友人のご縁で奈良学芸大学キャンパスの中にある遺跡見学をしました。
芝生の上に大量の綿毛が広がっていました。ポプラの実のようです。
まずは教室で奈良時代の国家仏教の歴史、国家寺院の成立、その様式、規模のお話を専門研究者の方から伺いました。そして学大のキャンパスが、当時の新薬師寺の境内とほぼ一致することの古文書と地図がスライドで説明されました。
研究室にて、遺跡から出土した瓦や土器の欠片を拝見。
七仏薬師金堂といって、当時の薬師寺の様式は七体の薬師像を祀っていたため、横幅がとても長いお堂になっていました。
NHKが取材にきて、映像を作るために当時の新薬師寺の模型を精密に作成しました。撮影が終わったあと大学で借用することになったそうです。制作費は
ん百万円とか。
さてその後、現地に行きました。
重要な遺跡であることが判明したので、この場所は校舎の建て替え用地でしたが、埋め立てて遺跡として保存することになりました。
この近くには、吉備真備の塚もありました。・・地方豪族出身で朝廷の大臣にまで出世した学者。少し調べてみると、驚くべき秀才、努力家の人物でした。
以下、引用(Wikkipedia )抜粋:
霊亀2年(716年)遣唐留学生となり、翌養老元年(717年)に阿倍仲麻呂・玄らと共に入唐した。帰路では種子島に漂着するが、天平7年(735年)に多くの典籍を携えて帰朝した。唐では経書と史書のほか、天文学・音楽・兵学などを幅広く学び、帰朝時には経書(『唐礼』130巻)、天文暦書(『大衍暦経』1巻、『大衍暦立成』12巻)、日時計(測影鉄尺)、楽器(銅律管・鉄如方響・写律管声12条)、音楽書(『楽書要録』10巻)、弓(絃纏漆角弓・馬上飲水漆角弓・露面漆四節角弓各1張)、矢(射甲箭20隻、平射箭10隻)などを献上し、『東観漢記』をもたらした。(中略)
孝謙天皇即位後の翌天平勝宝2年(750年)には藤原仲麻呂が専権し、筑前守次いで肥前守に左遷される。天平勝宝3年(751年)には遣唐副使となり、翌天平勝宝4年(752年)に再度入唐、阿倍仲麻呂と再会する。その翌年の天平勝宝6年(754年)に屋久島さらに紀州太地に漂着するが、鑑真を伴って無事に帰朝する。(中略)
これは地方豪族出身者としては破格の出世であり、学者から立身して大臣にまでなったのも、近世以前では、吉備真備と菅原道真のみである。(後略)
~~~~
この記事を読むと、天神さん「菅原道真」よりも、吉備真備さんのほうが、学者としても文系行政官としても「偉い」ように思います。・・・道真公は、大宰府に左遷されたことを恨み、怨念として、都や朝廷に災害をもたらした(と信じられた)ので、神社を造って鎮めたので広く知られることとなったのでしょう。
・・・まったく、歴史に名を残すという「生きがい」からは、何が、幸いするかわかりませんね。
芝生の上に大量の綿毛が広がっていました。ポプラの実のようです。
まずは教室で奈良時代の国家仏教の歴史、国家寺院の成立、その様式、規模のお話を専門研究者の方から伺いました。そして学大のキャンパスが、当時の新薬師寺の境内とほぼ一致することの古文書と地図がスライドで説明されました。
研究室にて、遺跡から出土した瓦や土器の欠片を拝見。
七仏薬師金堂といって、当時の薬師寺の様式は七体の薬師像を祀っていたため、横幅がとても長いお堂になっていました。
NHKが取材にきて、映像を作るために当時の新薬師寺の模型を精密に作成しました。撮影が終わったあと大学で借用することになったそうです。制作費は
ん百万円とか。
さてその後、現地に行きました。
重要な遺跡であることが判明したので、この場所は校舎の建て替え用地でしたが、埋め立てて遺跡として保存することになりました。
この近くには、吉備真備の塚もありました。・・地方豪族出身で朝廷の大臣にまで出世した学者。少し調べてみると、驚くべき秀才、努力家の人物でした。
以下、引用(Wikkipedia )抜粋:
霊亀2年(716年)遣唐留学生となり、翌養老元年(717年)に阿倍仲麻呂・玄らと共に入唐した。帰路では種子島に漂着するが、天平7年(735年)に多くの典籍を携えて帰朝した。唐では経書と史書のほか、天文学・音楽・兵学などを幅広く学び、帰朝時には経書(『唐礼』130巻)、天文暦書(『大衍暦経』1巻、『大衍暦立成』12巻)、日時計(測影鉄尺)、楽器(銅律管・鉄如方響・写律管声12条)、音楽書(『楽書要録』10巻)、弓(絃纏漆角弓・馬上飲水漆角弓・露面漆四節角弓各1張)、矢(射甲箭20隻、平射箭10隻)などを献上し、『東観漢記』をもたらした。(中略)
孝謙天皇即位後の翌天平勝宝2年(750年)には藤原仲麻呂が専権し、筑前守次いで肥前守に左遷される。天平勝宝3年(751年)には遣唐副使となり、翌天平勝宝4年(752年)に再度入唐、阿倍仲麻呂と再会する。その翌年の天平勝宝6年(754年)に屋久島さらに紀州太地に漂着するが、鑑真を伴って無事に帰朝する。(中略)
これは地方豪族出身者としては破格の出世であり、学者から立身して大臣にまでなったのも、近世以前では、吉備真備と菅原道真のみである。(後略)
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この記事を読むと、天神さん「菅原道真」よりも、吉備真備さんのほうが、学者としても文系行政官としても「偉い」ように思います。・・・道真公は、大宰府に左遷されたことを恨み、怨念として、都や朝廷に災害をもたらした(と信じられた)ので、神社を造って鎮めたので広く知られることとなったのでしょう。
・・・まったく、歴史に名を残すという「生きがい」からは、何が、幸いするかわかりませんね。