歴史学者で一橋大元学長の阿部謹也氏が死去
(2006年 9月 9日 (土) 16:53 読売新聞)
先日『かっこいいスキヤキ』を買いなおしたときに、送料無料の金額に足りないので一緒に買ったのが阿部謹也氏の『自分のなかに歴史をよむ』でした。
これも何かの縁かと一気に読了。
阿部氏は80年代に庶民の視点、被差別民の発生という視点からの歴史の新しい読み方として、日本史の網野善彦氏とともに登場し話題になりました。
両氏とも視点の斬新さとともに、研究する楽しさが伝わってくるような語り口が魅力でした。
(阿部氏の『中世の星の下で』は引越しや本棚の整理を20年以上も生き残っている数少ない本です。残念ながら絶版になってしまったようですが、文庫は中古で手に入るようです。また、『阿部謹也著作集(1)』に代表作『ハーメルンの笛吹き男』とともに収録されています。)
本書は、「ちくまプリマーブックス」という初学者(中学生以上?)向けのシリーズの中の1つですが、それだけに、より学ぶことの楽しさ、というものが伝わってきます。
少年時代の生い立ちとキリスト教にふれるきっかけから学生時代の恩師上原専禄先生との出会い、ドイツ留学、そして阿部氏が小さい頃の修道院との接触以降持っていた「なぜヨーロッパは日本と違う社会を作り上げてきたのか」という疑問(それはすなわち「ヨーロッパとは何か」という疑問でもあります)の答えが11,2世紀にキリスト教の浸透とともに起きた「人と人との関係の変化」にあるのではないか、そのなかでキリスト教の神と救済の価値観が人々の従来からもつ自然への畏怖、そういう自然を相手にする特別な職業に従事する異能力者を賤視するようになったことの発見につながっていきます。
あとがきから
結局は自分と周囲の関係をどのように理解してゆくか、そのなかでどのように行動してゆくかという問題からはじまって、私の研究はヨーロッパ中世にまで広がっていったのでした。
若い学生諸君に歴史学とは何かという問題について語ろうとすると、私には歴史学のあり方を客観的に叙述し、描写することはできないのです。私にとって歴史学はこのようなものでしたと語る以外の方法はないのです。なぜなら、私にとって歴史は自分の内面に対応する何かなのであって、自分の内面と呼応しない歴史を私は理解することはできないからです。
こういう人の書く本は、間違いないと思います。
「外務省のラスプーチン」こと佐藤優氏は著書の中で「自分のやりたいこととできることは違う」と繰り返し言っています。
私もそれは職業人としては必要な心構えだと思います。
ただ、そこにさらに「自分の内面と呼応する」何かがあれば「艶のある」仕事ができるんですけどね・・・
PS 同じシリーズが元になった網野善彦『日本の歴史をよみなおす』もお勧めです。