<防衛庁>新「軍人恩給」を検討 退職自衛官、年金に上積み
(2006年9月10日3時8分 毎日新聞)
防衛庁が退職自衛官のため、旧日本軍の「軍人恩給」に準じた新たな恩給制度の創設の検討を極秘に進めていることが9日、分かった。国際平和協力活動への参加、有事法制の整備などで、自衛隊の性格が変容したことを受けた措置。退職後の保障を手厚くすることで、優秀な人材を確保する狙いもある。旧軍の制度に近づけるという方向性や、一般公務員とのバランスをめぐって論議を呼ぶのは必至だ。
公共のために危険な業務に従事する公務員には一定の上積みの補償や手当が必要だと思います。それが事前(手当)なのか事後(年金)なのか補償(共済)なのかについては危険の性格などを考えて議論すればいいかと。
いずれにしろ「極秘」にする必要もなければ、スクープとして鬼の首を取ったように一面で報道するようなことでもないのではないかと思います。
自衛隊について言えば、武器や航空機・特殊車両などを扱って災害救助活動や自衛のための防衛活動は少なくともするわけです(民間航空会社のパイロットも、高所得のかなりの部分が手当だそうですし)。
あとは国連平和維持活動に派遣すべきか云々は政治(国民)が決めることだと思います。
危険な任務には自分の代わりに勝手に従事してもらって、面倒は見ませんよ、というのでは、誰もそのような職業につかなくなるわけで、さらにそのような条件でも危険な職業につかざるを得ない、またはつきたがる人だけしか従事しないのでは、武器を扱い、緊急事態の際に活動する自衛隊としては非常に危険だと思います。
雪斎さんのところで取り上げられていた日下公人さんのコラム「「心情」から語る靖国論(1)」につぎのくだりがありました。
(防衛問題評論家の)志方さんが、自衛隊と靖国について興味深い話をされていた。 サマワへ行った自衛隊が帰国したとき、「1人も死なないで帰ってくるとは、こんなうれしいことはない」と志方さんは言った。「サマワへ行ったのは全部自分の部下だった人たちである。誰か3、4人は死ぬんじゃないかと思っていた」と。
志願者の中から500人、あと100人足して合計で600人の自衛隊員がサマワへ派遣された。その自衛隊員たちの多くが幹部に「死んだら1億円くらいくれるらしいが、それはいいとして、靖国神社はどうなのですか」と質問したそうだ。
そこで幹部は、そういう隊員たち10人くらいを引き連れて、お正月に靖国神社に行ってお参りをして、宮司に会い、「わたしたちは靖国神社へ行けるんでしょうか」と聞いた。
宮司の返事は、こうだった。
「とんでもない、あなたたちが祭られるはずはないんです」。
理由を聞くと、「まずあなたたちは軍人じゃない」。確かに、昔から自衛隊は軍隊じゃないと言っているんだから、それはそうだ。「それから、戦死しなきゃダメなんですよ」とも言われた。
「サマワへ行って死んだって、それは戦死じゃありません。事故死か何かです」というわけだ。確かに「サマワには戦争に行くんじゃない」と、首相は国会で何度も繰り返し言っていた。
要するに、「軍人でない人が戦争でない理由で死んだのに、靖国神社に祭るわけがないだろう」という扱いだったと、志方さんはおっしゃっていた。
そもそも靖国神社に自衛隊員を祀るべきかの議論以前に、靖国神社のほうで「英霊」しかまつらない、と拒否してしまったわけですね。
そうであればなおのこと、死者の霊を祀るという風習のある日本では(これが靖国神社擁護論の一つの根拠にもなっていましたが、このこと自体は確かにそうかと。)、国のために危険な公務で命を落とした人のための施設(会館とか記念碑とか)は別に必要ではないかと思います。
宗教法人なので「教義」に従った判断をしたまで、ということなのかもしれませんが、靖国神社にとって自らの首を絞めることにつながる発言だったのではないでしょうか。
そもそも「国のために命を落とした人への鎮魂」の範囲が一宗教法人によって決められてしまうのはおかしいですよね(というかそもそも靖国神社は「英霊」の鎮魂しか考えていなかったので余計なお世話か?)
また一方で、上の自衛官たちも「靖国神社に祀ってやるから補償はなしだ」と言われたら、さすがに大半の人は命令がなければ行かないんじゃないかと思います。
なので、公務に伴う危険の補償は「軍人恩給」などと刺激的な言葉を使わずに、慰霊の問題とは別に冷静に議論する必要があると思います。
そもそも(アミニズムのような信仰に近いものを除いた教義のある)宗教は、より素朴な「死者への敬意」とは両立しないのではないでしょうか。
おととい触れた『自分のなかに歴史をよむ』にも、キリスト教がヨーロッパに広まり始めたころの逸話があります。
あるゲルマン人の族長は、司祭のすすめで洗礼盤のなかに足を入れようとしたとき、司祭に、天国に行っても先祖に会えるかとたずねました。司祭はあなたの先祖は洗礼を受けていないからみな地獄にいるので、会えないでしょうと答えたのです。すると族長は、あの世で先祖に会えないなら、自分はむしろ先祖に会える地獄に行くといって洗礼をやめたと伝えられています。
先祖や死者への鎮魂の気持ちというのは、宗教の教義を越えるような紐帯であってはじめて本物といえるのかもしれませんね。