玄米ごはん族のあしたのたのしみへ

玄米と野菜、果物で今日から明日へ。農業と穀物菜食の日々

やっていることと言っていること

2019-12-27 00:55:03 | おつきあい
 穀物採食のお食事会、宴会、パーティーはだれも来ないので開くことができない。家で少食を続けるだけ。それに飲み物はノンアルコール、なのでやる気なら夜なべ仕事ができる。父の若い頃とは時代が違うのでやる気などない。
 父の若い頃は時代の特徴としてナイナイずくしで、物を増やすために働いた。今は物がどこでもあふれている。願いが達成されて後の世代はメタボとか信じられないことになっている。
 どのように現代社会の基礎を作ったのか考えると、少食、夜なべ仕事だ。父は今もノンアルコールで、少食だ。若い頃はずいぶんお酒を飲んだらしいが、ものぐさ人間に任せるようになってからやめた。

 それなのに今では自分の習慣を棚上げして周囲には、いっぱい食べろよ、と言っている。ものぐさ人間並の痩せ型なのに。
 いっぱい食べろと言われても、体型を見てすごい矛盾に気がつくはずだが、言われたかたがたは気にしないようだ。

 こうしてみると父もおつきあいはーーーーーー

 人には言っても自分では宴会で少食少飲にしている。それを誰も気がつかないようにしている。ものすごいつきあい術だ。ものぐさ人間がやっと気がついたことを父はとうの昔に実行していた。
 昨日、ものぐさ人間は一品を食べることで場所、時間を共有できると気がついた。応対が重要なことも。
 根拠は集合論のほんの入り口だが、屁理屈のようでなんとなくーーーーーー


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一品がすべて

2019-12-26 00:18:07 | おつきあい
小さなお食事会でも宴会、パーティーでも高カロリーで高級料理が選ばれる理由は、前の世代が望んでいて現役世代も望んでいるからだ。豊かになった実感、家にいるのとは違う新しさを楽しめる。 
 前代は基礎を粗食で仕事、仕事でいっしょうけんめい作った。後の世代はできたところから出発でいろいろな食事を楽しんでいる。
 穀物採食の人間はどこへ行っても家にいるのと同じにしたいので新しいこと、高カロリーは関係ない。実際は、植物性があまりないときは見ているだけになって、主催者には、何で食べないのだろう、と心配されて、どうして拒否するのか、不信に思われる。仲間はずれ一歩手前になっているような状態になるが自覚できないだけだ。。
 同じ食べ物、飲み物をいっしょに楽しんで同じ時間をすごす、と言うことが一番だいじなのに逆に不信を持たれている。これに気がつかない。そのような気持ちをもたれるなら最初から出席しないほうがよほどましだ。愛想よくしているから皆様も喜んでいらっしゃる、と思うのは間違いだ。
 わざわざ出席して不信感を持たれるのはバカげている。一体感を持ってもらうにはーーー

 数学では個の集まりが集合で、一体とは集合に含まれることなので一つでも共通なものがあれば集合の構成要素になり一体になる。
 食事ではたった一品を食べれば一体感を皆様で意識できる。数学でそうなっている。
 良く聞く、同じ釜の飯を食った、ということだ。一品でもそのような一体感ができると数学が言っているーーーーーこんなまずいもの、と思ってもとりあえず一品食べれば集合の構成要素になれる、ということだ。主催者が動物性に目がなく大好きでほとんど共通点がなくても野菜一品を食べることで主催者の構成要素になる。
 一体感がないと仲間外れ目前。それには、並べられた料理の一品でも食べれば良く、これで同じ釜の飯を食った、と言うことになり不信感を持たれるようなことはなくなる。
 選ぶものはたいがい野菜。それ以外、ないだろう。主催者の好きな料理のほんの一つを時間をかけて食べれば主催者はすべて食べてくれた、と思うだろう。
 何だ,なんだ言っても食っている、じゃないか、と言われて一体感をあじわえる。食ってるじゃないか、と安心してもらえる。残りの並んでいる料理は隣に差し上げる。ますます喜ばれる。
 主催者の立場になれば主催者用として最初から一品だけ注文して、お酌に回って座っていないようにしていれば喜ばれる。

 一品で良いのか、二三品選んで品目は多いほうが良いだろうと思えるが数学の集合では一品で充分。何も食べないと空集合になり欠席と同じ。初めから出ないほうが良い。
 主催者は招待客が選択するたったの一品ですべてを受け入れることになる。主催者にとって違いの大きな部分は空集合。存在しないことになる。

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別のレールはあるのかわからないのに

2019-12-25 01:19:21 | おつきあい
 父のように若いころの日々、仕事ばかりで粗食ですごしたつらい記憶があると、子供には苦労させたくないので、粗食はダメ、高カロリーをならべろ、子供が喜ぶものを、いつもの家のと違う高価な料理でますます子供は楽しくなり、それで自分でもうれしくなり、そうしてようやく豊かになった自分を確かめている。
 心の深いところで自分のような苦労を若い人にはさせたくないという気持ちがある。すると自分のように生きてほしくない、もっと楽にすごしてほしい、楽に稼いでいる人は高級取りだ、いつも高カロリー高級料理を食べている、そして粗食=苦痛なので宴会ではいらないし並べてほしくない。並べるのは高級なものに限る。
 こういうことからも、いつも粗食の人間は相手にされない。豊かさを全く感じない人間は嫌われて当たりまえだ。
 
 今、穀物、野菜が自然栽培のものは高級品だが、もし、並べられると何でこんなものがここにーーーーかたずけろ、家にいるのとは違うんだ、お祝いの席だ。

 老いも若きも高カロリー、高級品にめがない。低カロリー、高級品は邪魔。

 どう考えても、どこから見ても時間が単純に抑揚もなく流れていくだけ。
 それでも微笑んで、うれしいをふりまいて、微塵も退屈などしてないようにしてーーーーーどこでも通じる礼儀を守る。

 洋画の中では、パーティーは立食の時は、招待客はグラス片手に何時間でも話している。立ち話。座っているパーティーはコース料理で食べながら話している。席を立ってお酌をする人はいないようだ。そういうことは雇われている人の役目だ。
 そういうところでも、いっぱい食べて下さい、と気を使う人はいるのだろうか。


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勘違いしているような

2019-12-24 07:59:03 | おつきあい
 父の世代はきまりきったものを食べて重労働だった。穀物、野菜以外にない状態で朝から晩まで仕事だった。今から見ると低カロリー、栄養失調目前、のようなもので、良く動ごけたな、としか思えない。考えられない世界の話だ。それが、有名な所得倍増計画のもとで所得が向上し高カロリー食も普通になった。

 高カロリー食で豊かになったのではなく低カロリー食で日の出から日没まで、それどころか夜なべしてまで働いて所得を上げた結果、高カロリー食が手に入るようになったのから、原因と結果を勘違いしている。
 高カロリー食は今ではたいへん安くなり、昔ながらの蕎麦屋のほうが満腹するレベルから計るとはるかに高価になっているようだ。

 その結果、高所得者は高カロリー、低所得者も高カロリーになった。もう、高カロリーだから所得が多い、ということではなくなった。ものすごく高価な高カロリーのものもあるが普段は口にしないだろう。

 父の時代は、低カロリーで所得を向上させて高カロリーを楽しむようになったのであり、逆ではない。
 所得の高い層が高カロリー食ができるようになった、ということを忘れて、いつどうなったか、ものすごい勘違いの

 高カロリーで所得を上げる

ということが常識になった。

  工業製品を見ると
 乗用車でも電気モーターで加速は抜群になったが燃料消費は三分の二になっている。大入力=大出力の時代は終わっている。
 加速抜群、低燃費の乗り物で移動する人が高カロリー、高食費になっている。江戸時代の、かご、に乗って移動することから見れば所得の向上があってのことだ。

 今、所得を向上させるには歴史に従い粗食低カロリーで行くしかない。
 ところが、なんと、どうしたことか自然食品品店の作物は普通のスーパーより高く、父の時代の粗食のイメージは全くない。高級品だ。

 粗食が高級品になっているすごい時代になったの感覚だが、これを作るにはとんでもない技術とそれを可能にする環境が必要だ。人力で昔のようなことをやれば価格は跳ね上がる。作った人は売る気がないだろうが。







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仕事 飲食

2019-12-23 22:20:13 | おつきあい
 宴会に若い人から年寄りまで出席すると好みは皆さんバラバラだ。全年齢が出席する宴会では年寄りの好みに合わせて年寄りのご機嫌とりになる。気をきかせて年寄りが若い人に合わせるなら、体力や嗜好の違いとか薬飲んでいるとか病院で検査予定だとかあるのでテーブルに並んでいるものを見ているだけになるだろうが、若い人をもり立てようとするなら若い人も年寄りと盛り上がるかもしれない。
 若い人がモリモリ食べると年寄りは喜ぶ。食事をバリバリ食べる若い人の発展を期待しているから。あくまでも仕事がうまくいくことが前提になっている。モリモリ食べてバリバリ働く。期待されている。
 健康から考えると本当は年寄りに合わせてあっさりとしたもののほうが良い。そうすると仕事にあまり関係ないようにして楽しめるかどうか、が問題になっているのがわかる。それでも、うまくいってなさそうな若者には元気を出してもらうために飲め飲め食え食えで励ますが、今はそんなことしないで皆様ブレーキがかかっている。

 若者は仕事をするのでパワーが出るといわれているものを選び、老人は薬の関係や健康からカロリーの少ないあっさりしたものということで、嗜好が分かれてしまう。若者は明日の仕事をがんばるためあっさりではダメと思っているからボリュームたっぷりにしないと嫌われる。宴会でも仕事でも健康かそれとも対人関係かのどちらかを選ぶしかない、の考えが頭の中にある。

 そういうわけでこれからの若者に合わせてカロリーたっぷりにすれば喜んでもらえる。いっぱい高カロリーを並べておいしいと若者が喜ぶと年寄りも喜ぶのでみなさん大喜び。

 ものぐさ人間はこの関係を知らんふりで低カロリーをさらに下回って超低カロリーのことをやっているので相手にされない。

 明日があるのにーーーーー時間を消耗しているかわりに体力つけさせてーーーーー

 平行線は交わらないから、お好みのようにして気に入ってもらうようにするしかない。
 
 実際には、何と言おうと宴会の翌日何の支障もなく動けるのは低カロリーのほうなので、そういうことはみなさまお分かりなのでほどほどに
しているようだ。

 仕事を忘れて思う存分とことんやるか、それとも健康第一でとことん行くか。ほんの少し前は仕事を忘れとことんだったらしい。割りきって仕事をしていたのかもしれない。それに抜群の体力を持っていたことがわかる。体重以上のものを持ち上げ運んでいた。それも橋としてかけられた30cm幅の板の上を。長時間のお付き合いの飲食も体力があったからできたことだ。
 そんなに昔のことではないので、どうしても当時の延長上で考えている。仕事と健康は一つのものだと考えるようになったのはこの頃のことだが、ちょっと前は仕事と仕事でどこまでも仕事だった。
 お付き合い最重要、飲食は二の次、と考えていたのかもしれない。飲食品が充実してきたのはこの頃で、いつも仕事なんでも仕事の時代はきまりきったものの飲食で満足していただろう。

 健康を考えて宴会に出席するのが当たり前になり出席者は本当に静かになった。豊富に出回っている時代にきまりきったものしかなかった時代のような仕事第一の宴会は時代遅れになった。
 胃腸ガンガン酷使の時代から頭が満足するように頭がピリピリするように変わってきた。ものすごく穏やかになって頭の体操になってきた。体を使うことから頭を使う時代になって昔のような強烈な宴会は合わない。体を使わないなら穀物菜食で、とお願いしたいが体力勝負のところで遅れをとる、と思われているのでまだまだーーーーー

 仕事を考えて高カロリーなら、仕事抜きでやれば明日も普通の日のように過ごせる。普段のように頭が飲食している状態にすれば良いわけだが、なぜ、胃腸ガンガンにモードを切り替えるのだろう。体力消耗の時代ではない。

 挨拶で、頭で食べて下さい、なんて言えないし、まして少食にしましょうなんて言えない。

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