと思うほどでした。ところが寿永2年の秋、木曾義仲に都を追われ、源氏物語で名は聞いても見たことのない須磨や明石の浦を船で辿った時は悲しみに耐えられず、天人五衰の悲しみのようだと思いました」
人間道
「人間界には様々な苦しみがありますが愛別離苦(愛する者と別れる苦しみ)、怨憎会苦(憎い者に会う苦しみ)は特に思い知らされました。筑前国大宰府では緒方惟栄に追い払われ、立ち寄って休むところもなくなりました。10月に清経が入水したのは悲しいことの始まりでした」
餓鬼道
「浪の上で朝から晩まで暮らしていて、食事にも事を欠く有様でした。たまたま食べ物があっても水が無くては調理できず、目の前にたくさん水があっても海水なので飲むことができないことは餓鬼道の苦しみかと思いました」
修羅道
「室山・水島の戦いに勝って人々も少し明るくなりましたが、一ノ谷の戦いで一門が多く滅んだ後は明けても暮れても戦いの鬨の声が絶えることはなく、親は子に先立たれ、妻は夫に別れ、沖の釣り船を見て敵船かと脅え、遠方の松の白鷺を見て源氏の白旗かと心配する日々が続きました」
地獄道
「壇ノ浦の戦いの前に二位尼が『男が生き残ることは、千、万に一つもありえないでしょう。昔から女は殺さない習わしですから何とかして生き永らえて天皇と私の後生を弔いなさい』と申しました。もはやこれまでとなり二位尼が先帝を抱いて船ばたへ出ると、帝は呆然としたご様子で『尼前、私をどこへ連れて行くのか』と仰せられました。二位尼は『君は前世の善行の果報で万乗の主となられましたが、悪縁にひかれてその運も尽きてしまいました。この国はつらいところですから、極楽浄土という素晴らしい世界へお連れします』と泣く泣く申されて海に沈みました。その様子は目もくらみ気を失ってしまいそうなほどで、帝の面影は忘れようとしても忘れられず、悲しみに耐えようとしても耐えられません。後に残った人々のわめき叫ぶ声は、地獄の罪人のようでした」
畜生道
「武士に捕らえられ都に戻る途中の明石浦で、先帝と一門が昔の内裏よりはるかに立派なところに威儀を正して居並んでいる夢を見ました。『ここはどこでしょうか』と尋ねると、二位尼らしい声が『龍宮城』と答えました。『素晴らしいところですね。ここに苦しみはないのでしょうか』と尋ねると、『龍畜経の中に書いてあります。よくよく後世を弔ってください』と言われて目が覚めました」
徳子は「これらは六道に違いないことと思いました」と結び、後白河は「これほどはっきりと六道を見たという体験はたいへん珍しいことです」と涙を流した。夕陽が傾き寂光院の鐘が鳴ると、後白河は名残惜しく思いながら涙を抑えて還御した。一行を見送った後、徳子は「先帝聖霊、一門亡魂、成等正覚、頓証菩提(先帝の御霊や一門の亡魂が正しい悟りを開いて、すみやかに仏果が得られますように)」と祈った。
~~引用終わり~~
平家物語に語られる文治二年(1186年)後白河法皇が出家した建礼門院を寂光院に訪れるため、大原に御幸されたとき、京から静原を通り江文峠を越えたとされる古道です。
その後白河に建礼門院徳子は、自らの人生を振り返り仏教の世界観である六道になぞらえて「六道語り」を話しました。平家物語のハイライトと言えるでしょう。(脚注参照)
バス停「戸寺」下車。ここに地元の野菜や農産物加工品を販売している「志野」があり、草餅と豆餅を昼食のために買いました。
日陰には少しだけまだ雪が残っていました。
「小松均画伯」大原で自給自足生活をなしながら院展に出展を続けた画家の美術館は休館を継続していました。
立派なカラーのハイキング案内板があります。
大原村の鎮守さん「江文神社」。ここからロッククライミングの金比羅山への登山道が延びています。
神社から少しだけ戻って、峠に向かって登りになりました。以前はこの水の流れによってぬかるみ道であったところ、地元の人々の努力で水路と歩道がスッキリ切り分けられて歩きやすくなったそうです。
それほど汗をかくこともなく峠の空の明るさが見えてきました。
野生動物が里の畑に降りてこないように、あるいは植林した杉檜の苗を食べないように、あみで囲っている場所が増えています。
峠では車道と少しの間合流しました。金比羅大権現社、ご神体は後背の山です。
道標が朽ちかけています。
山の中に珍しい歩行者トンネル。これを抜けると静原の集落です。
~~引用(Wikipedia ”大原御幸”抜粋)~~
六道語り
後白河が「天人五衰の悲しみは人間の世界にもあったのですね。ここにはどなたかお見えになりますか」と尋ねると、徳子は「誰も訪ねては来ません。妹の隆房の北の方や信隆の北の方から時々使いが来ることはあります。今は一門と先帝の成仏を祈っています」と答えた。後白河が「人間の世界に転変があるのは今更驚くものではないが、これほど変わり果てた姿を見ると悲しみでやり切れない思いがします」と憐れんだのに対して、徳子は自らの人生を振り返り仏教の世界観である六道になぞらえて語り出した。
天上道
「私は平清盛の娘として生まれ、天皇の母となり全てが思いのままでした。明けても暮れても何の不自由もない贅沢な生活を過ごしていた様子は、天上界もこのようなものかと思うほどでした。ところが寿永2年の秋、木曾義仲に都を追われ、源氏物語で名は聞いても見たことのない須磨や明石の浦を船で辿った時は悲しみに耐えられず、天人五衰の悲しみのようだと思いました」
人間道
「人間界には様々な苦しみがありますが愛別離苦(愛する者と別れる苦しみ)、怨憎会苦(憎い者に会う苦しみ)は特に思い知らされました。筑前国大宰府では緒方惟栄に追い払われ、立ち寄って休むところもなくなりました。10月に清経が入水したのは悲しいことの始まりでした」
餓鬼道
「浪の上で朝から晩まで暮らしていて、食事にも事を欠く有様でした。たまたま食べ物があっても水が無くては調理できず、目の前にたくさん水があっても海水なので飲むことができないことは餓鬼道の苦しみかと思いました」
修羅道
「室山・水島の戦いに勝って人々も少し明るくなりましたが、一ノ谷の戦いで一門が多く滅んだ後は明けても暮れても戦いの鬨の声が絶えることはなく、親は子に先立たれ、妻は夫に別れ、沖の釣り船を見て敵船かと脅え、遠方の松の白鷺を見て源氏の白旗かと心配する日々が続きました」
地獄道
「壇ノ浦の戦いの前に二位尼が『男が生き残ることは、千、万に一つもありえないでしょう。昔から女は殺さない習わしですから何とかして生き永らえて天皇と私の後生を弔いなさい』と申しました。もはやこれまでとなり二位尼が先帝を抱いて船ばたへ出ると、帝は呆然としたご様子で『尼前、私をどこへ連れて行くのか』と仰せられました。二位尼は『君は前世の善行の果報で万乗の主となられましたが、悪縁にひかれてその運も尽きてしまいました。この国はつらいところですから、極楽浄土という素晴らしい世界へお連れします』と泣く泣く申されて海に沈みました。その様子は目もくらみ気を失ってしまいそうなほどで、帝の面影は忘れようとしても忘れられず、悲しみに耐えようとしても耐えられません。後に残った人々のわめき叫ぶ声は、地獄の罪人のようでした」
畜生道
「武士に捕らえられ都に戻る途中の明石浦で、先帝と一門が昔の内裏よりはるかに立派なところに威儀を正して居並んでいる夢を見ました。『ここはどこでしょうか』と尋ねると、二位尼らしい声が『龍宮城』と答えました。『素晴らしいところですね。ここに苦しみはないのでしょうか』と尋ねると、『龍畜経の中に書いてあります。よくよく後世を弔ってください』と言われて目が覚めました」
徳子は「これらは六道に違いないことと思いました」と結び、後白河は「これほどはっきりと六道を見たという体験はたいへん珍しいことです」と涙を流した。夕陽が傾き寂光院の鐘が鳴ると、後白河は名残惜しく思いながら涙を抑えて還御した。一行を見送った後、徳子は「先帝聖霊、一門亡魂、成等正覚、頓証菩提(先帝の御霊や一門の亡魂が正しい悟りを開いて、すみやかに仏果が得られますように)」と祈った。
~~引用終わり~~